汝の美と為すに匪ず、美人の貽なり。この花が美しいのは君がくれたものだから、なんてね①
新章、秋編です。
秋の夜の空気は清い水のように清々しく、浮かんだ月は明るさをもって清冽さを示している。月に照らされた木々が微かに紅葉を示していた。
短い夕暮れが終わり、ふわりとした長い夜である。庭に出て夜空を見上げるのに良い日であった。――が。士匄は、酒精漂う部屋でバカのらんちきを見るはめになっていた。
若い晋公と欒黶がはしゃいでいるのである。晋公は酒が入りすぎて、ろれつが回らない。欒黶は下戸であり、一滴も酒を呑んでいないくせに、酔っ払ったようにテンションが上がっている。いわゆる、雰囲気酔いというものであろう。
「我が君は、まあ……引き際を知らぬ」
士匄は小さく吐き捨てた。酔う前にさっと解散させぬから、醜態をさらしている。酒に強い士匄は、ほとんど酔わぬまま、苦い顔をした。
別段、酒席が嫌いなわけではない。晋公が苦手というわけでもない。単に、つまんねえ呑み会が不快なのである。士匄は、誰であろうと己を拘束するものを嫌がった。それは君主でも変わらぬのだが、まあ、立場上頷かねばならない。
「あの、お注ぎいたします」
空の酒杯を見て、侍っている女官が言った。この時代、正式な宴席に女官は侍らない。食事の儀は男の世界である。つまりこれは、晋公の極めてプライベートな遊びであった。己の所有物を見せびらかしているのである。
それなりに見目の良い女官は、初めて見る顔であった。士匄は他にも新顔の女官がいると思いつつ、酒を飲み干した。
せめて、秋の夜長を少しは楽しめれば良いが。微かに開いた窓から見える月を眺めながら、士匄は肩をすくめた。
結局、士匄は、その夜長をほとんど楽しめず、気づけば朝であった。自邸にも帰らず、君公に侍ったまま、酒に酔ったように意識を失い宮中で一泊。士燮が知れば、噴飯を通り越して怒髪逆巻き冠を衝くというものであった。
士匄はうんざりした。
彼は父の怒りに触れると嫌気が差したわけでもない。己の失態に対しては、少々の苛立ちはあった。しかし、それでうんざりしているわけではない。
士匄の腿に絡みつくような、女の手があった。透き通るような白は、農耕民ではなく屋内の端女であることを示している。実際、乱れた衣も、良い色合いなのだろう。公室の飾りである、見栄えは良くなければならぬ。
その衣は、暗い朱殷の汚れが目立つ。どす黒くなった朱色を朱殷と言う。つまりは、血の色である。
その女が美しかったかどうかなど、士匄は覚えていない。昨夜、侍った女であろうか。
女は腹を破られ死んでいた。刃物の傷というより、むりやりこじ開けひらき、肉をむしりとりながら破ったような傷で、そして死因らしい。肉片が飛び散り、士匄の頬にも飛んでいた。何より、士匄自身が返り血のように血飛沫で汚れている。
「胎……か。何者かは知らん、穢らわしいことだ」
士匄は吐き捨てたあと、誰かおらんか、と声を上げた。宮中の一室である。呼びつけて来ぬでも、待ってれば小者が来るであろう。わざわざ立ち上がって騒ぐのは、気に食わない。血の臭いで吐きそうな部屋の中、士匄はやはりうんざりしていた。
誰がどのように殺したのか、なぜ殺したのかなど、どうでもいい。禁中で死体に会わせるなど、絶対に許せん、と不快である。死は不詳である、しかも不審死である。さっそく、体が穢れ、霊や瘴気がまとわりつき始めた。その中にこの女の霊がいるかはわからない。
彼は己が疑われるなどつゆほど思っておらぬ。士匄が公室の女官を殺す理由はない。誰が疑おうとも、己には無い。そして、たかが公室の女官と、六卿四席の嗣子と、どちらが重みがあるか。この当時、命に軽重はあり、平等ではない。若い君主は己の小さな持ち物より未来の重臣を選ぶであろう。
「……わたしに罪を被せようなどという浅はかさでこうなったのであれば――絶対に引きずり出して、手足をもぎ生きたまま晒してやる」
物騒なことを呟きながら、士匄は人を待った。
さて、秋である。豊穣、新嘗祭、オクトーバーフェスト。人類史において、春と並んで愛される季節である。
せっかくなので、時間を一日巻き戻して清々しい朝のほうからお送りしたい。
春はあけぼの、とは本邦で有名な言葉であるが、秋の夜明けも良い。秋暁とも称されるそれは、冷たくなってきた空気が清々しく、熟れた果実のような柔らかい明るさが夜闇を塗り替えていく。
そのような夜明け頃、韓無忌は常に参内している。父親である韓厥もそうであり、この親子は夜も明けぬうちから出立し、門が開く頃に宮城へ到着する精励さを持つ。
韓氏という一族を一言で表せば、謹厳実直であり、まるで身の詰まった硬く重い樫の木のようであった。まあ、父に比べて息子はまだ、どこか柔らかさがあったが、同期の若者たちと比べれば十分に重厚である。その生真面目な重さに士匄は時折鼻白み、荀偃は身をすくませている。
さて、韓無忌は始業前に庭を散策することがある。小規模な韓氏の邸に比べ物にならぬほど、宮城の庭は広い。ただ美しく見せているだけではなく、世界の縮図のようなところもある。季節ごとの華やぎを楽しめる場でもあった。
前述しているが、韓無忌は弱視である。すべてのものはぼやけて見えている。その上で視界に欠損があり、なにもないと思っていた空間にいきなり木が現れることもあった。欠けた箇所を脳が勝手に処理するため、都合よい幻覚が視界を埋めているのだ。しかし、そのようなときも彼は驚くことなく歩く。そして杖を使いながらであったが、介添もなく進む。初めて宮中に参内してからもう十年は経つため、慣れがある。それ以上に、青年期をそろそろ脱しようというこの男は、冷静さと胆力を持ち合わせていた。その冷静さで慎重に歩き、胆力で迷いなく進む。彼の人生そのものでもある。
さて、この日も薄い視界に映る秋の様相を楽しみながら韓無忌は宮中の庭を散策していた。
「これは……菊か」
爽やかささえある、花の香りに韓無忌は立ち止まってあたりを見回した。視界に白、黄、薄緑、淡紅などが入り混じったかたまりが現れる。
他の者であれば、そのひとつひとつの美しさ、可憐さを見ることができたであろうが、韓無忌にとっては、群れは一つの塊でしかない。が、彼は知識として菊という小さな花を知っている。
韓無忌は、やはりまだ稚気を残しだ青年だったのであろう。彼は近づき手を伸ばそうとした。どこが本当の花なのか、どこからが都合の良い嘘の視界なのか、わからないままその花弁を触ろうと身を少しかがめた。彼にとってもう一つの目が指先なのである。
無理な姿勢になっていたらしく、体重がかかりすぎて杖が、たわんだ。気づいた韓無忌はとっさに手を離してしまった。勢いよく弾かれた杖は、思ったより遠くへ落ちたらしい。カランという軽い音は足元のものではなかった。
②、③に続きます