シャスターデージー
デイバッグを肩に担ぎながら、彼は騒々しい街を歩いた。その日は、いつになく仕事が早く片付き、デパートが開いている時間内に間に合うので、そこに向かっていた。
値引きのシールの付いた弁当なら、幕の内でも、かつ丼でも、チャーハンと焼きそばのセットなどなんでもよかったので、少しでも安く得ておきたかったのだ。
ため息を漏らしつつ、ネクタイを緩め、ワイシャツの第一ボタンを外した。足が意識を持って向かっているかのような、重い足どりだった。
デパートまで後数十メートルといったところで、彼の歩調が変わった。ビルの一階のテナントに入っている花屋があった。これまでも通っていたのだから、新規開店を目にしたとか、珍しいキャンペーンをしているとかでもないので、彼がそうする理由はなかった。けれども、彼は吸い込まれるように店内に足を踏み入れた。
店員の挨拶は、その場にふさわしく穏やかな口調でされた。おかげで彼は場違いなところに来てしまったのではないかという後悔を思わずに済んだ。
ふと彼の観賞にストップがかかった。小さなポットに咲く花が目に付いたのだった。妙に心が奪われ、離れがたく、どうしてもそれを手にしておきたい気持ちになった。彼はそれを購入することにした。
ガランとした暗いアパートに戻って、彼は買ったばかりの花をビニールからテーブルの上に一旦置いてから、受け皿の代わりになるものを探した。これまで花のポットなど買ったことはないから、専用のそれがあるはずもなく、発砲スチロール製のタッパーを出して、そこに置き直した。
デパートで買ったいなり寿司を口にしながら、花を見ていたが、どこかで見たことがある気がする、そんな程度でしかなかった。
食後、浴槽に身体を浮かべながら目を閉じていると、記憶が現れた。
「そうか」
彼はおもむろに浴室から出て着替えると、花の名を見た。シャスターデージー。彼には、その花にまつわる断片的な記憶があった。
小学生の時だったと思うが、教科書だか資料集だかにその花が出てきて、それを祖母に話すと、
「育ててみるか?」
と言われ、首を縦に振った。
季節がいつだったのかは思い出せないものの、雪が腰くらいに積もった畑に行って、その花の世話をしたような気がする。そして、開花し学校に持って行って教室に飾った。こことは違って田舎だったから、そんな孫の思い付きにも相手してくれる時間も場所もあったのだろう。
そんな記憶。列挙されたのはそんな事実のみだった。今目にしているような純白色の、一つ一つの花弁は小さいが円周に手を取り合うように並んでいる様子であったのか、その記憶はなかった。
しかし、このシャスターデージーは彼の心持をマッサージするには十分なほど可憐であった。
立ち上げたパソコンで、その花を検索してみた。種類もたくさんあって、どれが自分と祖母が植えたものなのか思い出すことはできなかった。
「花言葉もあるのか」
独り言をこぼして彼は、ディスプレイ上にあったシャスターデージーの花言葉を凝視した。「すべてを耐え忍ぶ」。それを読んで彼は再び、あの畑の雪を掻き分けながら、その花のために何事かをしたことを回顧した。
「だから、こんなに白く咲けるのか」
口を持たないはずの花は、その色で彼に多弁だった。
壁掛け時計を見やった。二十二時半。彼はスマホに手を伸ばして止めた。電話をするのは今度の休みにしよう。言うまでもなく祖母にである。
シャスターデージーが柔らかくほぐした彼の心は、ここに来て微振動を起こして、明日への活力、最近は行き詰まっていた仕事へのやる気を起こした。