一利を享くるも亦一悪を得るは務むる所に非ず、その場の勢いですることなんて碌なことにならないね!①
それなりに血腥く残酷なシーンがあります。
「問題の邑の引き継いだ内容を確認しましょう、あなたのお言葉だけでは私には判ずることできません」
一度命じられたのであるから、もう文句は言わぬ。腹をくくった趙武は士匄と共に歩きながら言った。
「わたしの記憶力を疑うのか」
周の大夫から渡された文書の一字一句、士匄はそらんじることができる。それで足りないのか、と噛みつけば、そうです、とにべもなく返された。
「あなたは己の行為に間違いは無いとおっしゃる。私にはそうは思えませんが知伯は肯定なされました。しかし、あなたは否定なされますが殺された方の祟りであるのも確かであるとも知伯はおっしゃった。つまり、言葉の解釈違いか、隠されたものがあるのではないでしょうか」
「……もしくは、わたしが謀られた、か」
顎に手をやり撫でながら、士匄は眉をひそめた。あの周人が士氏を騙す理由は無い。が、彼ら自身を騙していた可能性があることに気づいたのだ。つまり、自分たちへのごまかしである。
そのような会話をしながら、二人は政堂まで歩いて行く。政堂の前には集会のための庭がある。趙武はちらりと目を向けた。その場では、様々なドラマが繰り広げられたのであろう。史官が記録を発表するのも宮庭であった。趙武の父が意味も無く誅戮されたことも、趙氏が許され趙武を長と認めたことも、告示されたに違いなかった。
さて、士匄は相棒の感傷などもちろん知らぬ。政堂の扉のわき、常に待ち控えている場に座した。趙武も合わせて座る。朝政が終わったらしく、寺人がしずしずと扉を開けた。そうして、いつものように姿勢正しく威圧無く、しかし柔弱さ無く歩いてくる父に拝礼する――はずであった。
扉が開いた瞬間、大きな塊が、勢いよく飛び出し堂のすぐ外にある庭まで転がり落ちた。何が起きたか分からず、茫然としている士匄と趙武の前を、男が一人歩いて行く。背は高くはないが、厚みのある体が壮年になっても衰えが無いことを示している。手に持つは金色に輝く銅剣であり、これほどの業物は家宝のひとつに違いない。その刀身にはべったりと血糊がついている。
「正卿……?」
趙武が呻くように呟いた。沈毅重厚、落ち着きと冷静さ、そして手堅さを讃えられる欒氏の長であり君主を支え晋を束ねる正卿、欒書がゆったりと宮庭へ歩いていた。冷たく重い目つきで転がったモノを静かに見据えている。士匄は混乱から戻らぬまま、その姿を目で追った。そうして、庭に転がっている塊の正体に気づき、悲鳴をあげた。
「父上!」
士爕が庭に血まみれで襤褸のように倒れている。数カ所刺され斬られ、体中ズタズタでありながら生きているようで、蠢き、近づく欒書に何かを訴えようとしている。もはや、声も出ぬというのに、まるで諭すようなしぐさであった。士匄は欒書につかみかかるべく走り出した。手に剣はもちろん、無い。本来、政堂に武器など持ち込まぬ。欒書が何故持っているのかなどどうでも良い。とにかく、士爕を助けなければならず、それには欒書を取り押さえねばならない。若造が一国の宰相の肩を掴み、引き寄せなぎ倒すべく腕も掴んだ。が、士匄は何者かに首根っこを捕まえられ引っ張られる。肩を掴んだ手は斬り飛ばされ、斬撃の起こした風が袖をかすかに揺らした。
「あ――?」
己の身に起きたことがわからず、士匄はまぬけな声をあげた。そのまま地に組み敷かれ、罪人のように額を地にこすられる。痛みを耐え必死に顔を上げると、欒書が士爕の首を刎ねていた。
「まつりごとにて和することを拒み、己の保身のみを考える卿であった」
およそ、士爕を表す言葉ではない。言葉にならぬ叫びと共に士匄は憎悪を込めて欒書を睨み付けた。士爕と欒書は子から見ても仲が良く、互いの邸を往き来しては、穏やかに友誼を深めていた。士爕が欒書を尊敬し卿の一人として支えていることを、士匄はよく知っている。それを、蔑み殺すなど、許せるものか。
「嗣子は刖にて」
欒書がふり返らずに言った。強い力で押さえつけられ、体を、特に足を固定される。ぎ、と士匄は喉奥から呻くように奇声をあげた。
刖とは脚を斬る欠損刑である。膝の骨を抜くもの、アキレス腱を断ち切るもの、脚そのものを断ち切るものの三種類をさすが、この場合は一番最後のものであろう。
「う、嘘でしょう、あ、韓主、韓主はどうしているんですっ」
扉の傍で唖然としていた趙武は、ようやく我に返り己の後見人でもある卿を呼んだ。韓厥、その性質は謹厳実直であり情に流されぬが非情でなく、理で動くが理屈を弄ばず、私欲なく誰とも党を組まず。正卿欒書が頼みにしている男の一人である。
政堂の中に、韓厥はいた。この男は表情が薄いが、感情が無いわけではない。ほぼ身内である趙武には韓厥の気持ちが伝わることが多い。優しさ、厳しさ、労り。例えばそのような感情である。今、政堂の中、戈を持ち、卿のほとんどを殺し終えた韓厥は薄い表情で悦んでいた。そのおぞましい姿に、趙武はヒッと悲鳴をあげる。
「だ、誰か、誰か止めて下さい、知卿、知卿は」
荀罃の父、荀首。戦場にて力を発揮しながらも穏やかな政見から賢人と欒書が讃えた一人である。その惨殺死体が趙武の視界に映る。それを韓厥が何度も刺していた。
士匄の脚に刃が食い込み、ぶちぶちと筋肉の繊維をちぎりながら
「がああああああああああああああああっ」
全て落ち、
「うそ、うそです、なに、こ、れ」
庭に響く叫び声に趙武は首を振りながら、両耳を手で押さえた。そうなれば、目の前の惨劇は隠れない。しかし、陰惨な絶叫などもっと聞きたくない。趙武はとうとう頭をかかえて丸くなりうずくまった。
②、③、④へ続く