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なんじの倹徳を慎みこれ永図をおもえ、ものごとは長い目で計画的に①

 翌日、士匄(しかい)の都合の良いお願い――相談というよりは、である――に荀罃(じゅんおう)はふわりとした笑みで快諾した。そこには四十路になったばかりの、壮年の魅力があった。

「本来は嗣子(しし)であり当事者である范叔(はんしゅく)が、お父上であられる范卿(はんけい)に言上されるのが本筋です。が、(けい)を父に持つものの長として私に願うというのであれば、それも筋にかなうこと、引き受けよう。ただし、私の立場で范卿に申し上げるということは私事ではなく公事となる。その覚悟はよろしいか」

 柔らかく紡いでいた言葉は、最後に低くドスの効いた声音になった。士匄は内心、ぴいっ、と怖じ、身を固くした。昨日、荀罃に頼むのが良いと何故己は思ったのか。士爕(ししょう)は厳しくうるさい父親であるが、この荀罃は厳しく恐ろしい先達であった。今、士匄が趙武(ちょうぶ)を教導しているように、かつて士匄はこの荀罃に教導されていたのである。ゆえに恐ろしく、だからこそ頼りにしてしまう。

 珍しく即答しない士匄を不思議に思いながら、趙武が口を開いた。

「恐れ入ります。確かに知伯(ちはく)と私たちの関係は私的なものでなく、公事のものです。この件を公事として扱うというのは理にかなっております。しかし、蓋をあければ()氏と(しゅう)人の間で為された約定と(ゆう)譲渡の話です。(しん)の国事にも君公(くんこう)、公室のいずれにも関わりのないこと……確かに、范叔の祟りによる不祥は深刻で、えっと、その、国事に影響も、できることもあったりかもしれないのですが」

 最初は整然と紡いでいた論は、最後にはしどろもどろになり、趙武は俯いた。元々の問題は士氏の話であり、もっと言えば士匄の下手打ちである。が、士匄に影響した祟りは恐ろしい政変をもたらす可能性を途中で思い出し、なんと言って良いかわからなくなったのである。荀罃が穏やかな顔のまま苦笑した。

「范叔。私に、音頭をとって范卿に言上してほしい、と相談しながら、私に全てを話さなかったようだな。私の才を過大に評価いただくは光栄なれど、つぎはぎを想像で補い卿へ報告する私とでも思うたか。(なんじ)のそのあさはかさは未だ変わらぬと見える。汝は才あるがその浅慮軽率によりいずれ身を滅ぼすと心得なさい。そして趙孟(ちょうもう)(べん)に関しては向き不向きあり、汝は学びの途中。これから研鑽するが良く、お気になさるな。それよりも、です。汝は常に、先達に許しを請うてから発言をしていますね。それが今回、いきなり口を出したは范叔を(おもんぱか)ってのことやもしれぬが、その底には先達への軽視がある。汝は范叔に発言を願い出るべきであった。しかし、范叔を軽視し、また私に甘え、口を出した。それは己の地位に対する緩みであり、自らへの戒め足りぬこととしなさい」

 姿勢を正す二人を代わる代わる見ながら、柔らかく笑み諭したあと、荀罃はすっと笑みを消した。そして。

「これが戦陣、軍中であれば二人とも私に斬られたと心せよ」

 と炯々(けいけい)と光る鷹のような眼差しで睨み付けた。底冷えのするような凄みあるその顔は、まさに峻烈な戦士そのものであり、声音は谷底から響くような恐ろしさと――本気があった。士匄はもちろん、趙武もあわてて拝礼した。二人とも内心、めちゃくちゃ半泣きであった。

 士匄は范武子(はんぶし)を呼び出したことだけは隠し、観念してきちんと話した。つまり、この祟りが士氏から晋内部にまで影響する可能性である。荀罃は折り目正しい様子で聞き終わり、

「まず、范叔は最短の方法が難しい、と思っているのだね」

 と尋ねた。士匄がしぶしぶと頷く。趙武はわからず、

「どういうことですか」

 と聞いた。荀罃が目で士匄を促し、士匄は嫌そうに口を開いた。

「……わたしがただ狂人に呪われ、いずれ父上の不祥に繋がるのであれば、その前にわたしが追放されれば事足りるのだ。わたしと父、そしてこの晋との関わりを儀として断てばよいこと。しかしお前と一緒に書庫で調べた結果、たちの悪い山神の可能性に行き着いた。例えばわたしが追放されどこの国にも受け入れられず死したとしよう。そうなれば、山神はこの晋につきまとい、今度は依り代なく祟りをまき散らしかねん」

「……范叔……。では、己から晋と離れ、責をお取りになるおつもりだったのですか……?」

 本来は自分の将来を捨てて責を取るつもりだったのか、と趙武は少し感動した。この当時、国を追い出されるいうのは人間社会からの締め出しである。今となっては意味が無いとわかったために口に出したのだろう、この先達を見くびっていたのだと、身が引き締まる思いであった。

「は? そんなわけなかろうが。バカバカしい」

 趙武のちょっとした感動と尊敬は即座にこっぱみじんとなった。趙武はがっかりした顔を士匄に向けた。士匄は頭の回転が良い。その表情で趙武の心中を察し、なじろうとしたあたりで、荀罃が手で制した。

「范叔の言葉、わかった。私はついでに、汝のお父上に嗣子の追放を進言するつもりであったが、そのような事情であれば仕方が無い。嗣子の廃嫡は本来他家が口だすことではないが、私は国事だと考えたまで。問題の場所を直接確認したいということも含めて前向きにお話することにしよう。しかし、最初にも言ったが、これは私事ではなく公事として私は承る。そこはお覚悟を」

 荀罃が穏やかに話を終わらせた。士匄は、ごまかしていていたままなら追放されていたのか、と顔を少し引きつらせた。趙武は穏やかな荀罃ばかりと接していたため、士匄や荀偃が何を怯えているのか知らなかった。今、知った。

②へ続きます。荀罃と士匄の関係は左伝の襄公十三年『昔 臣習於智伯』から拡大解釈しました。

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