初筮は告ぐ。一番最初が肝心よ。②
引き渡しの儀に待ち受けていたのは、邑宰と持ち主の貴族本人であった。
「この度は我が邑の祀りをお引き受けいただくことお許しいただき、光栄でございます。この地は虞舜の前は開かれておらず、夏の世から商殷まで華氏が治めておりました。我ら周建国の際に同族の武王に献じられ、私どもの家にはその後下賜されたもの。常に姫性統治のものでございましたが、士氏へお世話をお願いしたい所存でございます」
貴族が儀に則って生け贄である羊の血を唇に塗って言った。そうして、同じ文言が書かれた竹簡を渡してくる。
士匄も同じように唇に血を塗って口を開く。
「この度、邑の祀りを承り恐悦至極に存じます。わたしの祖は堯にて王の同族、祁姓陶唐氏であり、虞の世をそのまま、夏の世には御龍氏となり、商にて豕韋氏、周にて唐杜氏でございました。周より晋へ渡り士氏を名乗り范邑を頂いておりますので范家を称しております。祁姓の我らに大切な姫姓の邑を治めること祀ることお任せいただき我が祖と共に喜びとし務めて参ります」
互いの祖を文字と言葉で確かめ合い、天へ約定を盟う。竹簡を渡し、互いに儀に則った動作で礼をすると、証の玉璧を生け贄と共に埋めようとした。
その時である。
「ここは、我が地である!」
みすぼらしく、ぼろのような衣服を纏った男が分け入ってきて、叫んだ。
よくよく見れば染めていない麻衣で断ち切りのみの素衣素冠、いわゆる喪服であり、葬式帰りに路頭にでも迷ったのか、といいたくなるような風体であった。
年の頃はわからない。老人のようにも見え、疲れ果てた壮年のようにも思えた。
「このものは」
士匄はするどい声で聞いた。周の貴族は困惑した顔をする。
「時々来てはこのようなことを叫ぶ狂人です。我らもほとほと困っている。邑人どもも、迷惑をしているのだ」
軽く目配せすると、士匄は傍に控えている己の家臣に
「斬れ」
と端的に言った。家臣どもは逡巡せずにみなでなで斬った。
男はあっさりと斬られた。薄汚れた麻衣に血が広がっていく。
そこからの士匄は常軌を逸していた。その死骸を邑の外へ持ちだそうとした家臣どもに
「生け贄と一緒に放り込め」
と言ったのである。神聖な儀に不浄不祥な狂人の死体など、と家臣たちもさすがに抗弁し、周人たちも息を飲んだ。
業を煮やした士匄は、その汚らしい死体を奪い引きずりながら運ぶと、坑の中に蹴り落とした。どう、と底に落ちた死体の上に生け贄を降ろさせ、玉璧を置く。みなドン引きしていたが、士匄は全く気にしない。
「古来、人の贄こそが最も盟い確かになり祖への祀りとなる。この男は己が地と叫んでいた。つまりわたしが治める地を差し出しに来たと言うことだ。吉兆となるであろうよ」
鼻を鳴らし、埋められていく地を見ながら士匄は嘯いた。その声音は自信と傲岸に満ちている。
家臣どもは蒼白になりその様子を伺った。これはさすがに、主である士爕に言上せねばならぬであろう、とも思った。
「父上には言うな。あの方は少々心配性。めんどくさい」
士匄はだれた仕草をしながら家臣たちを睨み付ける。
この嗣子は彼なりのルールを持っている。それは常識的にも法制としても正しいこともあれば、意味のわからぬこともある。
ただ、彼のルールから逸脱した者は
法を犯した
と責められ、下手すれば罰をくらう。
結局、この自儘な嗣子の前に、家臣たちは黙るしかなかった。その様子を見た士匄が傲慢な仕草をしたかといえば、そうでもない。
「しかし、お前たちの働きは良き。素早く、鮮やかであった。今日は邑にて宴席であるが、おまえ達も侍って良い。思う存分肉を食え」
心底労る顔で、士匄は家臣どもへ無邪気に笑んだ。
彼らは下役であり、肉などめったにありつけぬ。お心遣いありがとうございます、と丁寧に、喜色を隠さず拝礼した。
士匄は傲岸であるが、傲慢ではない。このようなところで、妙なかわいげがあった。
さて、宴席もその際の儀礼も省略する。士匄はこの周の貴族に個人的な友誼を結ぶと――半ば強引にせまったのである――無事役目を終えて帰った。
帰る最中、襤褸の男を斬った家臣どもが川に落ちたり落石で潰されたり食中毒で死んだりとしたが、士匄は運が悪い奴らだなあ、という程度で何も思わなかった。
人が死ぬにつれ少々の瘴気も漂い、鬼――今で言う霊が漂っていても、士匄は意に介さなかった。この青年は霊感が強いため、こういったことに敏感である。
しかし、己には関係ないと思い込んた。恐ろしいほどの自己肯定と楽観主義である。
そもそも死んだのは運の悪い下僕どもある。彼らは士燮の部下である。つまり、父への不詳であろう。士匄は勝手にそう断じたのだ。
ゆえになんだかんだと父を尊敬する士匄は不詳を祓うよう薦めた。
士匄にとって、まあめんどくさい仕事が終わって一段落、であったが、数日経って体が重い、頭が痛い、などの症状が出だした。理由は明白であった。
「今日も、祓え」
士氏に仕える巫覡が頷き、夜明け前から祝詞をあげる。士匄に憑いていた鬼が祓われた。
「このところ、毎日ではございませぬか。体質とはいえ、何か不祥なことをなされたのでは」
言われ、士匄は考えるが心当たりがない。
「わからん。続くようなら先達に相談もしよう。とりあえず出る。父より後に出仕すれば、殴られかねん」
年功序列、謙譲と孝、そして己への戒めに厳しい父親である。
子は親より先に宮城に出て控えることが肝要。
士匄は、それは正しいながらも少々堅苦しいと思いながら、首をコキコキと鳴らしたあと、うんざりした顔で家を出た。
若い大夫の控え室に来た士匄を見て、憐れみ少々蔑んだ顔をしたのは、後輩の趙武である。その姿は美しい少女のように嫋やかで衣に潰されそうな細さであったが、きっちり成人男性であり、趙氏の長でもあった。父が早世しているのである。
今、士匄は趙武を教導する立場となり、二人で行動することが多い。
「ちょっと。范叔、あまり寄ってほしくないんですが。今日もですか? なんですか、そのぼやっとした鬼を背負って。その、とても不浄で凶のかたまりのような状況なのですが」
范叔とは士匄の字である。それはともかく、士匄は憑いた雑霊を手で祓う仕草をしながら、
「祓っては憑いてくる。これでも道すがらかなりどけたのだ。宮城に入ればさすがに増えぬが、これ以上落ちん」
最も早く控えていた韓氏の嗣子、韓無忌が、入口に控えている寺人に向かって声をかける。寺人は巫覡を呼ぶためすっ飛んでいった。
ここ数日、士匄は雑多な幽霊に取り憑かれる毎日である。元々、憑かれやすい体質であるため、いつものことと当初は軽く見ていたが、こうも多く寄ってくるのは異常であった。
さほど霊感はない趙武や韓無忌にもわかるほどである。まあ、この時代はこのような超常現象が多数記録されており、何の作用かわかることも多かったようだ。
「何か心当たりは無いのですか? 対処療法に祓うだけでは意味がありません。きちんと原因を究明したほうが良いです。私も見ていて不快です」
見た目によらず、趙武ははっきりと言った。これは趙武が非礼無遠慮というわけではない。そのくらい、士匄の状況が周囲にも迷惑なのである。
凶に触れれば凶になる。それが古代の考え方でもある。今であれば感染症を振りまくに等しい。
「知らん。はっきり言おう。呪われる心当たりなど、多すぎてわからん。呪うようなものどもは卑しくたいがい逆恨みをする。我が家、わたし含めそのようなことはあるであろう」
士匄は苦虫を噛み潰したような顔をして、言った。
さて。読者のかたはお察しであろう。原因は先日の、冒涜的ともいえる儀式である。が、この真相に彼らが気づくまで、しばしお待ち頂きたい。