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畏る可からざるなり伊れ懐うべきなり。遠い敵地なんて怖くない、ただ家に帰りたいだけ。①

 (わだち)のあともかすかな道、どこまでも広がる枯れた荒れ地、遠くに見える山々も寒々しい。空の色は薄く、凍てついた雲がところどころ覆っている。髪が舞うほどの風は冷たく全ての命を削るように吹きすさび、乾いた砂が巻き上がっていた。

 地平線の先は黄みがかった砂塵に覆われ、その先はわからない。少なくとも、周都の門は見当たらなかった。

「こ、こは……」

 趙武(ちょうぶ)が、()()()()()()()()()()()()()()言う。全力疾走しつづけたからであろう、肩で息をしていた。腕にはしっかりかごを抱いていた。士匄(しかい)は傍らで、佇んでいる。その目はいらつきと呆れがあった。ふところにある犬の骨は全て粉状となっており、衣服の中ですわりがわるく気持ち悪い。

「天ほどでもないが、道祖(どうそ)も融通がきかん。我らもあいつらと同じく罪ありとしたらしい。ここは道祖のふところの中だろう……いいかげん立ち上がれ、いつまで這いつくばっている。あと、その珍獣をいつまで持っているつもりだ」

 趙武に答えながら士匄は毒づいた。逃げているうちに、士匄に引っ張られ続けた趙武が思いきり転んだのである。体格差としても身体能力としても趙武の足がついていけないことは仕方があるまい。ただ、逃げる間も転んでさえ、得体の知れぬ珍獣を庇っているなど士匄の理解に苦しむ。趙武がこわごわと己の腕の中を見下ろし、ため息をつくとゆっくり立ち上がった。

「あの……この犰狳(きよ)のことは、その……。特になにも考えてませんでした」

 本能的に小動物の死が耐えられぬタイプらしい、と、士匄はますます呆れた顔をした。が、趙武という青年はただ誠実で優しいだけではない。大変、()()()()雑さを持っている。

「いざとなれば食べましょう」

「は? 誰が(さば)いて料理するのだ、そういう言い訳をするなどみっともない」

 おままごとかよ、と士匄は嘲笑した。趙武が不思議そうに首をかしげた。

「まあ、料理といっても、火がないと難しいですけれど、いざとなれば生肉も栄養です。……あのその前に、捌けないのですか? えっと……男が獲物を捌けぬなど、堂々と仰って大丈夫ですか?」

 あまりに気づかわしげな声音の趙武に、士匄は本気を察し、顔を引きつらせた。大貴族自ら獲物を締めて捌くということは無い。いや確かにはるか古来、氏族の長が肉を切り分けて(ちか)いの音頭をとった。その際、みずから贄を屠ったかもしれぬ。が、いまや専業のものがいるのだ。儀式であっても上大夫が贄を血抜きして解体することなどない。まして普通の獲物など論外である。が、趙武の顔は真剣であったし、少々の憐憫が込められていた。

「あの。先達に申し上げるのは僭越ですが、ここだけのお話にしておきましょう。士氏(しし)嗣子(しし)が獲物を捌けぬというのも外聞悪いでしょう。范叔(はんしゅく)はいささか体質が特別ですから仕方が無いのかもしれません。私はいずれ范叔を支える卿となるでしょう。お困りのときはお声がけください」

 決意を込めた趙武の声音に、士匄は呆れや嘲りを通り越して、唖然とした。慮られたらしい、というところまではわかった。士匄は弁が立つし頭の回転も速い。しかし、押し出しが強いわりには押しに弱く、あまりにもバカバカしい状況下で頭がアホになることも、まれにある。今まさにそうであり、

「お、おう?」

 という言葉しか出なかった。現代に即して例えるのは難しい状況であるため士匄の放心は説明しがたい。趙武は、よもや口先三寸の士匄が言葉を失っているとも思わず、かごを持ち上げ中を覗きながら微笑んだ。

「犰狳という獣を私は初めて見ましたし、どのような動物か知りません。でも、顔はネズミ、体の大きさや腹はウサギのよう。背はびっしりと甲羅に覆われてます。ウサギも亀やトカゲも捌いたことがございますので、ご安心下さい」

 かごの中の犰狳はわかっていないらしく、趙武の顔に鼻面を近づけ、かごの中からキョウキョウと鳴き声をあげた。鳴き声から名をつけられた獣らしい。趙武が、かわいいなあ、と笑った。士匄は再び引きつった顔をした。

「……愛でるも吟味するも同じかお前は。まあ、いい。このままじっとしていても仕方があるまい。歩くぞ」

「あてがあるのですか?」

 かごを持ち直し趙武が問う。士匄は首をふった。

「あてなんぞあるか。道祖は境界に陣取る神だ、旅の加護をするもの。足を止めるものの味方はせぬ。留まれば停滞とし、見捨てられるか祟られるか。そうでなくても、あの下賤のものどもを御しえなかったと思っているに違いない。ここに放り込んだのは執行猶予というものやもしれん」

 そこまで言うと、士匄は空を見た。淡い陽光には、確かな陽気がある。幻にしても、法則性は外と近いであろう。

「西へ向かう。我らは西より来た。では、西へ戻るが良い。くそ、下々が蒙昧なのは仕方が無いとはいえ、厄介迷惑だ」

 士匄は歩き出しながら吐き捨てた。教養があれば、道祖の強さと怖ろしさ、孤高を知っている。世界を司る天地陰陽でなく、恵みと祟りをもたらす山や河の神でなく、己の根源たる祖霊でもない。特定の祀りを必要としない冷厳かつ人間味のかけらのない存在である。人の世界と異界の間に立つ境界そのものと言ってよく、相容れぬもの同士を監視する神でもある。この手の神は古代社会で世界各国で見受けられる。日本では道祖神と呼ばれている。

 それほどの権威をよもや、知らぬとは士匄も思わなかったのである。わかっている者はわからぬ者がどれほど無知か、想像できぬものであった。

 まあ、ここからが人の国、そちらから異界などと、決めているのは権力者である。この社会性が強いわりに生活に無関係な神を、民が知らぬのも仕方がない。士匄はそれに思い至ったため、無知蒙昧は仕方無しとしたのである。

明日②へ

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