予が口卒く瘏む、曰く予は未だ室家あらず。どこもかしこも病み疲れ果てました、家が無いのだから。②
「――え」
質の良い庭の入り口であった。季節ごとの花々を楽しめるように作られたその庭は、冬の盛り、山茶花が咲き乱れていた。確かに大貴族の道楽そのものである。後ろを向けば、いくつかの立派な棟が並び、それぞれを廊下が繋いでいた。やはり、大貴族の邸であろう。これほどのものは、趙武や士匄のような身分のものである。
趙武は己の頬を撫でる。暴風と砂で荒れた肌ではなく、常のするするとした肌触りであった。衣も汚れておらず、絹の柔らかい肌触りと光沢が爽やかなほどであった。
庭の先にも邸があるのか、話し声が聞こえた。華やいだ、楽しそうな、柔らかな笑い声が耳を打つ。この棟は最も南に位置している。つまり、主人の住居であろう。
警戒し後ずさる趙武に
「孟ではないか。帰ったのか」
と後ろから声をかけるものがいた。趙武は、叫び声を必死に押さえて、おそるおそる後ろを見た。
程嬰がいた。
目立つ頬骨、少し四角い顔、無骨な微笑み、厚い掌を伸ばしてきて、軽く背中を叩いてくる。趙武は一瞬、世界が止まった、と思った。自分の鼓動さえ聞こえないほど、音は消え、空気は固まり、時は刻むのを止めたのだ。そうでも思わなければ、崩れ落ちてしまう。趙武は目を見開きながら、唇を震わせた。怖ろしさが形を伴って微笑んでくる。
「帰ったら挨拶せんか。趙主、孟が帰った」
怖じる趙武に気づかず、程嬰が押し出すように歩く。自然、趙武もつっかえるように歩くはめになった。
庭が少し開けると、あでやかで慈愛に満ちた笑顔で、母が迎えに来る。手をとって
「まあこんなに冷えて寒かったでしょう」
と言い、ふうふうと息を吹きかけた。冷たい手先は溶けるように温かくなった。
「ずっと入り口で立っていたようだ」
程嬰の声は深く男くささがあり、柔らかい。
「あら。学びで嫌なことでもあったのかしら。皆さん、英才ばかりですけど、武も努めていることを母は知っていますよ」
母の声は慈愛に満ちていながらどこか可憐で、温かい。
「孟も年ごろだ。我ら年よりが話している中に入りづらかったのかもしれん。何か色めいたことでもあったのかな」
庭に面した部屋で、大叔父が微笑んだ。年よりなどと言うが、いまだ男ぶりあり、揶揄する声音も洒脱であった。
「私のころは若いもの同士で勉学に励む暇もなかった。武は今日、どのようなことを学んだのか、教えてほしい。お前の成長は私の喜びだ」
部屋の中央から顔を除き、その男ははにかむように笑った。母も、程嬰も、趙主、と嬉しそうに呼びかけ、歩きだす。趙武だけが、庭に突っ立ったまま、主人の部屋を見た。
人の良さそうな男が、家僕に醴を、と命じていた。きっと、趙武のために用意するのであろう。荒れ地で散々彷徨い、冷え切った体の趙武のため――いや、庭先で突っ立って冷えた体の趙武のために。
趙武は、小さくため息をついた。
こういったことが、ずっと見えるのであれば、士匄は大変な世界で生きている。しかし、彼は迷いなく進んでいるように思えた。士匄は、惑わせるものを蹴散らして、自分の好きな物だけを掴んでいるのであろう。彼の世界が混沌としていても、確かな物を見ているのかもしれない。
家僕が、席をひとつ、新たに設けていた。主人に次ぐ格の場、つまりは孟――嗣子の席である。
「卿の大夫が立ったまま挨拶もせず、不作法だぞ、孟」
程嬰が少し厳しい声を出した。遠い昔、趙武をしつけていたときの声に近かったが、どこかゆるさがあった。
「どうしたんだい、武」
男が。人の良さそうな、地味な顔立ちのくせに妙に整っていて、どこか趙武のおもかげのある男が、手招きした。趙武はその男の正体などとうにわかっていたが、考えないようにしていた。
背のはるか後ろで、ホウホウとミミズクの鳴き声がした。つまりこの場は、死の先にある何かである。死が境界にあるのであれば、ここも生の世界かもしれぬ。
趙武は、手招きする男に首を振って返した。男も母も大叔父も、程嬰さえも不思議そうな顔で趙武を見てきていた。
「程嬰に恩返ししたいと思って生きてましたが、できませんでした。母上はどのような方だろうと思ってましたが、私に母などいなかった。大叔父は私など見ない。ここはそうじゃないの、すごくわかります」
喉がひくりと鳴った。声が震えて出てくる。趙武は涙をぐうっとこらえた。絶対に、一筋も涙をこぼしたくないと思った。こぶしを強く、てのひらに爪がくいこむほど握りしめる。
「范叔は仰った。道祖は我らが選ぶかどうかを見ていると。ここはとても温かく幸せで、全てがございます。ご用意いただき、感謝に堪えません。しかし、私はここを選ばない。それはもう、とっくに決めてます。程嬰が死んでから、決めました」
「どうしたんだい、武」
趙武の言葉を知ってか知らずか、男がもう一度手招きして微笑んだ。少し、首をかしげるそれは、まさに苦労知らずの大貴族そのものである。
「私はいらない。母も、大叔父も――父も、いりません。私はきっと誰からも愛されないし、たった独りで、生きていきます。そうして、継いだ趙氏を守って次代に繋げます。私は、安らげる邸などいらない、荒れ地で独りで歩きます。ずっと、死ぬまで歩くって決めてます」
まさに、宣言であった。戸惑った大人どもが、孟、どうしの、孟、とさざめくように呟いた。子供を本気で慮る、大人の憂いが趙武の心を刺した。彼らは、趙武を愛しんでくれているのだ。
「どうしようというんだい、武」
懐かしいおもかげの見たことのない男が、戸惑ったように声をかけ、手を伸ばした。趙武は再び首を振った。
「お暇いたします。さようなら、ごきげんよう。いつかまた会う日が来ます。それまで独りでがんばります。誰に誓ったわけでもない、天地陰陽に誓う必要さえないんです、私は独りで生きますから、安心してください」
趙武は身を翻してミミズクの鳴く方へ、元の荒れ地へと、走っていった。
自暴自棄のまま突き進んでわかったことは、この道祖に悪意があるということだった。趙武は己の愚かさを呪いながら走る。
人にとって安穏なものを出して、選ばせようとする。士匄ばかりに選ばせ趙武を無視していたくせに、唐突のこれである。道祖の悪意に従い、趙武がこの幸せな世界に耽溺すれば、本来の己は消えていた可能性があった。つまり、今、境界の奥、現実でない場所に誘い込まれているわけである。
趙武がここにいる以上、士匄は一人きりである。
「道祖の狙いは、范叔だった!」
叫びながら趙武は境界の『中』へ飛び込んだ。通り抜けざま、頭上でホウホウという鳴き声がする。確かに、死をこじ開け趙武は荒れ地へ戻っていった。
次話明日。
趙武くんの生活に困らないけど不幸な人生が少しでも豊かになりますように。




