オケアン
誰も空を見ない。
誰も。
*
つるりとした金属の内装。
床には菱形のタイル。
俺はレストランでシチューをすすっていた。
同席者はいない。
他のテーブルでは会話が弾んでいる――ように見える。
それは言語のようで言語ではない。喧騒を演出するためだけの、意味のない合成音声だ。赤や青のホログラムが、さも食事のフリをしている。
場所はスカイデッキ。
宇宙船の特等席だ。
強化ガラスの向こう側に暗黒の宇宙が広がっている。まばゆい星々の高速で流れ去るのを眺めているだけで時が過ぎてゆく。まったく見飽きない。
俺はときおり思い出したようにぬるいシチューをすする。
塩味。
それ以外はよく分からない。最低限の栄養に塩を足しただけみたいな食べ物だ。体にいいのか悪いのかさえハッキリしない。
目を覚ましたときにはこのザマだった。
記憶は曖昧。
当初はホログラムではなく、多くの人間がいたような気がする。これは政府が用意した宇宙船で、俺たちはツアーかなにかに申し込み、そして当選したのだ。
おぼえているのはそれだけ。
世話はロボットがする。
掃除機みたいな自律式のロボットがそこらを駆け回っており、絶えず船のメンテナンスをしている。俺の食事もそいつらが用意する。
食事を終えた俺は、そのままスプーンを放って席を立った。
ここのホログラムはよくできている。俺が大きな動作をすると、まるで人間みたいに一瞬こちらを見る。そしてたいしたことがないと分かると、また談笑のフリをする。
ためしに突き飛ばそうとしたこともある。
が、ムダだった。触れることができない。
座っている最中に椅子をずらしても、転倒せずにただ位置調整をする。
もちろん会話はできない。
ホログラムには様々な色がついている。赤と青。あるいは緑。黄色。紫。
緑だけは俺に反応する。おそらくここの乗務員だ。質問をすると、道案内くらいはしてくれる。しかしこの船がなんなのか、どこへ向かっているのかは教えてくれない。
船内を探検したこともある。
が、規模がまったく分からない。たぶん、とんでもなくデカいんだと思うが、ほとんどのドアがロックされているせいで、行ける場所が限られているのだ。
ただし、なぜかコントロールルームには入ることができた。
ドアに近づくと合成音声で「認証されました」とアナウンスがあり、ロックが解除されたのだ。
おそらく重要な場所だと思うのだが。
人間がいなくなったから、消去法で俺が管理者に選出されたのかもしれない。
室内には操作パネルが並んでいた。このテクノロジーの発達した時代、画面ひとつで操作させてくれてもよさそうなものだが。旧世代のようにいくつもの座席があり、それぞれに操作パネルやインジケータが用意されているのだ。
あるいは、人間の身体で操作するなら、これがベストということになったのかもしれない。
俺の記憶によれば、脳に直結するデバイスは事故が多かった。だから座席まで足を運び、目でステータスを確認し、手を動かして操作する、というのがもっともミスが少なかったのだろう。
ホログラムはおらず、無人。
妙な操作をして船がおかしなことになったら困るので、俺はなにもいじらなかった。
俺はだから、ほとんど寝室とレストランを往復するだけの毎日を送っている。
アスレチック施設もあるのだが、必要以上にハードだったので使っていない。急に現れた崖から落ちそうになった。たぶんあれでみんな死んだのではないだろうか。というのはジョークだが。
誰もなにも教えてくれないのだから、すべては自分で発見するしかない。
しかしまったく状況が分からない上、操作パネルも意味が不明。移動も自由ではない。お手上げだ。ただ出されたシチューを食って生き延びるしかない。
「ハロー」
緑のホログラムに声をかけると、向こうも「ハロー」と返してくれる。
だがそれだけだ。
趣味を聞いても、名前を聞いても、まともに返しちゃくれない。
いや、会話したいだけならプレイルームに専用の設備がある。年齢、性別、人種、性格を選択してAIとお喋りを楽しめるのだ。いちおう人間の顔をしてはいるが、もちろん実在しない。
しかし容姿ではなく、人格に不気味の谷が発生してしまっていた。
思考が前向きすぎるのだ。俺みたいに鬱々としていない。すでに乗客がほとんどいないというのに、まったく悲観していない。わざとポジティブにしているのかもしれないが、俺にはただのマヌケに見えた。
たまに使うが、毎日会話する気にはなれない。
寝室に入り、ソファに身を預けた。
宇宙船だが重力がある。仕組みは知らない。頭のいいどこかの誰かが作ったんだろう。あるいはここが宇宙じゃない可能性も考えられるが……。
可能性の話をすればキリがない。
俺はあえて状況を疑わず、これが本当に宇宙船で、どこかへ向かっていると考えることにしている。考えを改めるのは、なにかヒントが見つかってからでいい。そうしないと頭がどうにかなる。
この船は、どこかへ向かっている。
それがどこなのかは分からないが。
星々の流れる感じからして、かなりのスピードであることが分かる。もといた地球からはだいぶ離れていることだろう。あるいはどこかをグルグル回っているだけ、という可能性もあるのだが。
体調は悪くない。
だからこの船がすぐ無人になるということはないだろう。しかしいずれそうなる。俺一人では繁殖することができない。
メディカルルームはこの問題を解決してくれなかった。
いずれ滅ぶ。
その前にどこかへ着けばいい。
着いたところで幸福になれる保証はないのだが。
ポーンと電子音がした。
ロボットがなにかを知らせに来たのだ。
前回はダンスパーティー開催のお知らせだった。この船には俺しかいないのに、だ。もちろん参加するわけがない。気になって少し覗いたら、プレイルームに音楽がかけられ、ホログラムたちが踊っていた。あの瞬間、もう人類など必要ないのではと感じた。
「ご依頼の人類を生産しました」
機械は合成音声でそんなことを言った。
「人類? 生産って? いや、依頼?」
「詳細を表示します」
ホログラムでリストが出た。
性別は女。
名前は「NONE」。
あとは血液型やらなにやら俺にはよく分からない情報が並んでいた。
「俺が依頼したのか?」
「はい」
「いつ?」
「その情報は開示できません」
いつもそうだ。
時間を教えてくれない。
俺は遠慮なく溜め息をつき、質問を変えた。
「どんな女なんだ?」
「詳細を表示します」
「いや、そうじゃない。なんの目的で作られたんだ?」
「その情報は存在しません」
存在しない。
ということは、目的なんか聞きもせず、命じられるまま人類を生産したということか。となると、命じた俺が目的を知らなければ、誰も知らないということになる。
どうせ繁殖目的なのだと思うが。
「いまどこにいるんだ?」
「ファクトリーです。いつでもこちらへ運搬できます」
「ファクトリーってのは?」
「その情報は開示できません」
「オーケー。連れてきてくれ」
「了解しました」
それだけ告げて、掃除機みたいなロボットはどこかへ行った。
女――。
俺は少し期待した。
人間が増えるというだけでも嬉しいのに、それが若い女なのだという。長らく気づかぬフリをしてきた低俗な感情も芽生えようというものだ。
が、そわそわしながら待ったが、いつまで経っても部屋に入ってこなかった。
いや、入ってくるかどうかは向こうの都合次第ではあるのだが。
俺は待ち切れず、外へ出た。
通路に立っていた緑のホログラムに居場所を尋ねると、レストランで食事中だという。
宇宙を一望できるレストランは、まだホログラムで賑わっていた。いつ来てもいる。寂しさがまぎれるどころか、むしろ得体の知れない集団に囲まれているようで恐怖さえおぼえる。
ともあれ、いた。
艶やかなライトブルーの髪をなびかせた、ライトブルーの瞳の女。目が冴えるほど美しい。いや、美しすぎる。人形師が魂を込めて造形したような容貌。
カクテルドレスを着て、ソーダを飲んでいる。
彼女は俺の存在に気付いたらしいが、少しニヤリとしただけで、グラスを置きもしなかった。
俺は構わず近づいていった。
「言葉は話せるか? 記憶は?」
すると彼女はふっと笑った。
「まずは座ったら?」
「……」
まったくだ。
俺はあきらかに興奮していた。いまからこの女と仲良くなるのだと。
椅子に腰をおろし、俺は改めて尋ねた。
「言葉は……話せるみたいだな。えーと、記憶は……」
「ないわ」
「ない……」
イヤな予感がした。
もしかすると俺も、彼女のように「生産」されたのかもしれないからだ。記憶がない。いや、あることはあるのだが、重要な部分がぼんやりしている。
彼女は愉快そうに目を細めた。
「ウソよ。本当はある。けど、この肉体の記憶じゃないわ。私ね、宇宙を漂う幽霊なの。この体は借りただけ」
「待った。順番に説明してくれ。ひとつも理解できない」
「あなたたち、この人形を作ったでしょ? だから体を借りたのよ」
「そういう設定なのか? いや、違うな。たち? 俺たち? 俺以外に人類がいるのか?」
「人類? そう呼ぶのが相応しいかどうかは知らないけど、知的生命体はいるわね」
「知的生命体って?」
ロボットがオーダーを取りに来たが、俺は手で追っ払った。腹は減っていない。
女はソーダで喉を潤し、かすかに息を吐いた。
「あなたたちの概念で説明すれば、宇宙人ってところね。ま、私も似たようなものだけれど」
「宇宙人? 仮にその言葉を信じるとして、どこにいるんだ?」
「見事に記憶を失ってるのね」
「たぶん、どこかに頭をぶつけたんだろ。それより、質問に答えてくれ。どこにいるんだ?」
俺は自分を宇宙旅行の客だとばかり思っていた。計画したのも地球人で、俺も地球人だ。というか、そもそも人類は、まだ宇宙人を「発見」していないはずだった。
彼女は妖しく笑った。
「気づいてない? この船、自分の力で移動してるわけじゃないの。後ろから別の船に押されてる。宇宙人たちはそこにいるわ」
「なぜ?」
「知らない。私が『見た』ときにはそうなってたもの」
彼女はグラスのソーダを口にして、ぺろりと唇を舐めた。
いちいち挑発的な態度だ。
「君の言葉を信じる根拠は?」
「ないわ。別に信じなくていい。私は肉体が欲しいだけ。なんならこの肉体を返却してもいいわ。どっちにしろただの暇つぶしだもの」
「待ってくれ。気を悪くしたなら謝る。もっと詳しく知りたい。この船のみんなはどこに行ったんだ?」
「言ったでしょ。過去のことは知らないって。私は幽霊なの。神さまじゃない」
「幽霊って……」
「宇宙にいたらおかしい?」
「いや……」
正直おかしい。
しかしおかしいと言い出したら、すべてがおかしい。
全部彼女の妄想かもしれない。あるいは事実かもしれない。
いずれにせよ、いますぐ確認する手段は、俺にはない。
「分かった。信じる。まったく意味は分からないが……」
「一言余計でしょ」
「撤回するよ」
AIなんかより、だんぜん人間臭い。中身が幽霊かどうかまでは分からないが、これは間違いなく人間だ。
「あなたは飲まないの?」
「喉は渇いてない」
すると彼女は、あきれたように表情を崩した。
「そういうことじゃないでしょ? 男と女が同じテーブルにいるの。私だけ飲んでるなんておかしいわ」
「分かった。飲むよ」
「それがなぜなのか理解もせず、形式的に従ってるでしょ? あなたには少し教育が必要みたいね」
「頭の調子がよくないんだ」
「センスの問題よ。でもいいわ。ソーダをオーダーして」
「従う」
この女の機嫌を損ねたら、情報が手に入らない。それは恐怖だった。たとえウソでもいい。俺はこの状況に対する説明が欲しかった。
俺は通りかかったロボットに「ソーダを」と告げ、女に向き直った。
「君の名前は?」
「ないわ。あなたは?」
「記憶になくてね。思い出したら言うよ」
「ならアダムとイヴはどう?」
「それはちょっと特定の……。もっとフラットな名前がいいな」
俺の言葉に、彼女はふたたび表情を崩した。
「あなたって少し面白いけど、その何倍も面倒ね。じゃあなにがいいの? 男と女? アルファとオメガ? XとY?」
「名前はあとでいい。ここには俺と君しかいないんだ。二人称で呼んだら分かる」
「照れちゃって」
「……」
俺はロボットが持ってきたグラスをぶんどり、中身のソーダを飲んだ。
美人の女と二人きり。なのにちっともいいことが起こりそうな空気じゃない。なんなんだ幽霊って。しかもそれが事実である保証はない。サイコパスが妄想を語っているだけという可能性もある。 もっとも、それでさえここにあるどの娯楽よりもエキサイティングだったが。ホログラムのダンスパーティーを覗いているより断然いい。
グラスを置き、俺は宇宙を見た。
「ま、あせることはない。時間ならいくらでもある」
すると彼女もうっすらと笑った。
「いくらでも? 肉体が滅ぶまででしょ? 少なくともあなたにとっては」
「十分だよ。少なくとも俺にとっては」
船は黒い溶液のような宇宙を進み、星は流れ去り、ホログラムが談笑のフリを続けている。
それだけの場所だった。
しかしこれからは、AI以外に会話相手がいる。
彼女の話が事実なら、後ろに宇宙人もいる。
俺は孤独じゃない。
こんな宇宙空間のただなかにあってさえ。
(おわり)