1.自分になるのも他人になるのも、どちらも等しく変容だ
灯華高校選挙管理委員会告示
二〇三三年五月三〇日執行の生徒会選挙において当選人と決定した者は、次の通りです。
生徒会長 二年四組 星野ユキ
副会長 二年四組 石動雨垂
会計 一年七組 岡本籐九郎
書記 二年四組 佐々木さみどり
☆
~ 補欠選挙のお知らせ ~
二〇三三年九月一〇日
役員に欠員が出ましたので、急遽補欠選挙を開催いたします。
欠員が出た役職は、次の通りです。
書記 一名
■ ■ ■ ■
二〇三三年の夏、ある地方紙に掲載された一葉の写真は、その見出しのインパクトで世間を賑わわせた。曰く『新種発見か!?』。ワイドショーでは地域住人が撮ったとされる動画も上がっており、真偽不明ながらある程度の信憑性をもって情報の受信者に受け入れられていた。
全長四メートルほどのその生物は無数の足を持ち、その一本一本が人間の腕のようであり、貌には『眼』、それも右側は抜き取られたように虚ろな穴が空いており、左目以外のパーツはなく、中心に座した翡翠色の単眼が、カメラを通してじっと『こちら』を見つめている。
あたかもアドベンチャーゲームにでてくるエネミーのような、生物の醜悪さと機械の無機質さが同居したデザイン。
それが現実にあると知られ、往年のファンタジーマニアに熱狂をもって迎えられ、そして、話題にのぼったのは一週間にも満たないごく短い期間だった。
それも当然のことだ。
世の中には不思議なことが山ほどあって、それにはだいたい一言で説明がつく。
超能力。
その生物はそれに類するもので、だから、世の中には目新しいものなどなにもないのだった。
ただ、写真嫌いの中学生がひとり生まれただけの、些細で、ありふれた悲喜劇の一幕である。
1.
『進学先は【灯華】にしておけ。同じ【眼】を持った片割れがそこにいる』
言われたからというわけでもないが、中林緋視の進路はそうして確定した。彼自身がそうすべきだと予見した。……高校一年の春。脳に埋もれた制御チップは正常に稼働している。正常に。周りの人間はちゃんと『人間』のかたちをしている。
目が回りそうだった。端末を起動する。
中林は親しい友人に呼びかけるように。
「……『白樺』。校内でひとけのないところを検索してください。少し酔いました」
『……いや。めんどいんで。ほかあたってどうぞ』
「わかった。握りつぶします」
優しいのは口調だけだった。警告も早々にミシリ、と軋む音がする。端末らしからぬ人間みを発揮したポンコツは、即座に情報を持ち主のもとに提示した。「最初からそうしてください」若干疲れを滲ませて、彼は息をついた。目にかかるくらいの長さの前髪が揺れる。鴉羽色の艶やかな髪、その一房のみが欠落したように緑色に染まっている。「ナビゲートは不要です。きみの案内じゃ一生かかっても辿りつけませんからね」
表示された図面を見つつ、中林は人の流れを逆行する。食い入るように端末を覗きこむ紫の瞳は、合えばたじろいでしまいそうな眼光を放っていたが、さいわいにして。彼は、下をむくことで人を見ないようにしていた。
道すがら肩がぶつかることはない。すでにルートは予見していた。空き教室に到着した中林は、端末の怠惰に呆れの声を洩らした。
「白樺……。ふつうに人、いるじゃないですか」
「んー?」
間の抜けた声とともに、中にいたそいつは振り返った。
歳のころは中学生くらいか。だが、中林と同じ制服に身をつつんでいることから、幼く見えるだけで同年代なのだろう。入学したてならば中学生に毛が生えたようなものだ。着慣れてなさげな新品の女子用制服がそれをものがたっている。
光の加減で白にも金にも見える薄茶色の髪はショートカットで、後ろからは少年と見まがうほど。頭部の輪郭に沿うように髪を編み込んでいるので、ほどけば実際にはもう少し長いのだろう。センターで分けた前髪のおかげで、くっきりした太めの眉の下、はっきりした目鼻立ちがよく観察できた。目つきがさほどよくないためか、人相については少々近寄りがたさをともなう、どこか冷たい感じを受けた。琥珀色の瞳がなんとなく懐かしい。
それで気が緩むどころか、中林の顔に浮かぶのは警戒心だった。
「……きみ、『何』ですか?」
生まれつき、彼は未来を視る目を持ち合わせていた。人の最終的な未来は『死』にほかならない。だから、中林には人間が死体にしか見えなかった。……制御は切ってしまっていた。彼の目に写るのは『人』たりえないはずだった。
「白樺」と呼びかける。「教えてください。この場に、俺以外の人間はいますか?」
通話口から聞こえる合成音声は、機械的に応じる。
『そこに人はいない。生体反応は確認できない』
──目の前にいるのは、人ではないと。
「さっきも。いまも。『しらかば』って言ったよね?」
いっそう警戒を深める中林には頓着せず、少女は「むむむ」とうなったのち、そう訊ねてきた。
「、言いましたけど。それが?」
「じゃあ。ボクと一緒だね。『これ』。そっちにもあるってことでしょ?」
迂闊だったなと舌を打つ、自分より頭一個ぶん上背のある少年に対しても物怖じすることなく、彼女は羽織ったベストのポケットから携帯端末をとりだした。
真っ黒で、薄っぺらな、板状の端末である。小柄な少女が持つにはわりあいに無骨な印象を受けるデザインだが、とり立てて不自然というほどでもない。個人の嗜好といえる範囲の、変哲のない機種だった。──中林は反対に、真っ白な、同じ機種を保有していた。
端末に保管されているのは、あるひとりの少女が『見た』データだった。
眼球は黒と白にわかれている部分がある。ふたつを割ったならそれは二色にわかたれて然るべきである。まさか本当に目玉を素材にして携帯端末をつくりだすわけにはいかない以上、右目と左目、ふたつにわけて保管するのは必要な措置だった。
中林のほうの端末が保持しているのは、少女の記憶。眼球が見たもの、そのすべてが保存されている。──右側の視界に限られたが。
黒い端末には、左側の視界が封じられているということだろう。
「なんてーか。こうしてみると。悪いばけものを封印してるみたいだよねー。これ」
「どうでしょうか。性格があまりよろしくないことは確かですが」
『お? 中林。お?』
付属カメラの一眼レンズをパシャパシャと光らせながら携帯端末は威嚇した。地味に迷惑なので、中林は端末をポケットにしまいこんだ。ブレザーのポケットの中でもポンコツはパシャパシャ言っていた。あとで画像削除しなくちゃな、と彼は思う。
「しゃべるんだね。それ」
「人格を『複製』したデータを端末上で再現してるのだ、とか聞きましたけどね。そっちのはしゃべらないんですか」
「うん。ってかコピったのボクだよ。『白樺めぐみ』なんて人とは特に知り合いじゃないからね。こっちには入れてないんだ。……そんなしゃべるとは知らなかったけど」
「……まあ、いいでしょう」
なにか隠し事の気配がしたが、初対面の相手だ、隠すのは当然のことだと自重した。そもそも共通項を見いだして打ち解けた感じになってしまったけれど、自己紹介もまだしていない。
中林は、仕方なく端末を再度とりだして。
「中林緋視。能力は『未来視』です。……こっちのほうの説明は不要でしょうが、『時間停止』の白樺めぐみ。俺は、こいつの体をとり戻してやりたい」
「うん。『お兄ちゃん』から聞いてるよ。ボクも目的は似たようなものだからさ」
端末を突き合わせて連絡先を交換しつつ、少女はにこやかに。
「火宮紫桜。能力は『複製』。いまは動く死体をやってるよ。……一緒に生き返ろうね! はなみん!」
「いや俺は死んでないですし」
がんば! と両手の拳をにぎりこむ火宮に辟易しつつ、さっきの呼び名はあだ名のつもりなのだろうか、と中林はしばし思い悩んだ。
『ういー。しくよろー』
ポンコツは呑気に相槌を打った。なぜ他人事なのか。「めぐもっちもよろー!」『その呼び方はやめろ』やはりこいつら顔見知りなのでは?
隠し事には不向きな性質のようだ。これは先が思いやられる。なにせ、これから彼らが始めようとしているのは、れっきとした犯罪行為なのだから。
十五年と少しまえ、世界は妙なかたちに変革した。既存の科学体系から派生するのではなく、忽然と/蒔かれた種が芽吹くように、新種の生命体が現出したのだ。
体表から炎を発生させる、パイロキネシス。物体を瞬時に離れた地点に移動させる、テレポート。人の思念を読み解く、テレパシー。……そうした旧時代の言葉でいう『超能力』を身体機能の一部として生まれつき備えた新生児が、全世界で同時多発的に誕生した。能力を持たない人類は今後発生しえないだろうと予測されている。──それは前人類の緩やかな淘汰を意味していた。そこに問題はない。明確な人類滅亡のスイッチを押した人物がいたが、その人物は現段階で死亡している。だから問題はないのだ。とるべき責任はすでに果たされている。……裁くべき法がない。そこが問題で。
能力の行使には制限がついた。法整備は強行だった。その基準からはみだした幼年は甚大な心傷を負うことになり、その後の人格形成に歪みが生じることになったし、そのひとりが中林緋視だったりしたが。
『まあ。誰に対しても敬語使うようなやつが。まともなはずないよね』
「白樺。割りました」
『事後報告!!』
六月になった。
気温は観測史上最高を記録し、カンカン照りの太陽は今月に入って蔭る気配すらうかがえなかった。クーラーは連続稼働時間を日々更新し、授業科目が体育、それも屋外での活動ともなれば、生徒はおろか教師すらばたばたと熱中症に倒れていった。
偉い人は決断した。
プール、開こう。
──開かれた初日。もちろん男女はわけられていて、こちら担当の教師は体調不良で欠席。監視を楽にするためだろう、体育館ではなくプールから近い卓球部の合宿小屋で、さもしく集まり卓球をやることを指示された男子らは、不平の声を上げていた。暑い、狭い、あと暑い。むさい。虚しい……。
「覗きにいこうぜ!」
閉塞感を打ち破るように、どこかの馬鹿がそう言った。やたらにギザギザとした前髪は目を覆い隠すほどで、真っ赤な瞳がその隙間から覗いていた。両目の下にある泣きぼくろがセクシャルポイントである。
紺青の髪。深紅の瞳。体操服の緩い首もとは、普段は隠れている華奢な喉を詳らかにし、そこには肌の白さと相反するような黒いチョーカーが巻かれていた。
火宮七草という。その名のとおり火宮紫桜の兄である(同い年)。血の繋がりはないらしく、髪色や、目の色、顔立ちにも共通点はなかった。
「開かれたんだぜ、プール! なら、いくっきゃないよな!」
テンションの高さは似ているかもしれなかった。快活に下衆な発言をする、群衆でひときわ短躯の持ち主は、ひときわ長躯な中林の肩をバシンと叩いて発破をかけた。
「遠慮しておきます。この段階で公権力に目をつけられたくはないので」
中林は絡んできた腕をうっとうしげに払って男に向き直った。七草はやれやれと大仰に首を振る。長い髪が動作で揺れて、シャンプーか香水か、林檎のような芳香がただよった。
「……この人数の男どもが集まって考えるとろくなことにならんからな。ガス抜きは必要だ。まあ、オレもシハルの肢体を余人の目に触れさせてやる気はない。それなりの策は用意してある。オマエは座して待っていろ」
中林のみに届くよう、低まった声で言ったと思えば、「つれないな! じゃ、ナカバヤシはほっといて、いこうぜ! オマエら!」とそれが本来のセリフであるかのように声高に群衆を煽動した。
火宮七草。『精神操作』の能力を持つ男はそうして笛吹き男の逸話よろしく、ぞろぞろと十代の群れを引き連れて合宿小屋をあとにした。体育は二クラス合同授業なので、人数も相応のもの。ちょっと真似できないな、と手近にあったラケットをとって、中林はコン、コン、と球を頭上に放った。
その場には中林しかいなかった。だから、サボり要員がこちら側だけではないと、彼のみが知ることになった。
「失礼しゃーす! ……って。あれ? はなみんだけ?」
小屋の入り口からひょこっと顔を覗かせたのは、火宮紫桜だった。半袖短パンの体操着に身を包んで、気軽に中に入ってくる。
「見学とか退屈だから。混ぜてもらおうと思ってきちゃったよ。……あはは! 足。長! はなみん体操着似合わなー!」
「なにを笑ってんですか。そっちも大概……」悔しいことに『火宮(紫)』と胸に刺繍を入れられた白地のシャツはファッショナブルとは真っ向から逆行しているのに、火宮が着るとなんだか高貴な感じがするから不思議だった。「いや、びっくりするほど収まりがいいですね。なんですか、この世の衣服はきみに着られるために創造されたんじゃないですか?」
「え。なに。口説いてる……?」
「素直な感想を述べただけなんですが……」
ぎょっとした顔で後ずさる火宮に、心外な、と中林は応じる。特に褒め言葉でもないつもりだった。
「なんでも似合うな、と感心しただけです。着る服に困らないとはなんとも経済的じゃありませんか。……いや、逆に困る気もしますね。なにせ、なんでも似合ってしまうんですから、出費がかさむ可能性もあります。仮に俺が同行者だったら財力が許すかぎり買いこんでしまうかもしれない」
「あ。うん。そうだね。さっき笑っちゃってごめん……」
火宮はしおらしく謝った。なぜ謝られるのかわからなかったが、こちらも少し口調がきつかったかもしれない。中林は口もとを意識的に緩めて。
「きみも事実を口にしただけでしょう。おあいこ、ということにしましょうか」
「そういうところなんだよなあ」と火宮はためいきをついた。
「白樺にもよく言われるんですけど、『そういうところ』とは具体的にどういう」
「うん。まあ。直したほうがいいよホント。直らないと思うからこっちが諦めるけどさ」
中林は努力が報われないことを知っている。自分が指摘されるそれは、そういうたぐいのことだろうと納得した。完全に見当違いだった。中林には人の心がわからない。
開け放たれた窓から、気が早い蝉の声が聞こえる。木々の葉擦れ。プールサイドの喧噪。窓辺の空気は陽射しに揺らぎ、壁に遮られた日陰に避難したふたりはテーブルの両端に陣とって、秘めやかな語らいに興じるのだった。
「プール、入らなかったんですね」
「ま。常に帯電してるからねボク。そうしないと死んじゃうから。いやとっくに死んでるんだけど……水に浸かると周りの子たちが死んじゃうし」
「停止した身体機能を、『複製』した『電流操作』の能力で動かしているんでしたか。調整は、七草が?」
「……うん。ボクはあの人の『半身』だから」
「聞き覚えのある単語ですが、意味を詳しく説明しては、……もらえないんですね」
えへー。と小首を傾げる火宮に、中林はそれ以上の追求を控えた。『識ろう』と思えばいくらでも識れてしまうので、こういった場面ではなるべくフェアでいようというのが、中林緋視の信条だった。
「見たかった?」と火宮は上目に問いかけてくる。
「なにをですか」
「ボクの水着姿」
「七草に殺されますよ、俺」
ためいきまじりに応じれば、火宮は極上の笑みを浮かべながらすりすりと近寄ってくる。
「……なんでしょうか」
「んー? いやあ。『見たくない』とは言わないんだね。って」
「それは、まあ。絶対似合うでしょうから」
「こういうとき照れないの。ズルいと思うなあ」
「事実を言うのになにを照れる必要が……?」
理解に苦しむ、と顔をしかめた中林に、火宮は処置なし、と嘆息した。
「死体なんだけどなー。ボク。言ってみればゾンビだよ」
「俺にとっては、死体に見えない死体なんて、死体とは言えませんよ。それに、きみは生き返るつもりなんでしょう。なら、終わりどころか始まってすらいない。言ってみれば、胎児のようなものです」
「言葉遊びだね」
「まあ、この暑さですからね。頭が空回っている自覚はあります」
ゲームでもするか、と彼らは揃ってラケットを手にとった。コン、コン、と卓上で球を弾ませる中林に、少女は「チップはどうする?」と問いかけた。
「賭けるんですか?」
「いーじゃん。そっちのがやる気でるし。あ。おカネはなしね。はなみん。ボクに借金中だもんね」
「……白樺の監視を逃れるためとはいえ、端末を自分名義で二台新調させたのはやりすぎだと思うんですけどね。……いいでしょう。では、俺が勝ったら火宮には俺が選んだ服を着てもらいます」
「お。言ったなー? じゃ。ボクも勝ったら同じ条件で。ふふ。どんな恰好させたげよっかなー」
「きみ私服のセンス終わってますからいまから心配です。それでもきみが着るなら似合ってしまうんでしょうが……ふっ!」
呼気とともに中林は鋭いサーブを放った。宇宙猫Tシャツは嫌だ、という気迫のこもった一撃だった。「残念。いまのトレンドはティラノだよ」火宮は軽快にラリーを返した。どういうことだ、と中林は思った。
「きぐるみのね。ボクは翼竜バージョン持ってるよ」
「わからない……なぜきみは『服』を着ないんですか?」
「む! 失礼なー!」
「いや、きぐるみは服じゃないでしょう……」
呆れながらパコン、とえぐいコースに球を落とす中林。これで六点目だった。火宮は〇点。「他愛もない」中林は魔王ムーブを始めた。「賭けを持ちだしたから策でもあると思えば。俺に勝てるつもりだったんですか?」
「……まだまだ! ここから!」火宮は作画が劇画タッチになった。琥珀の目から光が迸り、「──『複製』開始」ピンポン球がふたつにわかれた。「せいっ!」放たれた球は中林の陣地に同時に着弾する。
「──甘い」
中林は冷たく言い捨て、カカコン、と一振りで球をふたつ返した。「どわっ。と!」コン、コン、と慌てながらも正確に相手のコートに落としてみせた火宮に、「ほう」と中林はおもしろそうにその紫眼を細めるのだった。「ですが、無意味だ」
手首の返しのみでスマッシュを二撃。ひとつはテーブルのフチにあたってあさっての方向に跳んでいき、ひとつは卓上で跳ねたあと、勢いのままに火宮の額にぶちあたった。
「あだっ!」
「さて、これで七点」のけぞった火宮に薄く笑みをむけて。「続けましょうか」
「鬼ぃ!」
片手で額を押さえながら、ぶんぶんとラケットを振り回して抗議する火宮に「きみが始めたんじゃないですか」とにべもなく返す。止めてはならぬ物語……。
「そんなに勝ちたいなんて。なに着せるつもりなのさ!」
「、聞きたいですか?」
「……あ。えと。なんかこわいから! やめとく!」
そんなに怯えるものだろうか、と中林は少しショックを受けた。ただ日頃の礼にと理由をつけてプレゼントを贈ろうとしているだけなのだが、どうにも伝わっていないようだ。言語を用いたコミュニケーションとは難解なものだと実感した。
「負けてぇっ! たまるかぁ!」
咆哮する火宮だがサーブ権はこちらにあった。すべては決着をつけてからだ。球を宙に放った中林は、ダメ押しにと温存していた変化球を打ちこんだ。
──その球は緩い放物線を描いて火宮の陣地に入る。
着地した、火宮がそう認識した瞬間、その球はバウンドせずに卓上で『静止』する。
昔週刊少年ジャンプで連載していた卓球漫画の技を真似てみたのだが、うまくいったようだ。
「……え。ええ……」
「八点目。次、いきますよ」
心を折りにいく。間髪容れずに次のサーブ権を行使する。
「なんでそんなガチなの!?」
「勝負は本気でないとおもしろくないでしょう」
「ラスボスのセリフだよそれぇ!! うおおお!」
火宮の両眼が発光する。中林は落ち着いた仕草でサーブを放った。
返されることは想定していなかった。試合に及ぶにあたって彼は『未来視』を切っていた。だから火宮が着地の一瞬で転がりかけた球とテーブルとのあいだにラケットを差し挟み、ネットの上に放るだけでなく、インパクトの瞬間に球を三つに分裂させてくるなど想像だにしていなかった。
「よーーーしっ! これで!」
「──『未来視』、起動」
「えっ?」
三つの球は着地が同時で、しかも変化球の変化ごと『複製』されているらしく、このままでは跳ねることなく転がってしまうだろう。ひとつなら処理できるかもしれないが、三つ同時には不可能だ。
だから『できる自分』を幻視する。
中林は。
『加速』した。
カ、という打撃音が手もとで三つ、中林にしか届かない速度で発生した。火宮へと返された球は空中でぶつかり、三方向にわかれてそれぞれテーブルのフチに落ち、火宮が振ったラケットにかすることなく吹き飛んだ。
「いまのは驚きました。なかなかやりますね、火宮」
中林は汗を拭いながら晴れやかに笑いかけて。
「……そんなんありかよぉ……」
渾身の反撃をあっさりいなされた火宮は、顔をくしゃくしゃにして泣きべそをかくのだった。
「あと二点。サーブ、お願いします」
「人の心がないのかなキミは!? もう打つ手ないんだけど!」
「可能性は無限大ですよ。存分に足掻いてもっと俺を楽しませてください」
「ボクはっ! 楽しく! ないの!」
地団駄を踏む火宮を、泣き顔も似合うな、と。少々危なげな考えを浮かべながらにこにこ眺める中林に。
「……なに火宮さん泣かせてるのかな。中林くん」
絶対零度の声がかかる。背中が凍りつきそうだった。振りむいた先にいたのは、美しい死に顔をした女だった。
ふたりは口を揃えて。
「火宮で遊んでたんです」
「はなみんにいじめられてた」
「わかった。中林くんが悪いんだね」
二元論で語るのはよくないと思った。女は「まったく」と嘆息した。中林は『未来視』を解除する。死体は姿を消し、ボリューミィに波打つダークブラウンの髪と、火宮と同じ琥珀の瞳を持つ隣のクラスの少女が現れた。スクール水着にバスタオルを羽織っただけという、攻めたスタイルだった。
「闇森さん」と中林が顔を背け。
「しゅしゅりん」と火宮が引き継いだ。
「どうしたのさ。水着のまんまで。はれんちだよ」
「急いであんたを呼びにきたんだけどなー、あたしは。見学サボってるから先生カンカンだよ」
「わー。たいへんだ」焦りを見せずに火宮は棒っぽく言った。「いちおー。ここにはなみんいるのにね」
「ここに中林くんだけってことがわかってたから、だよ。あとのはいま説教中。みんなお相撲さんがどーとか言ってたけど、なんだったんだろ」
「ああ……」中林は乾いた声を洩らした。火宮七草の『対策』か。七草の『精神操作』はありていにいえば洗脳にあたる能力なので、男子たちの目には水着姿の力士が見えていたに違いない。「しかし見えていないとはいえ覗かれるのは気分よくなかったでしょう。大丈夫だったんですか」
「そー思うならとめてほしかったけど」ちくり、と刺してくる闇森。「とはいえ、火宮くんが主犯なんじゃ無理かな。まー、大丈夫といえば大丈夫。あたしたちの目には彼らが野菜にしか見えなかったからね」
「野菜」
「あたしはきゅうりが好きだなー」
「ボク・野菜・にがて」
火宮は片言だった。死体なので味覚はないが好みにはうるさいらしい。
「中林くんもきゅうりっぽいよね」
「それ髪色で判断してません?」
「ナスっぽくもある」と火宮が口を挟んだ。
「容姿の特徴を揶揄するのは古びた悪習ですよ」
「ごめんね!」
「俺もさっきは調子に乗りすぎました。すみません」
やさいせいかつ。
「まあ俺はナス好きですけど」
「……合ってんじゃん! なんで謝らせたの!?」
「先に謝ってもらえれば俺が謝りやすいからですかね」
「さては反省してないな! キミは!」
「してるしてる。超してます。ところで勝負の続きはどうしますか?」
「このタイミングで言う!? もうキミの勝ちでいいよ! 三球返されたんだから三点入ったようなもんかな!」
「泣くまで追いつめてまだ続けるつもりだったんだ……」
闇森がドン引いていた。とり合わず中林は「ふむ」と顎に手をあてて。
「その計算だとそのまえに二球返してたから、十二点入ってますね。オーバーキルです」
容赦なく言った。闇森はもう声もない。
「さすがに二ゲーム目をやる時間的余裕はありませんか。なら、俺の勝ちということで、言うことに従ってもらいますよ」
「え。そんな約束してない……」
抗議は棄却された。中林の紫眼は火宮を見下ろして、獲物を追いつめる変温動物のごとき冷徹さで。
「今度の休み、一緒に服を買いにいきませんか」
と。
「え?」
「そこで、俺が選んだ服を着てもらいますから」
「……おお!」
ぽん、と火宮は手を打った。
「なるほどね! そう繋がるんだ!」
「デートの誘いかた、回りくどすぎない……?」
無邪気にはしゃぐ火宮の後方、闇森は依然ドン引いていた。
「デートじゃない」中林は悲愴な面持ちで訴える。「きみは火宮の私服姿を知らないから言えるんですよ、守鈴」
「わー。おでかけだー。なに着てこっかなー! ……むー。ここはスタンダードに星を吐くスペースキャットで」
「制服で! お願いします」
必死の形相で制止をかけながら、七草にも困ったものだ、と中林は思う。このセンスのまま火宮が伸び伸びと育ってきたのは、外出時に必ず同行する彼女の義兄が、すれ違う通行人を片っ端から洗脳して『これがふつうの格好だ』と刷りこみをかけていたことが大きい。『おかげでこの国のクソダサTシャツ着用率はここ数年、他国と比べても飛躍的に向上することになったが……まあ、大した問題はなかろうよ』大惨事だった。中林は宇宙猫にあふれる未来からこの国を守ることを決意したのだ。
いや違う。ただ着飾った火宮を見たいだけだった。
「ところで闇森さん、なぜ顔が赤く?」
濡れた状態で外気に触れ続けたので体調を崩したのだろうか。しかし寝こむような『未来』は視えない。不思議に思っていると、闇森はうつむき加減に、か細い声で。
「…………急に名前で呼ぶな、ばか」
「え? 呼んでましたっけ。すみません、無意識でした」記憶にはないが、染み着いた仕草なのか。ほんの少し、おもしろくなくて。「では、今度はしっかり意識して呼びますね。『守鈴』」
「……!! ッ、知らない! いこっ、紫桜!」
「わー! っと。手ぇひっぱらないでよ。しゅしゅりん」
痛いよー。と緊張感なくずるずる引きずられていく火宮は、去り際に「そうだ」と振り返って。
「はなみん。ボクの水着姿。見れてよかったね」
余談となるが。
火宮紫桜と闇森守鈴は、多少の差異はあれど、双子のようにそっくりな顔をしていた。
「……さすがに語弊があると思いますが」
火宮と闇森は髪質も、目の大きさも違う。そして、十四で細胞分裂が終わった火宮と、ごく一般的な成長をとげた闇森とでは、身体の発育具合も違うのだ。
なにより、中林の側の心情が違う。
火宮は高校で知り合った得難い友人であり。
闇森守鈴は出身中学が同じ同級生で、一時期家族ぐるみのつきあいがあった程度の関係だ。
実感はない。記憶はしている。だが遠いものと思う。
中林には、過ぎ去った思い出より、やがて到来する未知のほうがずっと近い。
体育教師からメッセージアプリ経由で『先に教室に戻るように』と指示されたために、中林はひとり、合宿小屋から帰路についた。渡り廊下を歩く途中、支柱にもたれかかるようにして、待ちかまえている人影があった。
すらりとしたたたずまいの、おっとりと眠たげな目もとが印象的な少女である。枯れ葉色の髪は飾りけのないこざっぱりしたショートカットで、夏の新緑の瞳は季節の景色を写すようだ。背が高いので同い年くらいに見えるが、着ている制服は近くにある中学校のものだ。なるほど。と中林はうなずいた。この暑いのに半袖の上から白衣をまとっているのはそういうわけかと納得した。
「検体四号、七号、それに……〇号」こじらせた少女は、こじらせた口調で中林の端末を──白樺めぐみの『時間停止』が宿った【白眼】を白衣のポケットからとりだした。「ここにはずいぶんと揃っているようだ」
「うん。俺もそういう時期がありましたよ。小学校で卒業しましたが」
「さっき魔王ムーブしてなかったか?」
「見てたんですか」それは恥ずかしいと中林は頭を掻いた。「で。きみは誰です?」
「わたしは……そうだな。ここはこう言ったほうが通りがいいか」
石動梅雨と少女は名乗った。
「石動……? 先輩に同じ名字の人がいますが」
「それはわたしの兄だよ。そして、わたしは神山ハイカの知り合いだ」
それは。
中林の、失踪した父親の名前だった。
「……隠し子?」
「殴られたいのか?」
「いやまあ、浮気したの母親のほうなんですけどね」
「おまえの家庭、重くないか……?」
中学生は哀れみのこもった目をむけていた。中林はそれに微笑みをもって応じる。
「肋骨さん。きみのところもたいがいだと思いますよ」
「なぜ吾峠呼世晴短編集の話をする」
「きみの死体、あばら骨が剥きだしになってるので」紫眼を輝かせながら、中林はいたずらめかして。「実の兄を手籠めにしようとして返り討ちにあった図かな……」
「わたしそんな死に方なのか!?」
「嘘です。でも安心してください。家族に親愛以上の感情を抱くことはさして珍しくないようです。うちの姉がそうなので。中学のときに父親に迫って、一時、親戚に預けられてたくらいです」
「おまえの家庭、重くない……?」石動はかぶりを振った。「というか、預け先、うちだったんだが。おまえの父とわたしの父がいとこだ」
「知ってます。大きくなりましたね、梅雨」
「覚えてたのか。なぜ知らんぷりした」
「顔で判別ができないんですよ、俺。親戚だと死に顔もけっこう似通ってしまうので……」
「『大きくなりましたね』も嘘じゃないか……」
少しがっかりしたような顔をする中学生だった。成長を認められたいお年頃なのである。
「まえみたいに『兄』と呼んでいいんですよ」
「わたしの兄は石動雨垂だけなんだが?」
とりなすような呼びかけに返ってきたのは、威嚇混じりの強い否定の言葉だった。さすがに少し固まっていると、強火担の石動は、
「なので、『せんぱい』と呼ばせてもらおうか」
と小悪魔っぽく微笑んだ。