一利を享くるも亦一悪を得るは務むる所に非ず、その場の勢いですることなんて碌なことにならないね!③
本日二度目の祓いを巫覡に、文句を言われながらしてもらうと、士匄と趙武は書庫の中へ足を踏み入れた。棚に整然と紐でとじられた書簡が並んでいる。その数膨大、そして壮観。書簡に圧迫される思いで部屋を見回しながら、
「何を調べるのですか?」
と、趙武は問うた。問われた士匄の背中は、ひくり、と蠢く。
「方便に決まっておろうが。こういう、かび臭い、誰も来ぬ、宮中の奥でないと、な」
士匄の声は少しずつ、震え、ひび割れていく。それは、まさに凍り静かであった河が雪解けで一気に奔流となり、氾濫していくようであった。趙武が一歩、後ずさる。
「一瞬でも! わたしを絶望させやがった、この不祥! ああ、知伯が祟りと言っていたから、祟りでよいか! 許せるか? 許せるわけないな! 我が父を襤褸のように切り刻まれる屈辱、足斬りの罪人とされる恥辱、その人生に一瞬でも絶望したわたしへの汚辱! わたしを祟り呪ったことを後悔させる、わたしを敗者として扱ったそれを、絶対に負かす、潰す、天、地、山川どこにも居場所のないほどにその念を切り刻み、とかくわたしが気が済むまで絶対にすりつぶしてやるわ!」
士匄が怨毒を帯びた怒声を部屋中に響かせた。赫怒したその姿は、溶けぬ氷と固まった雪、黄砂を含んだ泥水が一気に押し寄せ氾濫し、荒れ狂う黄河そのものである。くそ、死ね、いや死んでるわ消えろ、消し炭にする、と勢いよく罵倒する士匄に趙武が声をかけた。
「もしかして、怒りを発散するためだけに、あの、すらすらと見事なお言葉で書庫をお借りしたのですか?」
書庫を借りたいと願いでる士匄の所作は若輩としての謙譲と研鑽への求道に溢れ、落ち着いたものであった。趙武は、あの禍々しい光景を見たのは己だけだったのか、趣味の悪い白昼夢だったのか、と思ったほどである。
「九割はそうだ。あと一割は、ここが安全だからだ」
肩で息をつき、少し落ち着きはじめる士匄に、趙武が首をかしげる。その様子に士匄は思わず
「鈍い」
と呟いた。言われた趙武は薄い笑みを浮かべると
「……申し訳ございません。私は経験浅い若輩にて、鈍いのです。范叔は毎日色々な方を受け入れて反応鋭くユルユルでございますもの、極めて経験豊富でものごともよくご存じでおられる。このたびは范叔のお導きにより政堂に不祥が起きるという経験をさせていただきました。今後も日々精進してまいりたいと思いますが私は非才かつ鈍才でございます。正卿が范卿の首を切り落としたり、范叔の脚が斬られたり、政堂が阿鼻叫喚、そしてここが安全ということをこの鈍い若輩にお教え頂けませぬでしょうか」
と、棘を含んだ声で言った。柔和な物言いにならないところが、若さというものである。士匄は、趙武の不快と埋み火のような怒りに気づき、咳払いをして、いや、うん、とどもったあと、
「言い過ぎた、悪かった」
と小さく呟く。ここで謝ってしまうところに、この若者のかわいげというものがあり、趙武も、いいですよ、と笑みを浮かべて失言を許した。
④へ続く