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易に太極、是れ両儀を生ず、宇宙から全て生まれてきました!②

 瘴気(しょうき)の渦が止まり、重圧がかき消えた。目の前の饕餮(とうてつ)も、(こう)も、まぬけな荀偃(じゅんえん)もそのままに、星々が空を流れ、動き、光の線が彩っていく。その流れる光から光へ、空から獣が駆け下りてきた。静かに、蹄の音ひとつなく、士匄(しかい)と、贄として差し出されている趙武(ちょうぶ)の目の前に降り立った。

 羊の体に牛とも馬ともつかぬ顔であった。額に生えた角は一本、真っ直ぐに伸びている。そのふわふわとした毛は何でできているのか。濃く黒い体毛のはずなのに、キラキラと光も風景も反射し、獣は鏡のようにも見えた。――額の角は、今、士匄がかぶっている高祖父の冠にそっくりである。

 一角獣は、全く感情の無い目で士匄と趙武を見て、後ろを向いた。今度は光から光へ駆けのぼり、饕餮の影を見る。小さな羊にとって、大きすぎる饕餮の口は黄泉(こうせん)への入り口にも見えたであろう。が、この矮小な一角獣は、臆すようすもなく、その角で饕餮を突いた。音さえしない、わずかな一撃で、饕餮は突き倒され、瘴気ごと消えた。

「……獬豸(かいち)

 趙武の声が虚ろに響く。

 瑞獣(ずいじゅう)である。吉祥の獣であり公正の獣、すなわち獬豸。理の無きものを突き倒す、法治そのものを体現したこの獣は、士匄たちにとって伝説上の生き物ではない。饕餮と同じく、いると信じている、しかし異界のものである。

 獬豸は法を尊ぶものが心留めておく獣でもある。ゆえに、法を司るものは獬豸(かいち)(かん)という帽子状の冠をかぶる。獬豸と同じ、一本の角を模している。

「じいさんの、『じいさま』か」

 山神をもてなすときも、饕餮が顕れる瞬間でさえ助け船を出さぬくせに、私心私情私欲を全て捨て、法と礼に殉じたと見て手を差し伸べたらしい。口から出た最後の一言は、高祖父の言葉だったのであろう。

 天命にて人が授かったは人性(じんせい)、人が人性に従うことを人道、人道を修めることを教えという。知恵が過ぎても、足りなくても届かない。

 偏ること無き(ちゅう)を以て常を為す。九刑(きゅうけい)を以て法を治め礼を示すのであれば中庸たれ。士匄は高祖父の顔をもちろん知らぬ。しかし、祖父である范武子(はんぶし)が好みそうな言葉では、ある。

 獬豸が荀偃をじっと見たが何もせず、皐を見る。

「いや、ちょっと待って!」

 荀偃が制止しようと手を伸ばすが、もちろん何の甲斐もなく、獬豸は皐を角で突いた。

「い、やああああ、あああああああああっ」

 手かせ足かせを嵌められたような姿勢で暴れ、血まみれの指先を振り回しながら皐が絶叫した。それは痛みではなく、悲痛の叫びであった。

 皐に寄り添うように倒れていた狍鴞(ほうきょう)が立ち上がり、北へと走りながら影に溶けた。同時に、荀偃からも狍鴞が抜け出て影に消えていった。皐が、それを見て、さらに泣きわめいた。巫覡(ふげき)として主へ義務は果たせず、己の奉ずる神は失われた。矜持と信仰、双方の喪失である。

 気づけば燦々(さんさん)と陽射強い、夏の空であった。抜けるような蒼穹には、雨期らしく遠くに入道雲が見えた。すでに、山神悪神瑞獣は立ち去り、人の世界が広がっている。

 じりじりと熱せられながら倒れる皐は、死にかけた蝉のようである。それを気遣わしげに撫でる荀偃は、優しいを通り越してお人好しがすぎた。彼は、真相が分かっても皐を庇うに違いない。そういう、先達である、と士匄は弾いた銅剣を引き寄せ掴み、立った。はずみで、高祖父の冠が床に落ちる。

 非礼にも趙武を跨ぎ、士匄は進んで堂を降りる。力強く迷わず、まっすぐと歩きながら銅剣の鞘を抜いた。士氏の巫覡が金、と称するように金色に磨かれた美しい銅剣であった。完全左右対称の文様が細かく飾られている。それは、神獣を(かたど)った幾何学模様であった。

 士匄は、惨めに倒れ転がっている皐に向かって刃をふりかぶった。荀偃が割って入り、身を呈して庇う。

「やめてください、范叔(はんしゅく)。皐はもう、充分に罰を受けてます。えっと、罰だって酷い」

 未だ、己がどうなろうとしていたか分かっていない荀偃が、枯れた声で必死に言いつのってくる。士匄は、うるさい! と怒鳴った。それは、猛炎そのものの、焼き尽くすような赫怒(かくど)に染まっていた。

「わたしは、その女を殺すと決めた。殺したいとずっと、ずっと思っていた。ああ! 一目見たときから、手と足を斬り、はらわた引きずりだして首を刎ね、庭に全て串刺し晒してやると、ずっとそうしたい、そうすると決めていた! あなたは淫祠(いんし)淫婦(いんぷ)に騙されただけ、哀れな被害者だ、主としたのは(はか)られただけ。そのようなモノ守る務めなければ権限も無い」

 士匄の怒号に荀偃が力なく首を横に振る。ガチガチと歯を震わせていた。それも、虎のように睨み付けられ、止まる。目が泳ぎ、皐を見て、士匄を見て、途方にくれる顔をした。それでも、場を動かなかった。意地ではなく、本当にどうしてよいかわからなくなり、動けなかったのだ。

「……あなたは、わたしが見てなければいつもそう。中行伯(ちゅうこうはく)はわたしの言うとおりにするがいい」

 怯んだ荀偃が、士匄を茫然と見上げた。その目は虚ろであり、脱力した体は、ぐにゃぐにゃと崩れてへたり込む。その痩せ細った体を士匄は無造作に軽く突き飛ばした。荀偃は、人形のように力なく、倒れた。その姿を確認することなく、今度こそ、剣を振り上げ、刃を落とそうとした。――が、悲しいかな、士匄の動体視力は良く、身体能力も良い。

「やめてください!」

 割って入ってきた趙武に、剣が止まった。己で自傷した足も痛いであろうに必死に走ってきたらしい。この後輩は、強い光を込めて、士匄を睨み付けてきている。美しいご面相が珍しく歪んでいた。

「どけ、趙孟(ちょうもう)。わたしは()氏の嗣子(しし)として、この侵入者を殺す。法の下、刑に処す。先達の行いに年下が口を出すな、どけ。お前を傷つけるわけにはいかん、それは筋が通らんからな。つまり、お前の行いも筋が通らん」

 低く唸る士匄に、趙武が強く首を振って、否定を表す。否。間違っている。そして、己の正しさを信じている顔であった。

③に続きます

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