飲食を貪り、貨賄を冒り、侵欲崇侈して、盈猒すべからず。飽食も贅沢もしつくし足りず強奪しても乾き飢え、満足したためしなし③
「あ、あ」
皐の体に描かれた文様が粉のように散らばり、霧散していく。異人の仮面がボロボロと崩れ落ちた。影にいたであろう狍鴞どもが、皐の周囲に寄りそい、怯え立ちすくんでいる。
趙武には、風が、空気が渦巻いた、と見えた。士匄には、重圧としか思えぬ神気と瘴気の渦が邸の上に表れた、と見えた。
「何か、影のようなものが、巫女に、降りて……」
趙武が目を見開いて、茫然と呟く。木陰、日影。そのようなものとは違うが、影、としか形容しようがないものが、巫女を覆うように降りてきていた。
が、士匄はそんなもの見えていない。何が影だこいつ、と叫びたいが、そんなことをすれば、ご機嫌をそこねてお帰り遊ばれるであろう。お怒りのあまり、こちらを蹴散らすかもしれぬ。
天を覆うほど大きな頭が、まず目立つ。厳かな賢人の顔で髭の長さは不老不死と神威を表しているのであろう。目は、人間の形であるが、ヒトの情などみじんも無い。見つめていれば発狂する、と士匄はすぐさま目をそらした。首から下は、うねるような蛇身である。雄大な稜線そのもののうねりであり、これは二首が統べる十六山六一四〇里を表しているのであろう。六一四〇里は当時の縮尺で言わば、約二五〇〇キロメートルである。その鱗ひとつひとつに陽光が反射して煌めいた。蛇は山の神であり、北は水を含む。そして蛇の鱗は太陽神の加護にある。北山にある三つの大いなる山霊。その一角を担うに相応しい。
人面だが目の無い羊。獣でしかない狍鴞は、気配で高位体に気づいていたのであろう。完全に体を伏せた。皐は、ガチガチと体を震わせる。己でさえ、ここまでの距離を以て主神山霊を呼ぶことはできぬ。大貴族の、上質な贄、玉、そして教養の粋を極めた口上あってこそであろう、と妬みさえあった。
強大すぎる異形の圧力に鼻血を出し、嘔吐しながらも、彼女は膝を屈せず、立った。怯える狍鴞を撫で、
「おとうさんをよぼう」
と小さく励ましてやる。
呼び出した山霊の圧力に耐えながら睨み付ける士匄を、皐はやはり圧迫に耐えながら睨み付け、一歩ずつ、歩いた。地が、重力に耐えかねるように沈む。その足をむりやり抜いて、また歩く。
士匄はこれ以上の言上はできぬ。残っているものは、あの神にお帰りいただく言葉しかない。が、動くことくらいはできるのだ。金を持っていけ、使え。巫覡は言っていた。士匄は、研ぎ澄まされた銅剣をそっと引き寄せる。
「伯さまは、欲が、必要! あたしに、その贄を寄越せ、財を寄越せ、知を寄越せ、伯さまを返せ、すべて、すべて、食う、食い、食わせる、食わせろぉ! お、お! おおおおおおおおお!」
皐が、獣のような吠え声と共に己の爪を強引にむしり取り、地に撒く。撒いてはむしり取り、指先が血にまみれ、激痛走ろうが、爪を剥ぎっては撒いた。
静かについて回っていた狍鴞が、赤子の声で泣きだした。ああーん、ああーん、ぎゃあああん、ぎゃあああん。夜泣きのようであり、遠吠えのようである。
瞬間、夏の陽光に照らされていた場が、暗闇に溶けた。中天に日あり、しかし闇に入る。陰陽を備え、神気と瘴気を纏っていた山霊が、膨れあがりつつある瘴気に飲み込まれ、声なき悲鳴を上げた。その、長い蛇の尾をのたうち回らせる。その鱗に日の加護は無い。
空に渦巻く瘴気から、ずう、と大きすぎる羊の蹄があらわれる。それは実体でないことくらい、士匄もわかった。趙武でさえ、それが見えた。
「な、にあれ」
枯れた趙武の声に、士匄が
「くそったれ」
と、貴族令息にあるまじき雑言を吐き捨てる。
それは、カタチしかなく、ご本人ではない。しかし、だから何だというのか。淡い影だけでも、一国を平らげることなどできるであろう。羊の体に虎の口、人の面に禽獣の瞳。大きすぎる羊の両角は美しい弧を描き、規則正しい螺旋をかきながら直状に伸びている。完全なる左右対称、歪な異形であるにも関わらず均整の美しさ。絢爛かつおぞましい、そして、全てを喰らいつくす混沌の一つ。
「貪って、全てを貪って、伯さまにそのすばらしさを、全てを食べることこそ生きること、勝つこと、ご教示ください、お恵み下さい! 我が神獣の父、四方の護り、饕餮!」
皐は指先を喰われながら、歓喜の声をあげた。
そのころ。士氏の巫覡はとんでもない瘴気と圧迫に身を苛まされながら、必死に護りの陣を整え続ける。卦を占い、毎秒ごとに変わる祀りの場を作り続けているわけであるから、邸の護りと場の護りしか見えぬ。ゆえに。
ゆえに、荀偃がいなくなっていたことに気づかなかった。気づきようもなかった。
「皐を、いたわってやらないと」
枯れ木のような体をかかえ、荀偃は歩き、その歩みはどんどん早くなっていく。彼は四つ足で邸を北へと走り抜けていた。