斅うるは学ぶの半ば、人に教えると自分も学ぶ一挙両得②
「いえ。最近の中行伯は、食事が美味しい、たくさん食べることができると喜んでおられます。実際、時々おこなう食事の儀礼の学びで、きれいに召し上がっておられます。以前は、咀嚼するのもゆっくりの方でしたから、それはまあ、良いこと……なのですが。違和感で」
「何が」
だらだらと結論が迷子になるように話しだす趙武に、士匄はいらつきを隠さず、促した。趙武がその言葉に気を悪くした様子もなく、頷く。
「えっと、違和感。えっと。あ。あ。シュッとされた、と思ってた、んです、が。痩せてきてませんか」
よく食べると言うわりに、別に体が鍛えられた様子もなく、ただ、どこかおかしくて、違和感があったんです。そう己の記憶をたぐるように呟いたあと、趙武が士匄をまっすぐ見てくる。
「今日、変だな、て思って。そうだ、肌の色も悪く、痩せているというより――やつれてませんか」
士匄は、言われ、数日の荀偃を思い出す。目を輝かせ、議も堂々と行い、問いには即座に答える、全く似合わない、本当に似合わないことをしている士匄の小動物は、本来太っているわけではなく、どちらかというと痩せ型であるので、痩せていておかしくなく。
笑みを浮かべるその目の下には、はっきりとした隈があり、いっそ落ちくぼんでいた。
頬骨が目立ち、それは青年期の脱出ではなく、頬がこけている。
衣から見える手は骨が目立ち、それは骨太ではなく、骨と皮ではなかったか。
「あれ? 痩せているどころか、鶏ガラではないか」
「え。そこまでではないですよ、少し顔色悪く、痩せている気がするなあ、てくらいではないですか。明日、事情をお聞きになってはいかがでしょう」
やけに深刻に考え出した士匄に、趙武が笑って柔らかく制した。趙武の脳裏にある荀偃は、食べているというわりにはふくよかにならず、少し痩せた印象、という程度であり、もちろん鶏ガラでもない。士匄が思い込みでおおげざに想像してしまったのだ、と断じた。
士匄も、己の認識に自信が持てぬ。散々男は自信だと言ったやさきにこれであるが、己の考えを断言できるかの見きわめも『自信』のひとつである。士匄は、荀偃の姿がぼやけていた。ここ数日の彼の印象は闊達である。が。実像が思い出せぬ。この、脳裏に浮かんだ骨と皮の飢え死にしそうな男が本来の荀偃だ、などと断言できるほどの材料がない。
「……ち。中行伯のところへ行くか」
ただ、姿を確認したいから、という理由で動こうとした士匄を、趙武はさすがに止めた。いくら友情に篤いとしても重すぎである。士匄は不快を隠さずため息をついたが
「まあ、確かに考えすぎだな」
と受け入れ、学びの続きだ、と趙武を促した。その後、范武子の残した法について少々教示したあと、士匄は趙武を解放した。
翌日、士匄は叫び声を喉奥に引っ込ませ、なんとか耐えた。何故、己は気づかなかったのか、と腹がずり落ちる思いであった。
荀偃はニコニコと笑いながら挨拶をしてきたが、目は落ちくぼみ瞼は腫れ眼はつぶれかかっており、頬はこけ、唇はガサガサであり肌にも水気がない。あからさまな栄養失調の姿で、首も手も肉が削がれたように細い。まさに、骨と皮である。
「中行伯、なんだ、それは!」
士匄はしずしずと拝礼する荀偃にどなりつけ、その腕をとると共に部屋を出て行く。え、え、なに? と荀偃がのんびりとした口調で言いながら、引きずられていった。帯止めには、石で作られた無骨で素朴なお守りがいくつもつけられ、動く度に揺れ当たり、コンコンコンと音を立てていた。
みなが唖然としたなか、趙武は我に返り、拝礼した。
「恐れ入ります。范叔がなぜいきなりご乱心されたかわかりませぬが、先日から中行伯をご心配なさっているご様子でした。私は范叔にご教示いただく立場のもの、その行いひとつひとつを良くも悪くも学びとしとうございます。追いかけてよろしいでしょうか」
若輩のリーダーともいえる韓無忌は、行っておいで、と許し、促した。みなの目に荀偃はいつもと変わらず見える。しかし、最近何やら浮ついていたのも確かである。士匄は現世と常世の境に立っているようなところがある。人の見えぬものを視て、聞こえぬものを聴き、空飛ぶ鳥に祖霊の魂を感じることができる。
「大事になるようであれば、私の父か汝の父に相談せねばならぬな、欒伯」
部屋に取り残された韓無忌が、ゆったりと欒黶に顔を向けて言った。弱視の彼は、そこに人がいる、という程度のことしかわからない。欒黶がかったるい、という態度を隠さず肩をすくめた。
「汝の父は手堅いし、俺の父は有能な正卿だ、まあなんとかしてくれるだろうが、相談など手間ではないか? 荀氏中行家は傍系の知家がおられる。知伯は仕事ができるお方だ。中行家がひとつ滅んだからって困ることないと思うぞ」
欒黶は選民階級独特の酷薄さと薄情さをさらけだした上で
「それより本日はもう学びなどできまい。汝が議を出そうが、俺はわからん。ゆえ、今日のおやつを二人で食おう。汝が己のぶんだけで良いとなれば、残りは俺が食う。今日の甘味はなんだろう、瓜がいいなあ、瓜」
と、愛嬌のある笑みを見せた。甘みのある整った顔であるため、いっそうかわいげがあった。
韓無忌は容赦無く荀罃に連絡しお越し頂き、欒黶は韓無忌という謹厳な男と、荀罃という厳粛な男に時間いっぱい絞られぎゅうぎゅうに躾けられた。教わる言葉に脳が飽和状態になれば、姿勢の躾が始まるという具合に、素晴らしい環境でみっちり学び、食事の儀礼に関しても荀罃の度重なる殴打に耐えながら、半泣きで礼儀正しく食べた。望み通りの瑞々しい瓜であったが、味などさっぱりわからなかった。