山川に望し群神に徧す、つまりは引き継ぎ手順は大切に①
すこしずつ修正してます。少しは専門用語を気にせず読めたらと思います。
奢侈ではないが豪壮な宮中、学びの間と呼ばれる一室がある。ここに集まっている若者たちは卿を父に持つ。椅子など無い時代で、敷布の上でそれぞれが正座をしていた。
晋には卿の子らがそのまま大臣に任命される『公族大夫』の身分がある。この学びの間はそんな大臣候補のグループ塾でもあった。
「前年は戦で六卿も出ておられました。今年はその気配ございません。いつか正卿や卿の方々にもご教示いただけることがありますでしょうか」
趙武が韓無忌へ丁寧に拝礼しながら言う。彼は、士匄相手になると少々雑だが、韓無忌に対しては違った。尊敬の念が自然と出る。
士匄はそれを不快と思わず、素直に感情を表に出す未熟者、と嘲った。これをどう教導するか叩きのめすか、面倒だが楽しみではある。
韓無忌が口を開く前に士匄が言葉を挟んだ。
「我が晋は、東方南方に関して、まあ小康状態とはいえる。父上はそのために文字通り東奔西走されたものだ。これ以上、わたしは言わん、韓伯にまかせよう」
言って、士匄は先達を見た。公族大夫の中で韓無忌の席次は一番高い。
この国は六卿が君主を支えうごかしている。その威勢は、六卿の四席目である士燮にさえ便宜の賄賂をもらうくらいであるから、推して知るべし。時として小国の君主を超える。
さて、韓無忌の回答である。
「趙孟。未だ学びの議は始まっていない。政堂であらば汝はあらかじめ共謀したことになる。問いは時間まで口に出さない。そしてどのような解が想定できるか考えなさい」
趙武が未熟者ながら、と頬を染めて拝礼した。趙孟とは趙武の字であった。
そこからたいして時間も経たぬうちに、一人の若者がしずしずと入室し、拝礼した。
「本日も良き朝にてみなさまのご尊顔拝し、喜ばしいことです」
荀氏の嗣子、荀偃である。この一族は穏やかで人の好いものが多く、少々疲れた顔の、不祥がただよう士匄を気づかわしげに見た。が、本人に直接言うのは憚られたらしい。
「趙孟。みなさまに変わったところはございませんか」
趙武ははにかむように笑んだ。
「若輩として先達に問われたことお答え致します。本日も范叔がお加減すぐれず、巫覡の方にご面倒をおかけいたしました。つまり、変わりはございません」
包み隠さない趙武の答えに士匄が苦い顔をしたあと、荀偃を見る。その表情は少々、いじくそ悪い。
「中行伯はわたしを避け、わざわざ末席に問いをする。中行伯のすぐの下席、若輩はわたしではないか。一足飛びに趙孟に聞くとは水くさい。そして本来は上席に問うべきである。このなかで最も年長上席は韓伯だ。……ど、う、し、て、顔をそらす? 中行伯」
猫が捕まえた鼠をこづき回すような目つきで士匄は満面の笑みを浮かべた。荀偃といえば、まさにそのなぶられる鼠のようにちぢこみ、引きつった笑みで視線を泳がせた。
士匄の個性の強さに荀偃は常に弱腰である。ゆえに、士匄を避け柔和な趙武に話を振ったのである。
では、士匄の言う正道、韓無忌へ問わなかったのは何故か。
「范叔。この場は政堂でなけれど、おおやけの場。私的な話にてあまり追求するはよろしくない」
静かに釘を刺す韓無忌に士匄は肩を竦める。そのまま韓無忌の顔は荀偃に向いた。
「中行伯は我らに変わったことがないかと問うた。まず場を見てそのように思うのであれば、異変を感じた部分も指し示して申し出なさい。わからず問うのであれば、はっきりわからぬと申せばよろしい。そして何かしらの世間話のつもりであれば自省を。国政を担うものが公式の場で、変わったことがないか、などあやふやな言葉を口に出すものではない」
まるで託宣でもするような、少し遠い目をしながら、韓無忌が一刀両断した。場を考えれば、全くもって正しく、やっぱりこうなった、と荀偃は首をすくめた。中行伯とはもちろん荀偃の字である。
荀偃が多少きまずい顔をしつつも、一同改めて端然と座す。
これはいずれ参席する政堂の予行である。朝政が始まるまで集まった卿は黙って君主を待つものであった。ゆえに、参内は早いに越したことはない。この学びの間でも、早く出て座り、黙って問いを議を己で考えるのも大切な勉強というわけである。
が。
「っし! 間に合った!」
どのような時代にも始業ギリギリに来る輩はいる。鷹揚な仕草で悪気の無い笑みを浮かべたその若者も、そうであった。
整った甘いマスクに選民特有の傲慢さを秘めた瞳、背は高いと言えないが、バランスの取れた肢体もあり歩く姿に威風が見えた。
正卿、つまりは宰相の息子である欒黶である。
父は沈毅重厚な人柄を信頼され、大国晋を背負うに相応しい正卿とちまたで有名であるが、この欒黶はいかがか。
「今日も俺が最後か。汝らは早い。早すぎる。まるで俺が遅れてきているようではないか」
欒氏特有の深みのある声で、誠意の欠片のない言葉を吐きながら座る。
韓無忌がふわりとした動きで欒黶へ顔を向け、
「欒伯、何度も言っている。卿を親に持つ者が時間に余裕無く来られるのはいかがか。余裕なくば事前の備えできず、急なことに立ちゆかぬこともできる」
と静かに言った。欒黶は反省どころか、嘲笑を浮かべ
「早く出てきても刻限まで黙って座すのみ。暇ではないか」
と言い放った。
ここまでの発言でおわかりであろうが、父が沈毅重厚であれば、息子は傲慢浅慮と言わざるを得ない。
ただ、とかく威張ることを恥と思わぬこの青年は、迷惑な性格や行いに反してなぜか愛嬌があり、呆れるほどの頭の悪さも相まって、
まあ、欒黶だしなあ……。
と、なんとなく許されるところがあった。
この時も、韓無忌はそれ以上追求しなかった。
士匄は内心おもしろくてしかたがない。堅苦しく重苦しい韓無忌より軽薄な欒黶のほうを好んでおり、もっといえば欒黶とは幼馴染みに近い。親同士の仲が良いのである。
生真面目な韓無忌の前で好き勝手に振る舞う欒黶を見ていると滑稽劇のように思えてしまう。
むろん、どちらに味方するか、と問われれば道理正しい先達の韓無忌である。
その表情が静かで生真面目な先達は、
「本日の議の前に」
と、低い声で紡ぐと、趙武を見た。
「学びの前に趙孟より問いがありました。六卿の方々から我らに学びの場でご教示あるや、と。始める前に問いを発したのはよろしくないが、その問いに対する解を考えるよう、伝えている。趙孟、まず汝の解を」
②、③と続きます。