蔵を慢にすれば、盗を晦う、大切な宝が見えていると手を伸ばしてしまうもの②
ごん、と腹の奥を殴るような衝撃に、士匄は膝をついた。見やれば周囲は完全に闇であり、羽交い締めしていたはずの荀偃もおらず、かけよってきた趙武も見えぬ。脳内が明滅するような圧力を、泥流のように流し込まれ、体が破裂すると士匄は目を見開く。か、と枯れた声が口をついて出た。
このまま、立ち止まっていれば、己は壊れる、壊れないために、成したいことを成せ、己の欲望のまま、――貪れ、このままでは立ち枯れる、飢え渇く、己の望むことそのままに欲し、成せ、成したい、貪愛こそ至上であり、貪汚こそ本質、貪欲貪婪に、貪虐に欲深くどこまでも残酷に、己の欲を探し求め――
「うっるさい、わ!」
士匄は怒りと意地で立ち上がり、片足を思いきり踏みならした。その足音がドンと響いた瞬間に、圧力が引いた。士匄より引いただけであり、霧散したわけではない。ざあ、と士匄の頭から白い粉末が落ちていった。冠につけている魔除けで、犬の骨の細工である。犬の吠え声は魔を祓うため、霊感体質の士匄は春すぎから身につけていた。しかし、それはどうでもよい。
「わたしの、成したいこと欲などわたしが好きにするわ、指図をするな、くそが!」
この不祥――もはや怪異というべきか――は、こともあろうに士匄の裡になだれこみ、欲を際限なく膨らませようとした。士匄は強欲であり貪欲である。自己顕示強く、物欲も名誉欲も権勢欲も意地汚いほどである。それを成すことに躊躇はない。しかし、それがゆえに! 元々持っているもろもろを横からつついてくるなど、我慢がならぬ、許せるものか!
「言われぬでもやるわ! 誰か知らぬが指図するな!」
赫怒怨嗟込めて一気に吐き出すと、士匄は周囲を見回す。ぬめるような暗闇は消え、そこは宮中の庭のままだった。瘴気は未だ充満しており、それは足元で座り込む荀偃から発している。その荀偃は、土を手で掘りかき集めると、拝礼し、口に放り込んでいく。土などまともに全て飲み込むことなどできず、嘔吐し、今度は吐瀉物と混ざった土をかき集めて口の中に入れ食べ、えづいて吐いている。おいしい、おいしい、と微かな声が聞こえた。
「どこまで愚鈍なのだ、あなたは!」
士匄は荀偃を掴み、動く手を払いのけると口の中に指をつっこんで、腹に収まってしまった土をむりやり吐き出させた。ようやく荀偃が苦しい、と言って泣いた。これ以上食わせるかと抱え上げようとしたら、腕に食いつかれる。弱い歯が肉を食い破ることはなかったが、その目は本気であった。荀偃は本気で、士匄を食おうとし、必至に掴んでくる。士匄は顔を歪ませながら、それでも担ぎ上げ、今度は趙武を探した。あの後輩は、荀偃などよりはまだマシであるし、無欲でもある。たいして影響は、あるまいだろうが、しかし。
趙武は、ほんの数歩離れた場所で座っていた。常に所作美しい彼とは思えぬほど、幼いしぐさで、虚空に向けて笑顔を見せている。それもやはり幼い笑みであり、そして、無邪気でもあった。
「私、私はずっと恩返しをしたかった、そうです、ありがとうございます、思いとどまってくださり」
幸せそうに嬉しそうに何も無い空間へ、話しかけている。まるで誰かがいるように、乗り出して話している。
「程嬰がわざわざ黄泉に伺うことなど、必要ない。父祖への報告が私がします。程嬰はもう、何も心配なくゆっくりお過ごしください。長い間……本当に長い間、私を守ってくれたこと、育ててくれたこと、その無私のお心、慈しみ、感謝致します。あなただけです、あなただけなのです、私のことを見て下さっていたのは程嬰だけです」
いっそ戯曲のような光景に、士匄は思わず立ち尽くしぼんやりとした。気持ち悪い光景だ、とも思った。
趙武が、虚空へ手を伸ばす。幼児が親の愛を請うような笑みを浮かべたまま、その手を払われることはないと確信をもって手を伸ばしている。
「誰もおりません。だから、いいですか。いいんですね、二人だけの秘密です。じゃあ言います、呼びます、ちちうえ――」
趙武の言葉と同時に瘴気が意志をもったように凄まじい速さで舞い動いた。趙武が見上げている虚空に、人影ができあがる。指先から肉が盛られてゆき、影が実体と変わっていこうとしていた。壮年の男と思われる、どっしりとした影の足先に沓が現れ、厚みのある手の平も現れる。その手は、趙武を優しく撫でようと動いていた。
「く、そ、あのバカ!」
士匄は荀偃を抱えたまま数歩、駆け出した。走る、という速さなど出ようもない。しかし、それでもマシであろう。数歩、たった数歩である。あの、どう見てもヤバイあれを、なんとかせねばならぬ。なんと鈍くさい後輩だ、と歯ぎしりをする。あとは、反射であった。
③に続きます