1-1 『誘拐?いえ、異世界です』
「!…っ痛ぅ。」
一瞬の浮遊感。背筋がむず痒くなるような感覚を味わう間も無く、痺れるような痛みに変わった。
「おい!何すんだよ!…ってあれ?」
強かに打ち付けた臀部を摩りながら立ち上がるがそこには何もなかった。
いや、何も無いわけではなかったが、そこにあるはずの物が無かったのだ。
あるのは、鬱蒼と茂る木々だけ。分かることは、自分が相当な深さにいるであろうことだけだ。
「え、何これ?夢?」
未だにジンジンと痛む臀部を摩りながら頬を抓った。
「…痛い。」
当たり前のことなのだろうか、思い切り抓った頬は、赤く腫れているだろうことが手に取るように分かってしまった。
「…誘拐?」
無意識だったのだろうか。ぼそりと、自分でも聞き取れないほどの声音で呟いた言葉がやけにしっくりくる。
「いやいやいや、待て待て待て。ワンチャン椅子から落ちても起きなかったで済むんじゃね?いや済んで下さい。」
思わずその場にしゃがみ込み、頭を抱えた。
混乱で叫びだしたくなる中、必死に自分を落ち着かせる。
僕、田中彼方は一般的な男子高校生だ。ちょっと経歴とか特殊だし、勉学だって、運動神経だって、下からよりも上から数えた方が早いけど、一般的な男子高校生だと自負している。
そして、そんな普通な僕は、夕暮れ時の陽光に猛烈な眠気を誘われながらも、歯を食いしばりながら、図書室で自習してたはずだった。
「そう、試験を2週間後に控えた大事な時期だったからな!
けど、気がついたら森の中ぁ?そんなん異世界転移ものでしか見たことねーよ!」
「...ふぅ。よし、落ち着いた。」
「目が覚めたら森の中。しかも、自分以外に人はいないときた。…何で?テレビの企画か?…無いな。一般人相手にこんなん、訴訟もんだわな。…じゃあ何?イタズラ?…いや無理だろ。途中で絶対気づく。…夢遊病か!…そんな兆候無かったし、第一こんな森の中まで?それこそありえない。…じゃあ何なんだよ…。」
考えれば考えるほど、嫌な予感が拭えなくなってくる。
ふはははは。誘拐なんて体験、そうそう得られないぞぉ。いいネタになるぜ。なんて、現実逃避をし始め、より一層体を縮めた時、肘に何か固いものが当たった。
今まで気づかなかったが、ズボンのポケットの中に何か薄くて硬いものが入っていた。
緊張のあまり、左手を右手で支えながらも、そこに手を入れると――。
「…あれ?…ある。」
手の中には、普段見慣れたスマホが収められていた。
誘拐じゃ無いのだろうか。
安堵半分、疑心半分。少しの希望を持ちつつ取り出したスマホを見る。
「やっぱ圏外か。」
森の中では電波はあまり届かない。北のほうでは、公道の上でも電波が届かないなんてことがあるらしいし、まぁ、当然と言えば当然だろう。
「ん?」
目当ての物が外れたことに些か気落ちしつつも、目を滑らせると、ありえない数字が並んでいた。
17:00。
慌てて左腕の腕時計を覗き込む。
短針と長針は、5と12を指していた。
「…嘘だろ。」
思わずその場にへたり込んだ。
土で学ランが汚れることも気にならない。
「幾ら何でもおかしいだろ。今日は学校でずっと勉強してたんだ。しかも放課後は図書室で試験勉強だってやってたんだ。一時間足らずでこんな…こんなのありえない。」
今まで否定した考えが次々と浮かんでは消えてゆく。
どれだけ考えても、理屈が合わず、思考が堂々巡りをしてきた時、ふと見上げると、そこには、結論を導き出す一つの事実が存在していた。
「…ドラゴンンンンン?!」
地面ばかり見ていて気がつかなかったが、空にはドラゴンをはじめ、見たことのない生物が飛び交っていた。
こうして、夢にまで見た夢の異世界生活、その第一歩を僕は踏み出す事となったのだ。