1 田所由依
九月の連休のことであった。雨が降り出しそうな雲が空を覆っている。池袋の羽黒探偵事務所に、ふたりの人物が現れ、二階に通じる階段を登った。
すぐに助手の室生英治が珈琲を出した。英治に、呼ばれて奥から出てきた所長の羽黒祐介は、来年三十歳になる黒髪の美男子である。その祐介が、ふたりの顔を交互に眺めて、ふっと笑った。
「まさか、おふたりが一緒にお越しになるとは思っていませんでした」
ソファーに座っているふたりのうち、ひとりは黒髪ショートカットの可憐な女子高生、田所由依、もうひとりは警視庁の尾形慎一郎警部だった。祐介はふたりのことをよく知っていたが、由依と尾形が知り合いとは夢にも思っていなかった。いつ出会ったのだろう、と祐介は首を傾げる。
尾形は神妙な顔をしていたが、祐介の疑問を感じ取ったのだろう。
「ああ、この子とは、今回の事件で出会ったのですよ。事件の目撃者でね。羽黒さん。是非、あなたの力をお借りしたい」
尾形警部は警視庁の腕利きの刑事だが、実は羽黒祐介を頼っている。というのも、羽黒祐介は名の知れた探偵だった。祐介の父親の羽黒警視は、すでに他界しているが、伝説の刑事であった。そのため祐介には警察関係者の知人が多く、尾形警部もそのひとりなのであった。
「わかりました。それでは、どちらからでもいいので、事件のお話を聞かせてください」
「じゃあ、わたしから」
と由依がにいっと笑った。由依は、ふんわりと膨らんだ胸を張って、事件の説明をはじめた。そして、物語はここから由依の回想に移る。
*
田所由依が、東京都八王子の高尾山口駅に降り立ったのは、夏休みももう終わろうとしている八月末のことだった。
由依は、駅から出て、東京都八王子ののどかな道を歩いていった。前方にはこんもりとした緑色の山が見えていて、青空には太陽が輝き、膨れ上がった白雲が綿あめのように浮かんでいる。いい天気とはこういうことを言うんだな、と由依は思った。
由依は、駅や高尾山のあたりから離れ、洋館のある方へひたすら向かっているところなのだ。
田所由依は、群馬にある紫雲学園という全寮制の学校に通う女子高校生だ。黒髪のショートカットをなびかせ、膨よかな胸元と白い肌が印象的な、さっぱりとした性格のスポーツ少女なのだった。
由依は、中学の頃からバレーボール部に所属しているのだが、春にとある事件に巻き込まれ、傷を負ってしまい、現在では運動を控えているため、夏休み中は、東京の実家に帰省しているのだった。
その由依は今、奇術師の住む洋館に向かっている。
(あっついわぁ……)
由依はネックを広げて、ぱたぱたと胸に風を送りこむ。汗がべたべたと肌にまとわりついている。わたしは今、ポップコーンよりもしょっぱいに違いない、と由依は不思議な感慨にふけった。
これから行く奇術師の住む館とは何か。奇術師とはマジシャンのことであり、この八王子には有名なマジシャンの邸宅があるのだった。
由依は、マジックにほとんど興味がなかった。トランプのカードが火に包まれたかと思うと、それがラムネの瓶の中から発見されたり、ロープの結び目がなくなったり、箱の中の人間が串刺しになりそうでならない類のショーは、なかなかエキサイティングなものだと思ってはいたが、奇術師の住む洋館に一人で行こうと思ったのは、別の理由があった。
由依は、友達に宿泊を誘われたのである。その友達というのが、その館に住む奇術師の娘なのだった。
(だったら、駅まで迎えに来てくれよ……)
と由依は不満を抱いた。
東京はまだ蒸し暑かった。由依は水色のタオルで首筋を伝う汗をしきりに拭いながら歩きに歩いた。
(あっつう……めっちゃ汗かいちゃった)
と由依は何度もタオルで首元を拭った。これでは肌が焦げてしまうのではないか、と思うほどの強烈な日光である。しばらくゆくと、一風変わった三階建ての洋館が山の中に建っているのが見えてきた。
(あれだ……)
由依は絶望した。洋館があるのは、とても徒歩でたどり着けるような場所ではなかった。
(歩きで行けるよって、明日香、言ってたじゃん……)
しばらく由依がぼんやりしていると、道を黒い車が下ってきて、由依を見つけるや、クラクションを鳴らしながら突っ込むようにして近づいてきた。荒い運転である。車は由依をかすめて、空き地に入ると、ぐるりとUターンした。由依が驚いて、そこから逃げるように歩道を突き進もうとすると、車の窓が開いた。
「由依ぃ」
由依が、窓の中を覘くと、助手席に座っている少女がいて、彼女こそ友達の四谷明日香だった。長い黒髪を分けて、丸いおでこを出している笑顔の明るい少女である。
「ああ、迎えに来てくれたの。いや、あそこ、駅からめっちゃ遠いよ……」
由依は、不平を垂れた。
「いやぁ、由依なら歩けると思ったんだよねぇ。えへへ。まあ、乗んなよ」
「当たり前だよ」
と由依が言いながら、後部座席に乗り込むと、運転席に座っているのは、二十歳ぐらいの眼鏡をかけた神経質そうな青年だった。しかし、よく見ると非常に美形な顔つきをしている。イケメンと焼き肉が好物の由依はどきりとする。
「お兄ちゃんだよ」
明日香は、自慢げに笑いながら言った。
「はじめまして。四谷真です」
「どうもどうも」
由依は、へらへら笑いながら、雑な会釈をする。
「いつも妹がお世話になってます」
「こちらこそ、いつも、妹さんのお世話をさせていただいて……」
と由依は、あまり一般的ではない挨拶をした。
「お世話をさせていただいて、っ何……」
と明日香が笑う。真は由依の天然っぷりに恥ずかしくなったのか鼻の頭を掻いた。
「今日は父が、君ともうひとりのお客さんのために、マジックをするそうなので、是非、見ていってください」
「へえ。あの、明日香のお父さんって、有名なマジシャンなんですか?」
と由依はまだ状況が呑み込めていないので、真に尋ねた。真は車を発進させる。
「まあ、一時期はテレビにもよく出ていたし、日本のマジシャンとしてはかなり有名な方かな。アメリカやヨーロッパでも、ショーをするし……」
「じゃあ、空とか飛べるんですか?」
「まあ、ケーブルを使えば……」
「ケーブルって、いきなりタネ明かさないでくださいよ!」
と由依は、吹き出しそうになって、真の肩を激しく叩いた。悲鳴が上がり、瞬間、車が車道を飛び出しそうになった。
和気藹々とした雰囲気の中、三人を乗せた車は、奇術師の住む洋館を目指して山の中へと入っていった。
しばらくゆくと、森の中に、赤煉瓦造りの三階建ての洋館がそびえているのが見えてきた。非常に変わった建物である。というのは、建物は谷の断崖ぎりぎりに建てられていて、奇妙なのは、崖に沿って長い廊下が伸びているのだ。それはどういう意味も持つものか、由依にはこの時、分からなかった。
三人は、車を駐車場に停め、建物の近くへと歩いていった。
「え、ちょっ、こんなところに住んでるの」
由依は、洋館の立派な外見に感動を覚えた。そして、これに比べたら、うちの実家はなんてボロいんだろう、と余計な感慨にふけった。
明日香はそうとは知らず、ふうとため息を吐いた。
「うち、ボロいでしょ?」
「いやいや、ボロくないでしょ。こんなすごい建物に住めるなんて、めっちゃいいじゃん。どうしたの。明日香ってお金持ち?」
「まあ、確かに面積はでかいよ。でも改修工事とかはしてんだけどさ、建物が古いのよ。無駄に広いし、本当に使い勝手が悪い。おまけにマジック用の仕掛けとかあるんだよ……」
それはやばいだろ、と由依は思った。
「まあ、由依ちゃん、楽しんでいきなよ」
と真は楽しげに笑い、何もない宙をさらりと撫でて、赤い薔薇を出すと、
「ほら、プレゼント」
と言って、由依に手渡した。
由依は、ぽっと頬を赤らめて、
(わたし、狙われている……)
と思った。