君以て易しと為さば其の難きこと將に至らんとす。簡単だと思ってた? だから困ったことになるものよ。④
士匄は諸事やることが早い。周へきちんとわたりをつけたあと、問題の道祖を祀りなおした。その際、受け取っていた破片を返そうとしたが、無くしてしまったらしく見当たらなかった。
「あなたはどうしてそう……まあ仕方ございません。道祖もあなたに手渡したもの、返せとは仰らないでしょう」
巫覡が呆れて言った。無いものは仕方がなかった。それよりも、である。道祖を祀った後しばらく、士匄は寝込んだ。一人で神と対峙したのである。疲労もあったし緊張の糸も外れたのであろう。道祖に新たな石柱を捧げ、再び晋に戻った後、ぶっ倒れたのである。
「なんでもかんでも一人でしようとするな。そう言ったろう」
父が珍しく優しい声をかけ、額をなぞった。士匄は朦朧したまま、あいつは役立たずで、とこもごも返す。頭がぼうっとし、熱で溶けきってしまいそうなほど、苦しい。
「あいつ、は、やくたたずで、あと、きたない」
あいつ、はもちろん趙武である。おおよそ、趙武に似つかわしくない言葉で、士匄は罵倒した。士匄が宮中に参内もできず病に伏せっていることも知っているであろうに、あの後輩は見舞いひとつしない。教導されているのだから、挨拶にくるのが本筋であろう。しかも、介添えについていってやり、無事に帰してもやった。が、物品と手紙ひとつよこしたきり、寄りつこうとしない。
「仕方がない」
父は――士爕は何か聞いているのか、やはり優しい声をかけた。
巫覡のように神の声を聞くものを平気で侍らせるくせに、士匄が鬼を見て祖の言葉を聞くと拒絶し嫌悪するものは、少なくない。欒黶のような自分本位の身勝手な男や、荀偃のように優柔不断で自我の弱いものは気にしないが、普通の精神を持つ者は、反射的に忌み、怖れ、汚穢を感じるらしい。防衛本能であろうし、反射でもある。彼らは、士匄という人間を嫌うわけではなく、得体の知れなさを拒むのである。
それにしても、今までそんなそぶりもなかったくせに、いきなりは卑しい、汚い。最初からそうであれ。
「……どうでも、いいです」
ぼんやりと呟く士匄に、士爕が気にするな、と返した。
さて、熱が下がっても士匄は参内しなかった。道祖と触れすぎたせいか、高熱で体質が変化したのか、さらに霊感が強くなり、遠く果ての鬼まで見えるようになった。呼びつけなくても祖のささやきは常に聞こえ、天の重みがのしかかり、地に沈むように引き込まれそうな日々である。
巫覡が、これ以上は、と言い、士爕も苦渋の決断をくだし――士匄は嗣子を降ろされた。士氏の巫覡として、次代を導くこととなった。士匄が跡を継がなくても士氏は続く。かつて趙武が指摘したとおりである。
趙武はもちろん、欒黶や荀偃にも会うことなく、彼らが訪れることもない。士匄は外の世界と遮断された。元々、才が高かったそれは、天稟といえるものにさえなった。いつのまにか年老いた巫覡があとを託して死に、士匄はカンナギとして父を――否、主人を支える人生を歩むことになった。
何年の時がすぎたのか、士匄にはわからない。日々、暦どおりに言祝ぎし、呪を唱えるだけの春秋を送っている。そのようなある日であった。
「これを唱え、願うよう」
士爕から渡された竹簡をほどくと、そこには死と呪いの文言が連なっていた。天に背いた者を呪い、死を与えることこそが、家の安寧であり、士氏が繋がる唯一である、という主旨である。
「私は晋の卿として、そして士氏の長として儀と礼、法を尊び、ゆえに楚との和を盟った。が、先だって我が晋は楚と戦いあろうことか勝った。これは天に盟った約定を違えることとなる。私は罰を受け、ひいては士氏の終わりよくない。私の死こそ嘉事となる。わかるな?」
懇切丁寧に士燮自身の死を祈る祝詞を、士匄はゆっくりと目で追ったあと、
「謹んで毎日の務めといたします」
と言って、ぬかずいた。天の采配は絶対であるから、あるじの言葉は正しい。そうして、士匄は口を開き――
「っざけるな! バカヤロウ!」
竹簡を勢いよく足で踏みつぶした。
「なんだこれは、なんだ! これは!」
息荒く叫び、士匄は足元に座する男を睨み付ける。少しだけ年をとった『士匄』が、巫覡の姿で端然と座っていた。
「わたしが巫覡なんぞ、するか! 父上が自死を祈るだと、冗談ではない。お前は、なんだ!」
苛立ち紛れに祈文の竹簡を蹴り飛ばし、怒鳴りつける。士匄、否、巫覡が感情の無い顔で見上げてきた。目を細めるそこには、心があるようには見えない。
「昔日の残りかす、未熟なお前に答えてやろう。わたしはお前が選んだ未来だ。中途半端に道祖の加護などもらうから、人の世界からはみ出てしまった。お前がそこでどうあがこうと、范主の運命は変わらぬ。この方は国を憂い心くだいたが、結局罪を得た。咎がある。天は盟約を破ることを許さぬ、士氏の終わりはよくない」
淡々と語る未来の巫覡に士匄は唾を吐き捨てた。頬に唾がかかっても、巫覡は拭わず身動き一つしない。
「士氏の行く末を守るためには、その身を捧げる必要がある。范主は覚悟あり、立派でもある」
「アホが。父上も律儀すぎる。今までどれだけの盟いがあり、破られてきたか! それ全てに天の罰があったとでも? 天は我らにそこまで関心ないでしょう、父上!」
士匄は父にも怒鳴ろうとした。が、その場にいるのは二人の士匄だけであった。陰の強いうすぐらい場所で、士匄はあたりを見回し、最後に巫覡へと目をやる。
「父上をどこへやった」
「お前とわたしが同時にいる場所だ。ここをまともな世界だと思っているのか? お前こそ愚かだ。過去の残滓よ。お前があの時、道祖の加護を使いこなせなかったのも原因だ。ほんの少しの分け前で万能になろうとしたのか。巫覡として父の死を祈るくらいがせいぜいというもの。もう、消えろ、去れ。わたしはこれから一族のために主人の死を祈らねばならん」
分け前などと、と叫ぼうとして、士匄は己の手を見た。いつか無くしたはずの石のかけらが、あった。わずかに汚れた染みは士匄の血の跡だろう。
「道祖――」
士匄は、ゆっくりと虚空を見た。諦めきったがらんどうの巫覡はもう口を開こうとしない。この巫覡が本当にここにいるのかも、もはやわからない。薄闇の中、士匄は確かに風の音を聞いた。
ご、という吹きすさぶ風と舞い上がる砂と共に、道祖が現れた。それは、士匄が整えてやった美しい神体ではなく、かつての朽ちかけた石柱であった。
「これを盗んだとでも思ったのか。それで咒でもかけ、わたしが、このような惨めな者になりはてたというわけか? たまたま、無くしていただけだ、己で取りにくるくらいしろ、怠慢が」
士匄は石を軽く振りながら、吐き捨てた。傍らの巫覡が、初めて表情を見せた。驚き、そして渇望しているようであった。
「この、この力があれば、あるいは――」
父が、助かる。枯れたはずの巫覡が、小さく呟く。士匄はその男を軽く蹴り飛ばすと、道祖に向き直った。
「今さら取りに来たのか、それとも新たな神体の礼にでもきたのか。そうだ、そうだった。わたしは、いっそお前を加護にしてやろうと思ったな、あの荒れ地で。我が士氏はかつて龍を――風と水を司ったと聞く。治水の王、禹の元で風を読み水を統べるゆえに御龍氏と名乗った。道祖よ、お前は巽、すなわち風だ」
独り言のように、宣言するように語る士匄の額はうっすらと汗が浮き上がっていた。腹がひっくりかえりそうな緊張が体を襲う。びりびりと皮膚が剥がれそうな痛みが強い。
神の力を全て己のものにする。巫覡たちが祖や天の力を『借りる』のとはわけが違う。すべからく、人は天地陰陽、山神河神、祖霊から力を借りているのであり、おのがものにしているわけではない。
士匄は、圧に負けぬ強さで、一歩一歩道祖へと向かい歩いてく。
「巽とは入るなり。入りて後にこれを説ぶ」
巽、すなわち風は入ってくるもの。我がふところに入ってこれば、喜びとなる。
指先が、石柱に触れようとする。あと一歩届かないと士匄は足を踏み出し、
そして。
「ダメです! 何を! してるんですか! 范叔!」
士匄は、横合いから趙武のタックルをまともに受け、共に吹っ飛んだ。
⑤に続きます




