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易簡にして天下の理得、シンプルに考えるのが一番よ。②

「邑より追放されたものが、どこにもいけず、(さかい)のものとして現れたのですか?」

 士匄の言葉に趙武が驚きの声をあげた。東西古代、どちらも『追放』は重い罰である。つまり、文明社会からの締め出しであり、どこかの集落に受け入れられねば人間以下の存在として生きるしかない。趙武の言う境はそういう意味である。だが、士匄は首を振った。その顔に迷いはない。

「あれは、邑そのものだ。理由など知らんが、人が邑を追放し、捨て、場を移したのだ。祀られぬものとされた邑が人を追いかけ、新たな邑を己の地だと叫んだわけだ。捨てられ移られたわけではなく、邑が広がったと主張して、祀れと取り憑いた。地雷女のストーカーだな」

 堂々と断言した士匄を、趙武が唖然とし、ぽかんとし、アホですか? という顔で凝視した。

「いやいやいや、あの、人の贄だったんでしょ、邑て。邑が人間の形をとって歩き回っているってさすがに聞いたことがございませぬが!? 范叔、あれですか、脳みそ焼けちゃいましたか、死んじゃいましたか……」

「誰が脳みそ焼けてるか! お前、時々本当に腹立つからいつか泣かす。まあ、私も間が抜けていた。今思い出そうとしても、あの男の顔も年齢もわからぬ。思い出せぬのではない、わからんのだ。便宜上『邑』と言ったが、厳密に言えば邑で祀られていた山の祭神であろう、祖霊は人々が持ち越したであろうから。山神の本体はもうひとつの邑が祀り続けているであろうが、消えた邑に移された端末のほうは恨みがましいストーカーになったわけだ」

 立ち上がり、やれやれ、というように手を上げ首を振る士匄を、趙武がこちらも立ち上がり、見上げた。

「范叔。しかし、空白の邑が、本当にあったかどうか、が証明できておりません。あなたのお言葉は、私の示した空白に邑があるということが前提。しかし、そのような記録はございませんし、范叔の推論をもってしても、断言できないでしょう」

 趙武の言葉に、士匄はその通り、と素直に返した。結論は正しいと本能がつげるが、理は不確かであると己でもわかっている。

「この書簡の記録以上のことなど、この晋ではわかりません。たとえば周都(しゅうと)にある法制地勢を全て調べるとか、まあそういった、膨大な記録を確かめた方ならご存じかもしれませんが、しかし、そのような人はおりませんし、いたとしても細かいことまで覚えてらっしゃらないでしょう」

 趙武が書庫を見回しながら言った。書庫にある全ての書をひっくり返しても、こんな小さな邑の詳細な記録があるとも思えない。邑の直接の書でもここまでしか分からぬのだ。

「まあ、ウチのじいさんなら知ってるだろうけどなあ。じいさん、周の記録めちゃくちゃ取り寄せて調べて、法制整えたから」

 士匄は己の首を掻きながらため息をついた。士匄の祖父は晋には正しい儀礼が伝わっていないと気づき、正しい情報を精査して法制を作り直した名宰相である。政治、外交、軍事全てに優れ、特に情報の収集力と精査能力は晋どころか春秋時代随一といえる。士匄の自慢の祖父であった。むろん、故人であり、諡号(しごう)()、他者が呼ぶとなれば――。

范武子(はんぶし)は本当に素晴らしいですね。もし、ご存命であれば伺うこともできたのですが。特に士氏に不吉が起きるかもしれないのです。黄泉(こうせん)でご心配でしょうね」

「あー……。まあ、うん。聞いたら答えると思うが……。でもじいさん、怒ると怖いからなあ」

 腕を組み、体をゆらしながら目を泳がせる士匄を見て、趙武は少しほほえましさとうらやましさを感じた。幼少のころ、いたずらでもして怒られることもあったのであろう。趙武に父の記憶も祖父の記憶もない。孫の顔をする士匄は少し幼い表情をしていた。

「ふふ、かわいい孫の危機じゃあないですか、范武子もきっと力になりますよ」

「そうかもしれぬが、じいさんは怒るとガチだ。何故わからぬきちんと調べろ考えろ、って絶対に言う。そこから教えてくださいって持っていくまで、考えただけでもめんどくさい」

 稚気めいた士匄の言葉に笑おうとして、趙武の表情が固まった。会話にずれがあることに気づいたのである。ずれ、齟齬、勘違い。士匄の言葉の全ては過去形ではない。

「范叔。ひとつ伺いしますが、范武子はお亡くなりになられてますよね。諡号ございますしね」

「当然だろう。何をアホなことを聞いている」

「…………もうひとつ伺いますが、お亡くなりになられているかたに、今、ご教導賜りたいって言っても意味はございませんよね?」

「呼んで教えを請う話か? 祖の方々のご迷惑でない程度にお呼びすること、意味があるであろう。あまり長居できぬから、きちんと要点を伺うのが肝要だ。趙孟はちまちま考えるのは良いが、話がもたつきやすい。教えを請うときはスパっとせぬと、お答えいただく前にお帰りになられる。では、この騒動が終わればそのあたりの要領を教えてやろうか。たいしたコツでは無いが――」

「私は祖霊をお呼びすることできませぬ。そして他の方々みな、絶対に、祖霊をお呼びしてご教導お願いしますってできませぬ。いや范叔って多才な方だとは思ってましたが、ここまで多才とは思いませんでした」

 趙武の言葉に、士匄は思わず、え、とまぬけな声を出した。

「え? 呼べるだろ」

「呼べないです」

 士匄はさらに、何度も、え、え、え、と呟き、

「あ!」

 と叫んだ。あまりの大きな叫びに、趙武が半歩、飛び退いた。そんな趙武など目に入らず、士匄は頭を抱えて口早に言葉を垂れ流していく。

「子供のころ、父上がなぜか、他言するなと命じてきたのはこれか! いやこれ、あれだ、自慰みたいに一人でするからおおっぴらに言うなとかそういった意味だと思っていたが! あ、そういう、そういうこと」

 士爕は迷いなどないので呼んでいない、憚るのは祖に直接問うのは恥ずかしいことだから、と士匄は勝手に思い込んでいたのである。まさか、誰もできぬから黙っていろ、の意味とは思わなかったのだ。巫覡(ふげき)のような祓ったり天や祖の意を聞くものどもがいる。それ以外の者はせいぜい己の祖としか話せぬ。これが今までの士匄の常識であったが、一気に崩れ去った。士匄は己が際立った霊感体質とまでは思っていなかったのである。

 立ったまま燃え尽きた顔をする士匄に趙武が掴みかかる。

「勝手に恥ずかしがって終わってますが、私たちの戦いはこれからなんですよ! 呼べるんですね!? 范武子を呼べるんですね!? 早く呼びましょう、その含蓄深い豊かな知識に感動しながらご教導願い、万事解決しましょう、早く呼んで! 范武子とお話できるなんてナニコレ夢なの私は明日死んでもいい気がしてきました! ああもう早く知ってたら、毎日でもお呼びしていただいたのに! 范叔は問題解決! 私は推しに会う! なんという利害の一致! いいえ、これあれですよねWin-Winていうやつですねっ」

 常の柔和な瞳にきちがいじみた光を宿し、悦楽めいた笑みを浮かべた趙武が、士匄を何度も強く揺さぶった。その様子は狂態じみており、我を忘れているようでもあった。

「あ、はい、呼ぶ、呼ぶから、落ち着け趙孟、ほんと落ち着いてくれ」

 趙武は、一度も会ったことなどない士匄の祖父をとてもとても尊敬しており、はっきりいえば范武子強火担当のファンである。史書にもそのような発言が見受けられる。我の強い士匄であったが、二十数年以上の常識が崩れかけたところに、早口のオタクが強火で迫ってくるのである。我に返るまで三十秒ほど立ち尽くしていた。

この士匄くん受難話、この連作シリーズのチュートリアルのつもりでした(まだ終わらない)

シリーズの一番として見てあげてください

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