辞を以て人を尽くさず、言葉だけで人柄がわかるわけ無いよねえ①
馬車にて控える士氏の手勢たちは、夏の蒸し暑い中、少しだらけた姿勢で、主人を待っていた。いまだ日は高くなく、嗣子も長も帰る時間ではない。控えている小者の態度が家の軽重を問われる、と怒られることもない。が、予想に反して、嗣子が慌てた様子で現れた。しかも、人を連れて、である。気を失った荀偃、それを抱きかかえる士匄と趙武を見て、ただならぬことだと士氏の手勢は少しうろたえたが、傲岸な嗣子が
「さっさと出せ」
と怒鳴りつけてきたため、おとなしく従った。何が起きたのか、などと問おうものなら、蹴り飛ばしてきそうな勢いであった。当然、彼らには荀偃が気絶しているだけに見えている。よもや骨と皮ばかりが真の姿とは思わなかった。
広くもない馬車に若者三人、しかも一人は昏倒している。息苦しささえあったが、では降りますと趙武も言えぬ。己の馬車で追いかければ良いと気づいたのは、出発してからであった。
士匄が荀偃を膝に乗せ、静かに見ていた。その表情は彼らしくなく重いもので、体を気遣わしげに撫でている。やせこけた荀偃の体は衣服に押しつぶされそうなほどであり、趙武も困惑の目を隠さない。
ふと、場の空気の悪さに趙武は気づく。荀偃の体からじわりと瘴気があふれ、それが士匄にまとわりついていた。士匄といえば、ときおりうっとうしそうにそれを手で払う。払ってもまとわりつき、また払う。その仕草を見ているうちに、最近の士匄は不祥無く雑霊にもつきまとわれていないことに気づく。趙武は馬車の中を見回した。薬湯でもあれば、と思ったのだが、暑さをしのぐための扇くらいしか見当たらない。
趙武の動きで察したらしい士匄が口を開く。
「邸と宮城の往復だけなのだ、特に備えなど無い」
「范叔はお体がユルユルの方です。立っているだけで雑多な鬼が近づいてくるではございませんか。何の備え無くお越しになるのは、ゆるみすぎではございませんか」
士匄は苦い顔をした。趙武の言葉は正鵠を得ていたが、たとえが卑語すぎる。
「そのユルユルというのをやめろ。別にわたしは誰でも受け入れる尻軽ではない。鬼が勝手に寄ってくるだけだ。いやそれはともかく、だ。春の一件以来、強い護符を仕込んでいたのだ。が、それも先ほど全て消えた。まあ、そこらで漂う鬼が寄ってきてもおかしくないのだが、今はこれが強すぎて近づいてこぬらしい」
つい、と荀偃の袖をまくり、無数の石が埋め込まれた無惨な腕を示す。そこには石をむしり取った傷が布で縛られていた。馬車に乗り込みすぐに、士匄がほどこしたものである。趙武にはただ痛々しい腕でしかないが、士匄の目にはとめどなく瘴気があふれ出す不祥そのものであった。
「……理由は拾った巫女であろうが、中行伯は呪われているか祟られている。ったく、荀氏の巫覡は何をしているのだ、ここまでになるまで気づかぬなど。我が家の巫覡は優秀だ、なんといっても常にわたしの面倒を見ているからな。中行伯を預けたあとは、荀氏に出向いて問題の巫女を捕まえ罪を問い、処刑する」
それは極めて静かな声での死刑宣告であった。趙武が手が士匄の腕をそっと撫で、顔を横に振った。
「……それは僭越というものです、士氏の嗣子。あなたは実権をお持ちにならぬ養われる身。確かに卿になるべき者として認められ公族大夫の身分を与えられ、研鑽の日々を送っておられます。でも、荀氏の元におられる民を自儘にする権限はございません。中行伯のお父上のお許しが必要でしょう。それを越えてなさるのであれば、あなたではなく、あなたのお父上。士氏はかつて司空として都市や民の管理、そして法を整えられましたので、士氏の長が捕らえ罪を吟味ししかるべき処分なさるのは理がございます。しかし理しかございません」
一言一言を確かめるように趙武がまっすぐと見据えながら言った。士匄は苦虫を噛み潰したような顔をしたあと、舌打ちする。最後の、理しか無い、という一言一句まで、趙武が正しかった。
士匄は士氏という大貴族の嗣子であり、公族大夫という晋独特の身分を与えられている。この身分は職能があるわけではなく、卿の候補者として政治を支える程度のものであった。氏族を越えて罪を問うような権限は無い。それどころか、本来、氏族内の問題に口を出すことは非常識である。士匄の父、士爕や正卿である欒書であればできないことではないが、しこりは残る。理しかなく、士氏と荀氏の交誼は壊れかねない。
全てにおいて前に出ず、正道でものごとを進める士爕が士匄の望みを叶えるはずがなかった。
②に続きます