9 二人の決心
由依が手に取ったノートは、安西の遺書のようだった。
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ごめんなさい。真君、明日香ちゃん。この数日で、私は警察に犯人と断定され、取り調べを受けました。マスコミにも犯人として報道され、誹謗中傷され、それを鵜呑みした人びとが、私を死刑台に送るべきだと合唱しているようで、とても苦しい気持ちです。数少ない友人たちとも今では連絡がつきません。どうやら、私を殺人鬼と思っているようです。このような状況になった以上、どうやら自分はもうマジックの世界に戻ることができない。自分としても、この何日か考えて、もう諦めて死のうという決心をしました。
心配なのは、君たちのこれからです。大変だと思いますが、私とは異なる道、たくましく生きる道を選んでほしいと思います。
二人にこれだけは述べておきます。先生を殺したのは、私ではありません。犯人はおそらく、恭子さんと伊坂君です。実は事件当日、食堂で、私が自分の部屋に早めに戻ろうとすると、恭子さんが、まだ、いいじゃありませんか、と不自然に誘ってきて、あまり興味のない競馬の話などをされて、足止めされたんです。恭子さんとは仲が悪いのに、変だな、白白しいな、とは思ったのですが、後で考えれば、おそらくその時、犯人が私の部屋で、ペットボトルに睡眠薬を入れていたからなのでしょう。それで、私は部屋に帰ってから、いつもの癖でドアに鍵をかけ、喉を潤すためにペットボトルに口をつけた。これで、寝てしまったわけです。しかし、恭子さんだけでは一連の犯行は不可能です。事件当日、鉄仮面の姿で、現れたのはおそらく伊坂君です。そして、マジックの最中、何らかのトリックで、死体を移動したのでしょう。
そのトリックの正体は分かりませんが、警察に語ったのに、あまり信用されずに忘れ去られてしまった、ある事実を再度この場で二人に述べておこうと思います。なにかの手がかりになれば、と思います。黎斎先生は、事件当日の昼頃、消失の部屋の窓の鉄格子の留め具が緩んでいると私に言ってきました。これでは、マジックにならないから、ということで、私と先生は留め具を工具で締め直しているんです。おそらく、留め具を緩めておいたのは、犯人の仕業でしょう。なぜ、そんなことをしたのでしょうか?
ごめんなさい。あまり多くを語ることはできません。私は一足先にこの世から離れます。名残惜しい気持ちもあります。でも、もう限界です。だけど、真君、明日香ちゃん、彼らの思い通りにならないように、先生の意思を継いで、これからも頑張ってください。
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由依は、その文章を読み終えて、はっとした。明日香が、いつの間にか立ち上がって、ふらふらとどこかに歩いて行こうとしているのだ。
「明日香!」
由依は、明日香を追いかけた。
明日香は、吹き抜けのロビーに訪れた。手すりに掴まって、一階を見下ろすと、ちょうど真が帰ってきたところだった。真は明日香の顔色の悪さに気づき、ぽかんとしている。由依は、この異様な状況に驚いて、思わずロビーの隅で足を止めて、様子を伺った。しばらく黙っていた真は震えた声を出した。
「明日香、何か、あったのか?」
「安西さんが自殺した……」
「自殺……」
真は信じられないというような顔をしている。
「警察に連絡したか?」
明日香は、その言葉には答えず、悲しみのこもった声でぼそりと呟いた。
「ねえ、お兄ちゃん。わたし、もう疲れたよ……」
「明日香……」
「お父さんは死んでしまった。安西さんも自殺してしまった。お父さんや安西さんの仕事は、伊坂さんが後継者として引き継ぐんでしょう? 恭子さん、喜ぶね。すべて、伊坂さんと恭子さんの思い通りになってゆくんだよ……。だけど、ねえ、うちはどうなっちゃうの?」
「あの人たちの思い通りにはさせないよ……」
「でも、思い通りになってゆくんだ。あの人たちの思い通りにされてしまうんだ!」
明日香は、そう叫ぶと、シャンデリアの光に手を差し伸べて、そのまま崩れて、階段を二、三段、転げ落ちた。真は慌てて、階段を駆け上がり、明日香を抱き起こした。
明日香は、真の心配そうな顔を見上げた。そして、にこっと笑ったかと思うと、すぐに哀しげな表情に変わり、唇が震え、涙がこぼれ落ちた。
「どうしてこんなことになっちゃったの……」
真は、明日香に悲しげな視線を落として黙っていたが、ふっと笑顔を作った。
「明日香、お兄ちゃんに任せろ。このうちは大丈夫だよ。お兄ちゃんがしっかりやるから……。俺、父さんの後を継いで、立派なマジシャンになってみせるよ」
そう言って、明日香の瞳から伝って落ちる涙をハンカチでそっと拭くと、
「ほら」
と言って、そのハンカチを小さく丸め、右腕の袖から出した薔薇を、あたかも宙で拾ったように出現させると、明日香に渡した。
「お兄ちゃんだって、本当はすごいんだぞ……」
そう言って、真は優しく微笑んだ。明日香は、その言葉に頷くと、ふらふらと起き上がり、震えた小声でぼそりと呟いた。
「もう、わたしを一人っきりにしないで……」
「うん」
「お父さんも、お母さんもいないんだから。わたしにはもうお兄ちゃんしかいないんだから」
「ああ」
真は頷くと、しばらく黙り、
「俺にとっても、家族は、もう明日香しかいないよ」
と呟くように言った。
「頑張るよ」
と、最後に決心したように言うと、明日香を連れて、階段を降りていった。
明日香の頬に光が伝っていたが、由依にはもうそれが何か見えなかった。