山川に望し群神に徧す、つまりは引き継ぎ手順は大切に②
最も下席の趙武が、身を固くして唇を引き結ぶとしらず頷いた。常は上席から意見を言うことが多い。若年ゆえの責任に緊張しながら、少女めいた口を開いた。
「かつて文公に若くして仕えた箕鄭父はその言葉を良きとされ大夫と任じられ、側近の我が曽祖父である趙成子の部下となりました。これは、知恵者と評された趙成子にその教育をお任せになられたのではないでしょうか」
ひとつひとつの言葉を思い出すようにゆっくり言った後、
「えっと。だから、あの、卿の方々が我ら公族大夫をご教示するのも、その、前例ない、というわけじゃあないと思います」
と、ヨレヨレした口調で終えた。士匄は、バカを見る目そのものを趙武に向ける。
趙武は鈍い青年ではなく、士匄の侮蔑に気づき、不愉快な顔をする。例え未熟な発言だとしても、相手を侮り嘲るのは恥ずかしい人間だ、というのが趙武の価値観の一つであった。
顔を引きつらせ空気の悪さに戸惑うのは荀偃であり、どうでもよさそうなのか欒黶である。韓無忌は薄い表情を士匄に向け、
「范叔。先ほどなされなかったあなたの解を。趙孟を教導しているのは汝だ」
と、投げた。韓無忌が趙武に説明してやったほうが角が立たぬであろう。二人は相性良く家も仲が良い。が、舌鋒鋭い士匄に投げた。
容赦をするな、ということだろう。
士匄は舌なめずりせんばかりに、趙武を見る。
「文公はいまだ国が乱れていたときの名君だ。と、お子様向けの言葉では納得できぬであろうから、言ってやろう。箕氏が趙成子につけられたは、人手が足りぬからだ。悠長にお勉強会している我らと違う。実地で学ばせるしかない時代であった。そもそも、大夫は政治や教養を祖父や父、家の史官、邑の長老に教えを請う。その上で我らは公族大夫として卿の予行をしているのだ。学びの後に我らはそれぞれのお父上に侍り、本日の議を伺うこともある、問うこともある。常に卿の方々は忙しいが頼めば応じてくださろう、己で伏して願い出ろ。来てほしいなどと、怠慢にほどがある」
長々と、なされた士匄の『ご教示』は、言葉による暴力だった。趙武の事情も未熟も関係ない。知恵の回らぬ愚鈍、政情を甘く見る未熟者、待ってるだけの怠け者。趙武が下を向いた。いちいち正論であったが、彼にも事情がある。
趙武は祖父どころか父にも教えを受けていない。史官――家の記録者であり家庭教師――もいなかった。彼が生まれた時、趙氏は晋公により滅ぼされかけた。趙武が隠され育てられていなければ完全に滅びきっていたであろう。晋人であれば誰でも知っている事件であった。
その上で、貴族的な常識を知らぬ、と士匄は言ったにも等しい。
「……趙孟。汝は学ぶこと多き者です。范叔の言葉は厳しいが理はある。未熟を自覚することは良し、恥に思わぬよう。范叔は、相手の矜持を尊重することを覚えてほしい。さて、議に移ろう」
韓無忌がそれぞれに顔を向けて言った。打たれ強い趙武が、心を引き締める顔となり、士匄は少し口をとがらせた。
「では。いにしえの道に従われた堯帝は、聡明文思にて虞の地におられた舜帝の徳をお認めになられ後を託された。さて、舜帝は正月元旦、文祖堯の廟にて儀を行い、後を受け継がれた。舜典に曰く――璿璣玉衡を在て以て七政を斉しくす。肆に上帝に類し六宗に禋し山川に望し群神に徧す。五瑞を輯めて月に既し、乃ち日に四岳群牧に覲え、瑞を群后に班す。本日はこちらにて、各人の考え、思いを述べることにしよう」
まるで今日の新聞の一記事について語ろう、というような口調であった。王を譲られた舜帝が、天文観測をし、土地を祀り人々を統べた、という故事である。
「……舜典とは、あのいささか古……渋……えっと、古式ゆかしいですね」
全員の思いを代弁するかのように荀偃が苦い顔をして言った。現在の周王朝の前が殷王朝、その前が夏、そして虞。これははるか昔、虞王朝建国譚である
韓無忌が、それがなにか? という顔をした。荀偃はそれに押されてひきつりながら引き下がった。士匄は、先ほどの前座の続きか、と見当をつける。このあたり、この青年は勘が鋭い。
今から、どうとでもとれる古すぎる習慣を元に己の考えを述べ政見の正当性を証明せよ、というディベートをするのだ。しかも、末席趙武に対するサービスを兼ねている。経験が浅い趙武へ韓無忌なりの心配りなのだろう。
何でも人任せの欒黶はめんどくさそうな顔を隠さず、押しに弱くすぐにパニックを起こす荀偃は途方にくれている。お膳立てに気づかぬ趙武は密かに気合いを入れているようであった。彼は努力家であり、何事も厭うことがない。
士匄といえば、ディベートそのものに不安はない。はっきり言えば得意中の得意である。
古典故実法制国史が叩き込まれた脳みそから必要な言葉を即座に見つけて場に相応しい辞とするのは士匄の得意技である。また、相手が少しでも弱腰を見せれば、畳みかけるように抉り持論をズタズタにする。先ほどの前座が良い例である。
彼は相手の矜持を折ることに悦びを見いだしているわけではない。単に勝ちに拘りすぎてしまうのである。時おり行きすぎて余計な言葉を足してしまい、舌禍となることも、ままあったが。
「では年長の私から申し上げます。舜帝は堯帝に帝位を継ぐよう命じられても己に徳無しと辞退なされていました。しかし、星が天命を示されていることを知り、帝位を継がれて祀りをし、天にご報告された。天の意は絶対という貴い教えと思います」
荀偃がまず、年上として口火を切った。『政治表明はセオリー通りにしよう』、程度の主張であり、常識的かつおもしろみのない言葉であった。
ここから様々な問答、幾度かの論の末に趙武が柔らかい声音で言った。
「本来、天は我らの思いを汲み取りません。ただ示すのみです。しかし、舜帝に対しては道を示されたように思えます。天は時にそのようなことをなされる。滅ぼうとしていた趙氏が復権し私がここにいるのも、示されたと言うよりなにか汲み取って頂いた心地がいたします」
彼は、未だこのディベートの本質がわかっていないようであった。
そのような趙武に士匄が首を振り、長い反対意見を述べた。
「天は恣意的に手を差し伸べぬ。趙氏が族滅しかけたも、お前が再びその責を背負うことができたも、天がただ示しただけだ。舜帝に対してもただ示したのみ。帝位を継ぐ覚悟はおありだったろうが、自らを律しておられたゆえ、天命明らかになるまで慎み深く隠されておられたのであろう。天の示しに人はただ受け取り約することしかできぬ」
士匄は舜帝の謙譲と趙氏復興の必然について述べたうえで、
「この話は、約定の大切さを物語っている。堯の時代から今にいたるまで、国と国、土地と土地、約定とそれに即した祀りがある。天はただ見るのみ、その威を示し人の往き道を見定めるのみ、だ。天に道ありとも慈愛は無い。王、諸侯、卿はみな天に約し、その示しに粛々と従うべし」
と、天に対する約定の話で締めた。
明日、問答のオチ更新