冥冥に視、無声に聴く。人間、見えないものを視て聞こえない声を聴けたら立派だね①
閑話です
夏の後、はるか先のモラトリアムの果てをご覧戴いた方々へ申し上げる。成熟しすぎた秋から少々時間を巻き戻す。青年期を超え、少年期である。
古詩故実典礼。そういったものを一通り学び終えたほど、思春期の手前であった。いまだ少年くさく声変わりもしていない士匄は、父である士爕に連れられて時の正卿の邸へ行った。その年、晋は東の大国斉に完勝している。その挨拶も兼ね、また、士匄の顔を見せに行ったらしい。このらしい、というのは士匄の想像だからである。
この正卿は士匄の祖父に私淑しており、父の兄貴分だった。士匄をかわいがってくれていたが、この少年はとくにうれしくもない。正卿が矮躯で見た目もよろしくなかったからである。少年というものは得てして表面の美醜で判断するものであり、士匄は特に美意識が強い。子供は残酷であった。が、さすがに表には出さずおとなしくかわいがらせてやっていた。
さて、大貴族の令息の義務として、年配にかわいがらせてやろうと、士匄少年は士爕と共に邸に踏み入れた。
その、瞬間の、怖気、嫌悪、不快、圧迫、脅威、危難、それら全てを士匄は一生忘れないであろう。
士爕が出迎えた正卿にていねいな礼を返している。士匄はガチガチと歯を鳴らし、この大人どもは何故アレを無視できるのだ、と凝視した。アレを視界にいれまいと必死である。が、人間は恐怖を確認してしまうものである。目が勝手に追った。
「何をしている、匄」
士爕がつったっている息子を小さく叱った。正卿も不思議そうに見てくる。士匄は頭の回転は悪くない。どころか、良い。すぐさま、二人にはアレがわからぬのだと気づいた。
彼らは、多少の不祥であれば気づく普通の人間である。多少を超えた大きすぎるものは、目に入らぬのか、と士匄は初めて知った。人は許容量を超えるものを認識せぬよう、閉め出すことができるのである。――士匄は不幸なことに、許容量があった。
室に通されても、ソレは視界に入った。邸に入らねば見えなかったということは、保護されているのか居座っているのか。
柱。はるか天まで伸びる柱に見えるそれ。
大量の瘴気が、まるで一本の柱のようになって、邸を貫き天まで勢いよく巻き上がっている。
士匄は、二度とここに来ないと誓った。何故いきなりこんなものがあるかなど、知らぬ。しかし、絶対に、ここには来ない。逃げたい、怖い、死ぬかもしれない。年の頃十二才の子供は、泣きたいのをこらえて、引きつった笑みを見せ続けた。彼の忍耐はこの時に使い切ってしまったのであろう。
夏の最中に戻る。雨期独特の湿気を含む風は生ぬるい。じわじわとした暑さが室内に充満している中、青年士匄は士爕に呼び出されていた。
「わたしに、郤氏へ挨拶に伺えとおっしゃるのですか! 父上は」
士匄は悲鳴のような声をあげた。士爕が、眉をしかめ、睨み付けてくる。
「このたび、我が家は外壁を補修せねばならぬ。そのための、良き土がある領地は郤氏の所領に近い。大勢のものどもが動くのだ、騒々しくご迷惑をおかけするやもしれん。先に挨拶しておいたほうが良い」
動員される民は戦時に兵となる。そもそも、土木作業をするものが兵であることは古今東西多い。士爕は、郤氏が警戒すると思っており、それは的外れではない。両家が緊張状態にあるというわけではなく、そのような時代であった、とだけ言っておこう。
「わ。わたしは、郤氏の方々とたいして面識無く、親しみもなく、青二才ですし、その、当主である父上がご挨拶されるのが、きっと、先方も安心なされます、そう、きっと、そ、う」
この青年は、弁舌爽やか押し出し強し、が売りなのだが、ここには欠片の先も無い。言いよどみ、口ごもり、なんともみっともない言い訳と弁である。
「……匄。何故、我が邸の壁が崩壊したのか、忘れたわけではあるまい」
全ての感情が抑制されたような、埋まった士爕の声に、士匄はうぐっと呻いた。幾重にも塗り固められた堅牢な土壁は、先日一人の巫女によって破壊された。士匄の目算が甘かったためである。
「私は、壁が壊れたことを怒っていない。しかし、むざむざと壊されたこと、備え足りぬ。また、嗣子ていどが、他家の大事の責を負ったこと僭越である。急を要したとの抗弁はとうてい受け入れがたい。汝は一晩、中行伯をお泊めした。その間、私に報告できたはずであろう。――が、その言い訳を今や尋ねる意味も無い。責を取るなら最後までせよ。汝は己の不覚で我が邸の守りを打ち砕かれたのだ。さて。損なったものは私の財で補おう。土も民も士氏の財、すなわち主である私の財だ。無駄な労でもあるが、当主として行わねばならぬ」
この国には塩湖がある。冬になると塩の結晶で凍てついた氷原のようにもなる。父の目は冬の塩湖のように寒々しく、重かった。
「私はこれ以上の言葉を重ねたくない。言わせるな、匄」
士匄は、大量の塩を飲み込んだような顔をしながら、拝礼した。
それ、で。
「なぜ、私が同行せねばならないのですか」
呼び出され、問答無用に馬車に乗せられた趙武が、うんざりした顔で言った。口を尖らせていても見事に美しい顔である。士匄もうんざりした顔をしていた。
「お前もその場にいたのだ、同罪だ同罪」
「……我が趙氏の財をお出しして贖うことはできますね、降ろして下さい。士氏の嗣子としてご挨拶に伺うのでしょう、私がいるのは筋が通りません」
趙武の毅然とした言葉に、士匄はますますうんざりした。確かに、一連の騒ぎに趙武は関係していたが、この『ご挨拶』は士氏の話であった。趙武を連れて挨拶へ行くのは筋違いではある。
「……お前は趙氏の長だ。郤氏は前正卿のお家、今も勢力の強い一族だ。挨拶をしていても損ではあるまい」
強い家と繋がるのも悪くはないだろう、という士匄の言葉に、趙武がさらに眉をしかめる。
「若輩の身です。そのような方々と交わるのは身に余ること、私を養う韓氏も良い顔はいたしません。はっきり言うとよけいなお世話というものです。私に一緒に来て欲しいなら、そうおっしゃるのが筋というものじゃあないですか。それを何やらこじつけて、みっともないです」
趙武の言葉に士匄は苦虫を噛み潰したような顔をした。この後輩の言うことは、全くもってそのとおり、である。士匄は一人で行きたくない、しかし格式が上の家に家臣は入れない。外に待たせることになる。考えた末、ちょうど良いのが趙武だったのである。
一緒に来て欲しいと言えば、理由を話さねばならぬ。士匄は重い口を開いた。ちなみに、理由など言わなくても、頼むから一緒に来て欲しいと真剣に言えば、趙武は引き受けていたであろう。士匄は理由が無ければ納得しないが、趙武は真心さえあれば頷く人間である。士匄は、言わぬでいいことを口に出しているのであった。
「あの邸が嫌なのだ。子供のころ、不祥を見た。それ以来、一度も足を向けておらぬ。二度と行かぬと己に誓っていた」
趙武が真剣な顔で頷いたあと、首をかしげた。士匄は不祥など見慣れている。いくら子供のころに見たからと言って、未だに嫌だと駄々をこねるのは不自然であった。趙武はたやすくひとつの答えにたどりつく。
②、③に続く




