9 牛とホモとチョコレート
「戻ったな、霊次」
電脳世界からリアルへ戻った俺が真っ先に見たものは海斗だった。付け加えて言うならば、海斗の両目しか見えなかった。男でも女でも魅了する精悍な顔を長い時間見つめることに抵抗はない。
「いつまで見つめ合ってるのー?」
海斗が顔を離すと同時に雨之瀬の姿も確認できた。
「そうだ、離れろ! 気色悪い!」
そりゃお前だろ。
しかし反応したら反応したで面倒くさいことになるので、特にこれと言ったことは口に出さなかった。
椅子から立ち上がって伸びをする。
そしてTシャツにドップリと付いた汗に気づく。室温も高くないのにこれほど濡れているのは、やはり脳犯された時の冷や汗だろう。電脳世界と言っても生理現象だけはリアルで起こってしまう。
何とも嫌な体験だった。
「ほらよ」
オレンジジュースを放り投げてくれたのは海斗だった。潜った後は水分補給したくなるので実に気が利く男である。ただしこのオレンジジュースは俺の冷蔵庫に入っていたものである。
俺がぐびぐびを飲み始めたところで、雨之瀬はもう次の行動に出ようとしていた。
「少し休んだら行くよ、諏訪君!」
「行くってどこに?」
「私のおうち!」
「なぜに?」
「噂の機械仕掛屋敷へご招待だよ!? 面白いよ!」
「面白いってなんだ」
「それは来てからのお楽しみ」
濁してはいるが、昨日聞いた武器庫が隠されてた家って奴だろう。ウキウキしながら可愛い女子の家に行くという気持ちには正直なれなかった。どうせまた変なことを「される」「させられるか」のどちらかに違いない。
ストレッチがてら身体を捻らせたり、首をグルグル回したりしているとあることに気づいた。さっきまで一緒に……いや、電子的に一緒にいた人物が一人だけ見つからない。
「そういえば影宮のすがたが……」
ガシャシャシャジャーン!!
キッチンの方からプラスチックのコップやら皿やらが落下する音。誰かが食器棚にあるものを取ろうとしたのだろうか。誰かっていうか恐らく影宮だな。
やれやれとキッチンへと向かってみると皿がぐちゃぐちゃ。
「おいおい、人んちの物漁るな、かげみ……って誰だお前」
「いたぁ~。なんであんな高いところにしかお菓子ないのかな~この家は~」
長い黒髪でもスラっと伸びた足でもない。白の生地に黒の斑点。頭には三角の耳フード。ダボダボの着ぐるみ。牛。たぶんホルスタイン。
尻餅をついている少女は頭を抑えながらぶつぶつ文句を言っていた。
「誰だお前」
「あっ、諏訪先輩起きてたんですか~! リアルで会うのは初めてですね~!」
「いや誰だお前」
ホルスタインの着ぐるみに身を包んでいたのは雨之瀬よりも小柄な少女。幼い顔つきや着ぐるみ越しからでもわかる小さな体格……中学生そこそこだ。当然見たことはない。
「いやだなぁ諏訪先輩。私たちは盃を交わした仲じゃないすか~」
「誰だよ」
「とりあえずあのお菓子取ってくださいよ~。ウチじゃ絶対届かないんです~」
「誰」
「ウチの顔、覚えてませんか?」
前、雨之瀬が俺をSKYへ勧誘した時のように、少女は真っすぐと俺の目を見つめていた。俺は目を逸らす行為すらも忘れ、ただただ少女の瞳にまさしく目を奪われている。
知るはずもない、少女。だと言うのに彼女の瞳は自信に満ち溢れていた。本当に俺が忘れているだけなのだろうかと考えてしまう程、純粋で透き通っている空色の瞳。
しかしこんなきれいな目をしている少女を、俺が忘れているとも思えなかった。
何も思い浮かばない。断片すらない。真っ白なキャンバス。平坦な崖。無限に続く水平線。
……なのに。……だと言うのに。
何故か口だけが勝手に動き出して、音を発した。
「……鳳左院琴奈」
「正解です~!」
理解はできなかった。ただこいつの目を見た時に発せられた名前。
この感覚は……そう。雨之瀬から貰ったスタビライザーのデータと読み取った時と一緒だった。これは直感的理解。スタビライザーからの啓示?
しかし音声データでも暗号を読み取ったわけでもない。ただ目を見ただけ。なら、考えられるのは予め仕込まれたウイルスか? こいつの目を見ると発症する仕組みになっているならば。
「お前……俺に何かしたな?」
「いや~まだ思い出せないんですか~? 盃も交わしてダンスもして一緒に遊びましたよ~」
ん? 待て。鳳左院琴奈だと?
少し前、電脳世界であったことを思い出せ。クラブ街の話だ。
その時、俺のアドレスには知らない名前があった。その名前は間違いなく鳳左院琴奈である。珍妙な名字で恐らく同姓同名の奴はいないと断言できる。珍しい分、逆に覚えやすい名前だが……それは直感的理解にはならない。
忘れてたことを思い出すのは点と点が繋がったようなイメージ。だが直感的理解は突如として発生する謎の点だ。今感じているものは後者に当たる。
俺にはこいつの記憶が元々ない。
「残念ながら仮想ドラッグとアルコールのせいでお前との記憶は完全に吹き飛んでる。お前、俺が狂ってる時にウイルスを仕込んだんだろ?」
「ウイルスなんて物騒なぁ~。ただウチは~先輩に接続して……ちょっとぉ……無機AIに……プログラムを……仕込んだ……だけでぇ……」
無機AIにプログラム、要はウイルスみたいなもんだろう。しかし俺の無機AIへ辿り着くには、必ず氷(ICE)を経由していなければならない。
「ドラッグで混乱していたとはいえ、氷があっただろう。流石にそれは無理だ」
「あ~RAVEN-Xのことっすか? あれは確かに潜行用なら超一級品の攻勢防壁ですけど、ウチ独自の槍はそれすらも簡単に貫けちゃうんすよ~!」
俺が使っているのは確かそんな名前の氷(ICE)だったはず。見かけによらずネットワーク関係に詳しいのか?
それに独自の槍? 氷(ICE)を貫く槍?
「槍……クラッキングツールか?」
「ウチの槍にはファイアウォールも攻勢防壁も通用しませんから~!」
「大そうな名前だ」
その性能は名前に見合う物なのだろう。一般人にしては過剰スペックの氷(ICE)すら通用しなかったのだ。こいつ、もしかしたら見かけに依らず相当危険な奴なのか。
「こら! 琴奈、勝手に漁ったらダメだよ!」
この危険人物を物理的に摘まみだそうとしたところ、雨之瀬からの叱責。
ああ、そういう……。やっぱりというか、なんというか。
つまるところ、雨之瀬の知り合いであり、とどのつまり、こいつもSKYだ。
「しずくさん~! 諏訪先輩がいじめてきます~!」
「こら諏訪君! いじめちゃダメだよ!」
「……」
とりあえず鳳左院琴奈が仲間であるなら、俺に危害を加えることはない。ないのだが……。
今はこいつから少しでも離れよう。近くにいると今度は何をされるかわかったもんじゃない。ウイルスを仕込むのも脳犯も、こいつには恐らく容易なことだろう。それは頭の中を弄られるのと同義。その技術はAI社会において最も恐ろしい凶器の一つである。
そこで海斗にバレないよう食器棚に隠してあった高級チョコレートを鳳左院へあげた。今はそれに釣られていてくれ。代償は大きいけれど。
「マジすか! ありがとです~!」
そそくさと散らかったキッチンから立ち去り居間へ戻った。きっと雨之瀬が片付けてくれるはず。
あ、そうだ、海斗。
クラブ街で鳳左院と話していたのを目撃したと証言していたのは海斗だ。もうこれは確信犯としか言いようがなかった。俺と鳳左院との出会いは画策されたものとしか考えられない。
俺は居間のソファでくつろいでいた海斗にチョップを食らわせた。
「はぇ!?」と間抜けな声を発した海斗の耳を掴み、一言一句はっきり聞こえるよう叫んだ。
「海斗ォ! お前、俺がドラッグでおかしくなっている時に鳳左院のことを仕向けたなァ!」
「え? あれ? なんでわかった!?」
さっきのクラブ街じゃすっとぼけて話してやがった。鳳左院の連絡先を消さないようしたのは納得がいく。俺がSKYに入る前から色々動いていたんだ。
「海斗にしては随分回りくどいことするな。普通に紹介すれば良かっただろう」
「霊次が俺からの紹介を今まで快諾したことがあったか! いやない! 馬鹿! 俺はお前に何人も女の子を紹介しようとしたのに、全部断られた! このホモ!」
「……確かに」
罵声はともかく、ぐうの音も出ない意見であった。
「えっ、ホモなことも認めるのか……?」
「うーん、やっぱりそうだなぁ」
さっきのは完全に失言だった。弁解の余地もなく、自分で「そうだなぁ」と納得してしまうほどに。
「そうなのか……?」
「何がだ?」
「いや何でもない」
海斗はソファから立ち上がり、逃げるようにキッチンの方へ向かっていった。入れ代わりに雨之瀬が居間へ戻ってくる。
「琴奈、お菓子喜んでたよ。全部食べちゃうくらい美味しかったみたい」
「……そうか」
何とも空虚なため息が出る。諸行無常と言うべきか、俺の楽しみが一つ、少女の胃袋へと吸い込まれていった。
蓬区にある超高級洋菓子店『ヨーカン』のチョコレート。あれは近々あるテスト終わりに食べようと思っていたリフレッシュ用のものだった。しかし真の用途はサイバー攻撃から逃れるため命欲しさに差し出した代償であった。
「まま、そう気を落とさず! 私の家に行けば少し高めのチョコレートくらい出してあげるよっ」
「おぉ……それなら行くしかないな!」
それは手のひらを返すには十分な程に、力が湧いてくる希望の言葉であった。
手を差し伸べた雨之瀬……まさに彼女はチョコレート社会に誕生したジャンヌダルクである。
彼女は俺が相当な甘い物好きであることを知っている。これは俺自身が公言していることだし、誕生日プレゼントとして雨之瀬からお菓子を貰ったこともあった。
自分で言うのもなんだが、俺のご機嫌を取る最も効率的な方法は甘い物をあげることである。
簡単に手のひらを返すし機嫌も直る。
「じゃあ、おひとり様、ご招待っ! いざ高級チョコを食べに、我が家へ! ワハハハハ!」
「ああ! ゆくぞ! チョコレートを食しに! フハハ!」
俺は部屋を飛び出した。変なテンションのまま。雨之瀬の背中を追って。マンションの廊下を駆け抜けていく、風のように。颯爽とエレベーターへ転がり込んでいく、アルマジロの如く。
「おいどこに行く霊次ィ! 鳳左院もさっさと行くぞ!」
「あーちょっと待ってください。ホームワイヤードに“め”を取り付けているので」
『下へ参ります』
タワーマンションを下るエレベーターの中は、俺と雨之瀬の奇怪な笑い声だけが響いていた。




