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豈爾を思わざらんや、遠くにして之に到るなし、センチメンタルジャーニー①

夏は星狩りの季節、エピローグ

 さて、夏が終わり秋である。この秋は、青春が終わったあとの話であるが、ご容赦願いたい。


 夢を見た。丘の上で巫覡(ふげき)と出会う夢であった。

 荀偃(じゅんえん)は、あれは梗陽(こうよう)である、と気づいた。(じゅん)氏の領地であった。

「私の首が落ちていたなあ」

 己の首を触りながら、ひとりごちる。秋の少し肌寒い空気が、首筋をひんやりさせた。夢の中で荀偃は先の君公(くんこう)と争いになり、(ほこ)で首を切り落とされた。荀偃はひざまずいて首を拾いあげ、それを両手で持って走った。――走った先で、()()と出会った。

 夢というものに整合性は無い。それが現代の見解であるが、当時は違う。夢は脳のメカニズムではなく、なんらかの情報である。

 己の両手を広げ、荀偃はじっと見た。そこには、もちろん自分の首は無い。繋がっている。手の平は厚く、しわも深くなっていた。はるか昔、食べることが下手すぎて、痩せ細ってしまったことがある。それが嘘のように、少々の脂肪も見える壮年の手の平であった。

「あの頃、少しだけ父上は美味しそうに食べておられた。それで良かった」

 痩せこけてしまった時期、少々の悶着があったが、荀庚(じゅんこう)も荀偃も、大きな問題にせず、誰かが責をとって血を流すようなこともなかった。食べるということは生きることである。それを人任せにした荀偃が愚かだったのだろう。

 まあ、荀偃の人生など、人に任せたものが多い。己より権威があるもの、個性が強いものに引きずられるように生きた結果、政変では君主殺しに手を貸し、戦争では決断できずに自軍が崩壊した。荀偃は、他者に任せたに相応しい人生を送っていると言えた。

 きしむ体を支えながら、荀偃は起き上がって庭に出た。竜胆(りんどう)がそろそろ花開きはじめ、秋の様相が見えている。まだ、紅葉にいたっていない木々は、青々としていた。空は高く、つきぬけるようであった。夏にあった入道雲はかき消え、刷毛(はけ)で薄く掃いたようなすじ雲が澄んだ青空を淡く流れている。

 朝のにおいは、爽やかさより、どこか熟したものを感じた。涼しさから寒さへと変わっていくこの時期、中原(ちゅうげん)は実りの季節でもある。

「梗陽に行こう」

 荀偃は、穏やかな朝日を見ながら一人頷くと、家宰(かさい)を呼んで、差配させた。さて、荀偃は中軍(ちゅうぐん)(しょう)、則ち正卿(せいけい)である。一国の宰相がいきなり休む、となるのであるから、本来は問題であろう。が、荀偃よりも中軍の()である次卿(じけい)のほうが有能であり、国を動かしていた。そもそも、上軍(じょうぐん)の将であった荀偃を、

 ――年上の方が正卿をするが序列というもの

 と、己は中軍の佐据え置きで、荀偃を推挙したのが今の次卿である。この政治家は荀偃を神輿にして動いた方がやりやすい、と思ったのかもしれぬ。事実、荀偃は任せきりにしていたし、任せなかった戦争では、見事に大惨事となった。

 そうであれば、今回の、どうでもいい休暇願いもお伺いを立てるべきであったが、荀偃は珍しく独断した。己の夢の話である。それは、荀氏という氏族の運命に関わってくる可能性もある。他家に言う必要無し。このあたり、荀偃にはまだ当主としての意識はあったのであろう。

 五十路半ばの壮年が、ゆったりとした自領見物、と家臣どもは思ったらしい。実際、荀偃も動く馬車から和やかに景色を見て、時々詩を(ぎん)じた。


 (じょ)有り(くるま)同じくす

 顔舜華(しゅんか)の如し

 ()(こう)()(しょう)

 佩玉(はいぎょく)(けい)(きょ)あり


 いつも見ている貴女であるのに

 共に車に乗って顔を見やれば木槿(むくげ)が咲いたように艶やか

 君はとても身軽く、立ち振る舞いなせば

 腰に()びた(けい)(きょ)美玉(びぎょく)が快い音を立てて鳴る


『随分色っぽい詩を吟じられて。いやあ、中行伯はまだ華やいでおられるか』

 などと、士匄(しかい)がおればからかってきたであろうが、ここには荀偃だけである。ぼそぼそとした声が、秋の高い天空へ溶けて消えた。

 はたして。

 はたして、巫覡は丘へ向かう最中の道でぬかずいていた。荀偃はその姿に微笑すると、ゆっくりと馬車を降り、巫覡の――巫女の前で立った。

「私はお前の夢を見たのだ。こう、首が落ちたので、持って走っていたら、お前に行き会った」

 手で首を受け止め運ぶしぐさをしながら、荀偃はにこやかに言った。凶事の夢の話をするような様子はなく、へにゃへにゃと、腰のすわらぬ話し方であった。

「あたしも同じ夢を見ました。あなた様が首を持ち、あたしの前まで走って参りました」

 巫女は、ぬかずいたまま、静かに言った。中年と言って良い女であった。粗末な葛衣(くずい)は、秋には寒々しい。地についた指は、先が欠けていた。巫女は、ぬかずき顔を上げないまま、言葉を続ける。

 ――今年、主必ず死せん。

 荀偃は静かに聞いている。巫女の声も静かであった。

「……あたしは夢を見て、あなたも同じく夢を見ました。我が主とお呼びいたします。主は今年、死にます。もしも、東方で事が起こりましたなら、思う存分のことをなさってください」

 そこまで言うと、巫女は黙った。黙り込んだというより、終わったらしい。荀偃は、それでも待ったが、巫女は何も言わぬ。

「終わりかな?」

 このようなところは変わらない。荀偃は言わずでもいいことを問うた。巫女は、さようです、とだけ返した。

「ありがとう、(こう)。私はこう……思いきり生きるということを考えたことは無かったけど、やってみよう」

 のんびりとした荀偃の言葉に、巫女は、皐は顔を上げた。鼻を赤らめすすり、目から涙を流していた。荀偃が身をかがめ、貴人のくせに、薄汚い巫女に手を伸ばし抱き寄せた。

(はく)さまにあたしは、吉をお運びできず、不甲斐ない従者でございます! ああ、伯さま! あなたのこれからに(さち)あらんこと」

 があがあと、鴨のような泣き声をあげながら、叫んだ。この皐が、どのように身を修め、巫覡として力を得たのかなど、わからぬ。荀偃のこれからなどと言うが、秋の託宣である。あと数ヶ月で終わる。五十数年のぼんやりとした汚名の人生の先に、数ヶ月の幸せというものはどのていどの意味があるのであろうか。

「お前が最初にくれた喜びを、私は善きものとしよう。最後にくれる喜びを善きものとし、私は黄泉(こうせん)へ向かう。お前は荀氏の巫覡ではない。しかし、私の巫覡であった」

 そう言うと、荀偃は皐から離れて座り、拝礼した。皐は、必死に返礼したあと、

「うわあああああ」

 と号泣していた。荀偃はその泣き声に、達者で、と声をかけたあとに馬車に乗って梗陽をあとにした。

②に続きます

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