一利を享くるも亦一悪を得るは務むる所に非ず、その場の勢いですることなんて碌なことにならないね!②
「いかがした、趙孟」
声をかけてきたのは、士爕だった。扉のわきで、拝礼しながら頭を抱えて動かない趙武を心配し、優しげな瞳で見下ろしていた。その後ろから欒書も現れ、どうかしたのか、と首をかしげている。政堂は清澄であり、宮庭は惨劇どころか血の一滴さえもなく静穏である。趙武の横で、士匄は一息ついていた。腹の奥まで冷えているのに、首筋を汗がつたっている。何か言おうとする趙武を手で押さえ、士爕に拝礼し、しずしずと口を開いた。
「お役目お疲れ様でございます。本来、嗣子としてお迎えにあがった後は父の後について帰るべきですが、本日みなで交わした問いにより調べねばならぬことができました。父上、そして正卿に謹んでお願いがございます。我ら若輩、この匄と趙孟に宮中の書庫を使うことお許しいただきとう存じます。まだ未熟な身でございます、先達のお言葉、史官の記録を見ねばわかりかねること多く、自邸の書庫では難しいと判断致しました。未だまつりごとに関わらぬ身で公室の書を見るは僭越なれど、伏して願うしだいでございます」
ゆったりと流れる水の如く、すらすらと出てくる言葉に趙武があっけにとられる。宮中の書庫は儀礼や法、律、そして政事の重要な記録に満ちている。そのようなところを使う、という話などしておらぬ。
「范叔、それは」
趙武が小さく声をかけるのを、し、とさらに小さな声で制し、士匄はさらに士爕と欒書に願い出た。士爕が困惑を隠さぬ表情を見せる。
「……宮の書庫は極めて重要な書が保管されている。汝のような若輩が研鑽のためとはいえ使うのは――」
「良いではないか。汝の嗣子も趙孟もいずれこの国を背負い、卿として人々を導く立場のものだ。今から史官の言葉や議の記録に触れるは良いことだろう。正卿として私が許そう。行ってきなさい。学び、そして私たちに後進の頼もしさを見せておくれ」
難色を示す士爕を遮り、欒書が深みのある笑みを浮かべて許諾する。そのまま、趙武に顔を向けた。
「趙孟は嗣子として学ぶ機会が無く、お困りのこともあろう。趙氏は今の晋を開いた武公、覇者とした文公をお支えになった一族。若くして正卿となって執政に務めた趙宣子もおられる。公室の書にも、あなたの祖の話は多い、きっと身になるだろう。あなたの父である趙荘子に関しては書に少ないかもしれぬが、私はあの人の佐として支えた時期がある。もしお話必要なら申し出てほしい」
重厚さの中に労りを込めた欒書の眼差しを受け、趙武は、感謝の言葉と共に拝礼した。あなたは少々若者に甘い、と士爕が困った顔をし、欒書がくすくすと笑う。そこには気の置けぬものどうしの空気があった。
「正卿のお許しに感謝し、公室の財を使いなさい。だが、その前に、だ。匄、なんだその不祥に満ちた気配は。この宮中の中をそのようなみっともない姿で立ち入っていたとは、父として恥ずかしい限りだ。正卿が指摘せぬは、他家の嗣子として慮ってのことと知れ。早急に巫覡の方に願い出て祓って貰え」
怒鳴り声を抑えたような声音で、士爕が口早に言った。
朝に祓われていたはずの士匄の体中に、重苦しいほどの禍々しい気配が絡みつきまとわりつき、のしかかっていた。
③に続く