2 奇術邸
三人が洋館の中に入ると、下駄箱のある玄関があり、その先は三階まで吹き抜けのロビーになっていて、赤い絨毯が敷かれていた。中央にブロンズの裸婦像が飾られ、その奥に、曲線を描いた階段が二階へと通じ、天井からは金色に輝く葡萄のようなシャンデリアがぶら下がっている。高級なアロマの香りが漂い、夢を見ている気持ちになる。まるで、絵に描かれたような大富豪の邸宅のロビーなのであった。
由依は、こんな家に住みたいものだと思いながら、よく考えてみると、自分は自宅の六畳間が身の丈にあっている気がした。
「このあたりでは、奇術邸なんて呼ばれているんだよ」
と明日香は言った。
「キジュウテイ? なにそれ」
「奇術師、つまりマジシャンが住んでいるから奇術邸」
「ふうん……」
由依は、鼻歌を歌いながら、豪華絢爛なロビーをぐるりとひとめぐりした。
真は、左手首の腕時計をちらりと見て、由依に近づくと、
「六時になったら、父が奇術の説明をするから、このロビーに集合するようにね」
と言って笑った。そして宙を撫で、黄色い薔薇を出すと由依にそっと手渡した。
由依は、
(やばい。完全にモテてる。わたし……)
と思った。
「それじゃ、また会おう」
真は、さも愉快そうに笑いながら、ロビーを出て廊下を歩いて行った。
「うちの兄はね、ああいうマジックが専門なんだよ」
と明日香が真の姿が見えなくなってから怪訝な声で言った。
「そうなんだ。どうしちゃったのかな、お兄さん。こんな薔薇をくれて。いやぁ、わたし、困るよぉ」
と、由依がにやにやしながら満足げに語ると、明日香は本当に困っていると思ったらしい。
「大丈夫だよ。あれ、あの人のいつもの挨拶なの。何の意味もないから安心して」
「あ、そうなの……」
由依は、複雑な気持ちになった。
由依と明日香は、宿泊するために寝室に行くことにした。ロビーを出て、古めかしく薄暗い廊下を歩き、洋館の角にある螺旋階段を登った。
「来客用の部屋もあるんだけどさ、せっかくだから、わたしの部屋に泊まりなよ」
と明日香が言うので、ふたりは二階の明日香の部屋に行くことにした。由依は、こんな立派な建物に泊まれるのは嬉しいが、自分は全然、似合っていないな、と思った。
明日香の部屋は、二階の廊下の突き当たりにあった。そこにあったのは、頑丈な古めかしい扉だ。由依は、この建物は本当に昔のものなんだな、と思った。というのも、扉の鍵穴が、てるてる坊主のような形で空いていた。そこから覗いてみると、室内の様子がほんの少しばかり見えたのである。
「この建物、古いんだねー」
「大正時代に建てられたものをお父さんが買い取ったんだ」
「へー」
「それをお父さんがマジック用に改築したの」
「そうなんだ」
「鍵穴覗いてないで、中に入ろうよ」
と明日香はくすりと笑った。
明日香の部屋は、案外普通だった。どこにでもあるような女子高校生の部屋。左側に、木造りの勉強机に大きめのベッド、右側に衣装ダンスと薄型テレビがある長方形の部屋だった。正面には、大きな窓があり、外を見ると林が広がっていた。
「いいねー」
と由依は言って、明日香より先に室内に入り、ベッドに腰掛けた。
「でも突然、呼んじゃって悪いね」
と明日香は申し訳なさそうに言った。由依は、いいよいいよ、と微笑んで答え、ベッドのクッションをお尻でふかふかと弾ませると、
「どうせ、わたし、暇だったんだから」
と言った。
すると明日香は意味ありげに下唇を噛み、なにかを言おうとして躊躇している様子だった。由依はそれに気づいたが、こちらから尋ねるのもなんなので、そのまま気づかない振りをして、ベッドの上にうつ伏せに転がり、クロールの真似をしようとした。
「実はさ、由依、ちょっと聞いてほしいんだけど……」
「どしたの?」
由依はクロールをしながら、聞き返した。
「うちのお父さんとお母さんのことなんだけどね」
「あい」
「わたしのお母さんは、わたしが小さい頃に病気で亡くなっちゃったのね」
「うん………」
「それで、二年前に再婚したのが、今のお母さんなの」
「ほほう」
「お父さん、もう五十五歳なんだけどさ、今のお母さん、まだ二十五歳なんだよね」
「若いね」
「そう、若いんだよ。でも、問題なのは若いことじゃなくて、そもそもこれって、お金目当ての結婚なんじゃないかって思うの」
由依は耳を疑った。もしそれが事実だとしたら、かなりドロドロした話である。由依は、むくっと起き上がる。クロールの真似をしている場合ではない気がしたのだ。
「お金目当て……?」
「そう。うちってわりと資産があってさ。それに、なんか、あの人、父のお弟子さんの伊坂哲也さんと人と付き合っているみたいなの」
「ええ、浮気してるの?」
由依は、ゴシップが大好物だが、登場人物が誰も自分の知り合いではないので、もう一歩のところで、あまり興味が湧かなかった。第一、資産目当てで再婚した義母が、弟子と恋愛を楽しんでいるからといって、由依には何の関係もない。もちろんこの家が人間関係でドロドロしている状況はよく分かった。伊坂哲也という名前は覚えておこうと由依は思った。
それから、由依は、明日香と学校の話などをした。明日香は、由依の通う紫雲学園の同級生なのだった。しばらく、その話題で盛り上がっていたが、由依はしばらくして、明日香の父親について尋ねることにした。
「あのさ、明日香のお父さんってさ、どんな人なの?」
「ん? 普通だよ。どこにでもいるようなお父さん」
「でも、マジシャンなんでしょ? どこにでもいるようなお父さんじゃないじゃん。うちのお父さんなんて手品どころか、ペン回しもできないよ」
と言って、由依はベッドの上に落ちていたボールペンを手に取ると、指のまわりを一回転させ、自信ありげに明日香の顔を見た。
「すごいね。でも、まあ、お父さんがマジシャンなのは、わたしにとって当然のことだからさ」
「まあね」
「お父さんがどんなマジシャンなのか知りたい? テレビ番組に出演してた時のビデオあるけど、見る?」
「見る見る」
というわけで、明日香は、今時珍しくなったVHSのビデオテープを棚から取り出してきて、ビデオデッキに挿入した。
しばらく砂嵐の映像が流れ、ザーザーと音がしていたが突然、画面が切り替わり、バラエティー番組が始まった。
『さあ、天才奇術師の四谷黎斎さんの登場です』
サングラスの司会者がそう言うと、幕が上がり、銀色の鉄仮面をかぶった黒装束の怪人が現れた。それは笑った顔をしており、悪魔的な印象を与える。
「えっ、明日香のお父さんってこの人?」
由依はすっかり混乱して、明日香に尋ねた。
「そうそう。なんだか、不気味な見た目でしょ」
その怪人は、鉄仮面の怪人と呼ばれていた。彼は、スタジオに茶色い木製の扉のセットを運んできて、それを開いて、観客に見せていた。彼は、扉を一旦閉め、くるりと回転させ、側面を客席に向けると、再び扉を開いて、そこから手を入れた。ところが、その手は異次元空間にでも行ってしまったのか、扉の向こう側から出てこない。鉄仮面の怪人が扉に入ると、姿が消えてしまった。歓声が上がる。
「これ、なんなの、鏡とか?」
と由依が驚いて叫んだ。
「え……」
「どういうこと? 扉の向こう側に鏡を斜めに置いて、スタジオのこっち側を映してるとか……だから、手を入れても、手は見えない……」
「さあ、次のマジックを見ようか」
由依が当てずっぽうに語ったトリックが図星だったのか、明日香は笑顔で、話をはぐらかし、次のマジックのシーンに先送りする。
しばらくして、明日香はまたあることを語った。
「この家にはね、父の一番弟子の安西さんと、二番弟子の伊坂さんが住み込んでいるんだ……」
「えー、じゃあ、お母さんの浮気相手が家に住んでるの?」
由依は乱れた家庭環境に眉をひそめた。わたしだったら、そんな環境、絶対に嫌だな、と心の底から思った。