紫煙の夢路
駅前の踏切につかまってしまった。
この踏切は長い。ただ、ここで待たされる時間も勘定に入れて、今日は早めに家を出てきた。
…私はこの踏切の前に立つ時、少し勇気がいる。
過去、ここで一人が潰えた。
これは私が高校二年の時の話である。
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*-*-*-*-*……
踏切の音。この踏切を渡った先に通っている塾がある。
駅前の踏切というのはだいたい長い。大きい駅の隣の駅というのもあり、電車の行き来が多いからだ。
よって相変わらずここで待たされる人は多い。遮断機の前に人は密集している。そのほとんどはスーツをビシッと着て四角いカバンを持つサラリーマン。それも、カバンを持っていない方の手で画面を操作し、イヤホンをつけている。
漆黒のブレザーに長い丈のスカート。学生服をまとっているのはここに私一人。
また、私の隣で待っている人もサラリーマンではなかった。缶ビールを入れたコンビニ袋を提げている、ダボダボの服を着た、小柄で色黒な男の人。
缶ビールの冷たさに、ビニール袋には結露が合わさり水滴が垂れていた。
「どうも。」
突然その男は私に話しかけてくるのだった。
「あっ、どうも…。」
当然困惑した。
「なぁ、高校生。」
呼ばれているのは確実に私。
声をかけてきた当の男は私の方ではなく、前を向いていた。
「アンタは、缶ビールを飲みたいと思うか。」
もちろんお酒は飲んだことがないので、お酒は不味いのか、美味いのか知らない。私は黙っていた。
「缶ビールを開けるとなァ、少しばかり炭酸が吹き出て飛沫が出るんだ。」
缶を開けた瞬間の、プシュッ という現象だ。
「それが醸す、繊細で、深い香りがいいんだ。」
「へぇ、香りが。」
そう言うと彼は胸ポケットの小さな箱から煙草を一本取り出し火をつけた。
ゆっくりと吸い、もの寂しく、煙を吹いた。
その迷惑行為に、私含め踏切待ちをする人々は鋭い目で彼を睨みつけた。
漂う煙は私にも届いた。その匂いは、苦み強い、私の喉を枯らすよう。
彼の吐いた煙が消える頃、彼は話を始めた。
「…俺には夢があった、アンタくらいの時にな。何とは恥ずかしくて言えたことではないが、俺には胸には燃える志があった。
高校を卒業して、その夢を追いかけた。躓いては立ち上がって、親に縁を切られるまでになって、必死に追いかけたつもりだ。
でもな、一度もその夢に指すら触れられなかった。
俺は燃え尽きちまって、その夢を諦めたんだ。」
彼がもう一度煙草をスウッと吸うと、その火は消えた。そして今度は鼻からため息として煙を出した。煙はまたも辺りに広がり、周りのサラリーマンらはいよいよ彼から数歩離れた。
彼は煙を出し切り、こう言う。
「そうして失うものが何も無くなった途端、前よりも格別に、煙草と酒が美味くなった。
拒絶してた俺も、結局こうして大人に染まっちまったんだな。」
大人に“染まった”という言い草。初めて聞く表現だ。
彼の夢、一応の話を聞いた身として心底知りたい箇所であったが、彼を尊重して尋ねはしないでおいた。
「俺の夢は煙に巻かれたって訳だ。」
ハハハハハハッ!!!!
男の人は突然大口を開けて笑った。私の体は瞬時に肩を竦め反射を起こした。
恐らくこれは吸っている煙草と煙をかけたジョークだが、突如なる豹変に、彼をおもわず見ない人はいなかった。笑う彼の口元は煙っていた。
高笑いを終えた彼は初めて首をこちらに向けた。
「ところでアンタは夢がありそうな顔をしてるなァ。その夢、聞いてもいいか?」
自分の夢は言わなかったくせに、私の夢を追求してきた。ただ、先程の話を聞くに、彼は悲惨な人生を歩んできたらしく、あれほど明かされたら私は答えないべきではなかった。
「飛行機のパイロットになりたいんです。」
夢を自語りするのは少し恥ずかしかったが、これが私の追う、明確な夢であった。
その時ちょうど、左に見える駅に止まっていた電車が右の彼方の華小町駅方面へ動き出した。
ガタン! …ガタン! …ガタン!
電車が踏切を踏む音。電車が目の前にそびえ立つ。
電車の走る音はいまだに苦手。ものすごく大きな音が私を圧倒し、私を怯えさせる。
「パイロットか! そいつァいいな!」
彼は電車の生むこの爆音下でも私に聞こえるよう声を大に、そう言ってくれた。
周りには聞こえていないようだったが、私の頬の赤らみは一入濃くならざるを得なかった。
「アンタならなれる!絶対、なれる!」
####ーーーーー!
この電車の警笛。彼の言葉に呼応するかのように鳴った。
…爆音が止み、私の耳には環境音が戻ってきた。車の音、バイクの音、革靴の歩く音、なにかの腐敗を待つカラスの鳴き声。
踏切は二本の電車を待っていた。一本目は今のもの。二本目はこれから華小町よりここの駅に入ってくる。
彼は缶ビールをビニール袋から取り出してそのタブを開けた。
プシュッ
大人な音。儚く舞った炭酸の飛沫と、芳醇な香りが漂ってきた。それは私にすぐに浸透し、彼の煙によって萎びた喉を修復した。
「いつもは家で飲むんだァ。大人になっちまったことに、“乾杯!”ってな。」
そう言って彼はビールを飲み、飲み込んだところで二本目の煙草を取り出した。そしてそれに火をつけ、吸った。それから煙をハァ、と吐く。
夢を諦めた自分の人生に乾杯するとは、彼はいやに能天気だった。何か、失うものが無いような、吹っ切れているようだった。
「実は俺はいま裁判中でね。まぁ夢を追いかけた代償ってところだ。
俺は夢のために周りに無理をさせちまった。それも、弁解のしようもないまでにな。
俺はどうやら感謝を忘れてしまっていたらしい。あいつらには申し訳ないと思っている。」
垂れた彼の左腕、その手の人差し指と中指に挟まれた煙草の火は、虚ろに赤く光っていた。
「だからアンタには、他人への感謝を忘れない存在であって欲しい。わかったか、高校生。」
私は彼に頷いた。彼の意思が染みた、私の体はとてつもなく重かった。
「よォしそれでいい。夢に向かって、一途であれ、少女よ。
…なんせ、夢を追えるのは子供だけなんだからな。」
これから死ぬ訳でもないのに、彼の言葉は遺言のように聞こえたた。
彼は火が消えてしまった煙草を下へ放り、それを踏みにじった。
「大人の俺から言えるのはこのくらいだ。」
その時だった。彼は遮断機を手で上げ、中へのそのそと入っていった。
「あ、ちょっと!!」
この時彼を引き留めようとしたのは私だけ。周りの人は皆、手の画面を見ていて、耳に栓をし、その人を知覚する人は誰一人といなかった。
「じゃあな、高校生!
俺の代わりに、夢を叶えてくれ!
その夢を!
ハハハハハハハ!!!!!!
♯♯♯♯♯♯ーー!!!!!!!!!!!!
─────
…轢かれたあの時、彼の言葉の余韻は電車の叫ぶ警笛でかき消されてしまった。
でも私のもとには確実に届いた。誰も聞いていなかったであろう彼の残響は、しばらく耳の中で再生されていた。
この事件は、翌日のテレビに流れていた。
警察によると彼の自宅に缶ビールと吸殻が大量に捨てられており、中毒であったという。
押し入れには漫画の原稿と万年筆、インクボトル、その他道具があったそうだ。
また彼は詐欺・脅迫罪の訴えを受けていたことも報道された。原告側は彼の傲慢さに弾糾していて、数ヶ月の議論の末、300万近くの賠償金が彼に下される直前だった。
あの日は、その裁判の当日だった。
死を以て回答されたその訴訟は、音もなく取り下げられていた。
運命に儚く散り、夢の諦観に殉職した、彼を、決して忘れてはならない。
同じ、夢を追いかけた、存在として。
改めてそう思ったのは、ここで今、あの時と同じ位置で踏切を待つ、先日パイロットの試験に受かった私だった。
実はあの日、私は夢を諦めかけていた。塾に行けど勉強しようとも、結果こそ出ず、無意味に私の時間と家の資産を費やすことを辞めようかと考えていた。
しかし彼が失われるのをこの目で見た私は、いつまでも夢を追い続けることの難しさと重みを覚えた。
それで私は覚悟を得た。
それからというもの、私は必死に勉強し、食らいついた。
彼のため、失われた夢のために。
両親は私の夢を全力で応援してくれていた。
合格通知が届いた時、居合わせた父と母に感謝を叫んだ。その途端、ありがとう すら言えなくなるくらいに三人で泣き崩れてしまった。
そして今日、これから免許の受け取りに行く。だから家を早く出てしまった。
踏切のそば、黄色の塗装が褪せた低い石柱の前に置かれた一本の缶ビールは、先日の試験当日、私が買って置いたものだ。
その時には私は彼に一つ告げた。
「私は貴方みたいにお酒を飲むことはしないでしょう。」