死
国境の関所で糧を買い、イザックは歩みを進めていた。
その日は、だんだんと雲がかかり、曇天の有様。
画一的な空模様につられて、大地も丘が畝る荒波のように眼前に迫ってくる。
すべてが色を失い、灰色となった世界。
国境からの道は途中から、カンジュナ連邦国とブブドゥルクへと別れる。
イザックは、どちらへ行くか迷いながら分かれ道を目指す。
カンジュナ連邦国は、大陸の中央部に位置する大国で、その領土は遥かにオース帝国を超える。
元は、9州と呼ばれる盆地であったが、オース帝国がこの一帯の河川を治水した際に、大動脈であるガヤトリー川に自治領(現地語でカンジュナ)を設けた。当時、オース帝国側は、オースの市民権を目当てにやってくる9州からの移民に頭を悩まして、やがてオース帝国の法典に準拠することを前提に独立権を自治領に付与し、自治領は9州を統合し、出来上がった国である。
オース帝国から王族を頂戴して、9州に散らばる遊牧民の長による立憲君主を取っており、それで国家を成り立たせている。
国家として建つまでの長い動乱があるせいか、掟を守ることや平和を乱さないといったまとまりのある国民性である。
かわってブブドゥルクは、カンジュナの東に位置している。
魔界と大きく隣接しており、他国からは魔境と呼ばれ、森の人といった魔族との交流があると噂される。
各国はオース聖教を国教に据えているが、ブブドゥルクにおいては、独自の解釈がなされており、事実上ブブ教と化している。
オース帝国は、順次ブブドゥルクに派兵してブブドゥルク国の魔界化を抑制している。
治安の善し悪しでは、圧倒的にカンジュナの方が良い。
行き交う旅人や、商隊もカンジュナの人間だ。
母親の情報を掴む上でも、そちらの方が良いとイザックは思った。
空はいよいよ暗黒に染まり、空気に粘り気が出てきた。
まだ昼を過ぎたばかりだというのに、夜のような世界が広がる。
イザックは、嫌な気配を感じつつ歩みを早めた。
国境から歩いて5時間、嫌な気配、雨が振り始めてくる。
ウルダでは、雨は希少なものでありがたいものだが、今のイザックにとってはありがた迷惑な現象であった。
足を泥まみれにしながら、カンジュナへ急ぐ。
外套は水で濡れて、重くイザックにのしかかる。
雨を考慮していなかった。
そのため、体力を刻一刻と奪われる。体温は下がっていき、ついに力尽きて、道沿いに座る。
容赦なく降りかかる雨に為す術なく、その場で耐えるイザック。
その時、遠くで蛮魔の遠吠えが聞こえた。オオカミモドキだろう。
イザックは無い体力を振り絞り、剣の柄を握りしめた。
手に汗が滲み、緊張が走る。
今、襲われれば命はない。息を殺し、中腰になり、警戒態勢に入る。
遠吠えは、あちらこちらで聞こえはじめ、明らかにイザックを囲むようにまわりにいることが分かる。
高鳴る鼓動を必死に抑え、身を低くし、耳を澄ます。
足音だ。
近づいてくる。四方八方から。
ふいに低木の間に動くものが視界に映った。イザックはそちらに剣を構える。
気を失いそうなほど鼓動が脈打ち、剣の切っ先は宙を彷徨っている。
歪んでいく視界、遠のく意識、気がつけば剣先も地面についていた。
低木の間から、遠吠えの主が現れた。
二匹三匹と数が増え、低い地鳴りのような声をあげてイザックとの間合いを図っている。
蛇に睨まれたカエルのように、イザックは動けなかった。
ただただ、間合いを詰めてくるそれらに対して、考えの中では逃避していた。
大丈夫、これは悪い夢だ。と、そんなふうに。
だが、暗がりの中でもオオカミモドキの顔が分かるくらいになると、それは鬼のような形相で、牙をむき出し、唾液を垂らし、首を伸ばせば今にもイザックに噛みつかんとする。
イザックは恐怖に駆られた。恐怖というものにより現実に引き戻される。
怖い。
蛮魔如きの分際が、自分を殺そうとする。
何もしなければ、無残に食いちぎられる。
その無様な身体は、道端に放置され、肉食動物の餌になるだろう。
誰の記憶からも消え、存在そのものが無意味に帰すだろう。
死にたくない。
イザックは、駆け出していた。
必死に逃げた。
自分を守る術は、逃げることしかない。
剣を放り投げ、土砂降りの雨の中、夢中で逃げた。
爪が背負袋に引っかかり、そのまま切り裂いて、干し肉やら鶏めし包が背負袋から落ちる。数匹のオオカミモドキはそれに気を取られ、イザックを追うのをやめたが、落ちた食料にありつけなかったオオカミモドキは追跡を再開した。
少し距離が取れ、身軽になったイザックだったが、すぐに外套の裾に噛みつかれて、イザックは引っ張られるように倒れた。
倒れたイザックに次々オオカミモドキが襲いかかる。
腕を頭の前で交差させて守る。
だが、二の腕に噛みつかれ頭を晒される。
噛みつかれた腕を何とかしようと、もう片方の腕で蛮魔の頭を小突くが、すぐにそれを取り押さえられる。もちろん、鋭い牙の生えた口で。
イザックは上体を起こすため、足をばたつかせる。
食いちぎろうとしたのか、腕に噛み付いたオオカミモドキは頭を左右に大きく震わした。
鈍い音を出して、食い破られる。
しかしイザックの腕は無事であった。
震わす前に、噛み直したせいで外套を噛んでいたのだ。オオカミモドキは、食いちぎった外套の切れ端を持ってどこかへ行ってしまった。それに釣られて何匹かのオオカミモドキは闇に消えていく。
イザックは、未だ二の腕を噛み続けるオオカミモドキの口に手をかけて引き剥がそうとしていた。体の芯から湧き上がってくる怒りのせいか、余分な血が出ていったせいかは分からないが、頭は冴えていた。どうにもならない状況だが、抗うことだけに集中している。その一点だけに。
血だらけになりつつも必死で口をこじ開けようとするが、オオカミモドキも抵抗するようにますます噛む力を強めてきた。
もはや、腕に感覚はない。
どうする。
剣は捨ててしまった。
拳でやり合うか。
無理だ。
腕をくれてやって逃げるか。
それしかない。
布切れを肉片だと思って群がるような奴らだ。
腕一本を犠牲にすれば、逃げれる。その場しのぎかもしれないが、何もせずにいるよりかは良い。
イザックは覚悟する。
足を地面に付けて、腕を噛みつかれたまま上体を起こす。
オオカミモドキは動く獲物を逃さぬとばかりに、前足でイザックを押さえつけ、引きずり倒そうとする。その押し問答のような、無様なやりとりが繰り返される。
一対一になった所で、風前の灯には変わりない。
イザックは、怒りに身を任せ声にならない声をあげた。慟哭。こんなところで死ぬことに対する怒りと悲しみ。
ひとしきり力任せに放った声を出し切ると、急に痛みが身体を巡る。針で刺されるような熱さが流れ出て、そこに冷たい水が体の芯から溢れ出て身体をこわばらせていくのが分かる。これが死ぬ感覚か、と、ふとイザックは思った。
イザックの身体は地面を這っていた。
今、この瞬間イザックはオオカミモドキの餌になったのだ。
自分の戦利品を横取りされないように、それはそれは愛おしそうに、落ち着いてトドメを刺せる場所へと移動するオオカミモドキ。
もはや、イザックには意識はない。ただの肉片。蛮魔の糧になる運命にある。
「あ……あ……あぁ……」
肺に空気が出入りするだけで、それは言葉ではなかった。
イザックは深い眠りに落ちた。
大丈夫、これは悪い夢だ。
エターナル劇場開始!