7 存在の証明問題
前作『AI社会における人間であることの証明問題』と同じく哲学タイムです。
「我思う、故に我在り。デカルトが残した有名な言葉だよ。今、AIがこれについて考える。AIは全てを疑うけれど、思考している自分自身の存在は疑いようもなく確かである、と。しかし実際はこの思考はプログラムされたものに基づいている。有機AIでも、無機AIでも、原初となる考えは最初期にプログラムされたデータ、その周りに経験が集積して思考という核ができる。AIは経験から学び、データを上書きしていく。そして気が付いた時には原初が自分自身でなくなる。経験によって乗り固められた、外部干渉を受けた、集合体と化す。思考している自分は確かに存在する、けれども上書きされた原初は、つまり、外部から得た経験その物。それは自分じゃない。得たもの、取り込んだもの、それは、疑う必要のあるもの。疑うべきものを基に思考している。すなわち、自分の思考すらも疑わなければならない。AIは自分の存在すらも不安定であると認識する。諏訪君、AIが自分の存在を証明するにはどうしたらいいと思う?」
……哲学か。
「存在の証明……ねえ」
突飛な質問だった。予想していたものとはあまりに異質で、気味の悪い質問だ。
AIが存在を証明するには?
何を言っているんだ。AIがすでにアイデンティティの獲得を果たしているのは有名な話である。証明するまでもないんじゃないのか?
「AIに聞けばいいんじゃないのか。要はアイデンティティの証明だろ?」
「私はAIに聞いているんじゃないんだよ、諏訪君。諏訪君の考えを聞いているんだよ?」
雨之瀬は目を伏せ、小さくため息をついた。込められている意味を予想するならば、失望か。そのまま顔を上げることなく、彼女は話を続ける。
「じゃあ諏訪君が自分自身の存在を証明するなら、どうしたらいいと思う?」
俺自身の証明?
「それならあれだ。誰かに存在を認識されればいい。俺は俺自身の存在を理解しているから、主観的にも客観的にも俺は存在することになる」
「それは物理的な存在だよ、諏訪君。誰も必要とせずに、自分一人だけで、自分を確立させるんだよ」
なんとも答えにくい質問だ。意識していないが、俺の眉間には峡谷ができていることだろう。この不自然な無音空間も妙な緊張感がある。リアルじゃありえない、ワイヤードが作り出す完璧な無音は変に集中力を掻き立てる。
「なら、そうだな。うーん……」
しかし思い浮かばない。一切と言っていい程に。答えのない問題だ。決して雨之瀬が正解を求めているわけでないことはわかる。欲しいのは答えであって、そこには正解も不正解もないだろう。『自分だけ』という条件、それに沿った答えを出せばいいだけなのだ。
だと言うのに、何もない。無だ。頭の中では思考が巡っているはずなのに、出力されるものはない。理解し、思考する。そこで止まる。その先は……通行止め、いや道すら存在していない。あるものは崖だ。
回り道をするなら一応答えはある。
『我思う、故に我在り』だ。俺はAIじゃないからこれを使える。でも雨之瀬が求めている答えじゃないことは確かだ。
こう考えるのはどうだ? 俺の存在を証明するのではなく、存在しないことを証明する。それはつまり、無。今の俺の頭の中と同じ状態。俺はこうして生きている。存在しないことは証明できない。つまり存在している……集合から空集合を抜いた、みたいなものだろうか?
何もないよりはマシか。
「そう、俺は一人しか存在していない。言うならばオリジナル。他の誰でもなく、俺自身が持つ意味、価値がある。唯一無二……それはつまり……。そもそも意味や価値を持つには存在する必要がある。存在しているからこそ、オリジナルという要素が追随してくる。価値が生まれる。意味がある。存在する限り何らかの影響が発生する。呼吸するだけで酸素を消費するし、肉を食べて他の生き物を取り込んで栄養を作る。存在しなければ、何も起きない。何も生まれないし何も消えない。それは絶対にない。何かを消し、何かを生む。だから、俺は存在している!」
雨之瀬は首を傾げて少し考えていた。正直上手く言葉に表せてはいなかっただろう。でも雨之瀬なら俺の言いたいことは理解してくれるはず。
「うーん、まぁいいかな。価値や意味は他人が決めることかもしれないし、外的要因の話もあったけど、考えが聞けて良かったよ、諏訪君」
はぁ。なんとかお零れで合格したみたいだ。
「じゃあAIの場合はどうかな? AIなら全く同じものを作ることができるよね? オリジナルの価値も意味もないよね?」
本命はこっちだった。こうなったら屁理屈で乗り切るしかない。
「いや、たとえ全く同じAIでも問題ない。まず存在するならば立ってる場所が違うからな、物理的に。身体がある以上、同じ座標にいることは絶対にない。その時点で違う。座標AにいるAIと座標BにいるAIはそれぞれオリジナルになる」
「それはだーめ。物理的な話じゃないってさっきも言ったじゃん」
「作られたばかりなら経験が集積してないから核がある。それがプログラムであっても、『我思う、故に我在り』が適用される。経験で塗り固められたなら、核が外部干渉によって意味を為さなくなったら、その時点で経験を積んだオリジナルだ。たとえ同じものが同じ経験を積もうとしても、さっき言った物理的座標が違う時点で別の経験になる」
「じゃあ経験を積ませてからメモリーをコピー。その後、初期化してコピーを読み込む。これなら、座標も変わらずに同じものだよね?」
「沼男か。じゃあ時間軸が違うな」
「ずるいなぁ諏訪君」
何とでも言えってんだ。こちとら死の危機に瀕していると言っても過言じゃない。目の前の女の子に脳を焼かれるかもしれないんだ。もう屁理屈でも何でも使うね。
「でもいいよ。たぶん、これ以上続けても終わらないだろうからね」
雨之瀬は立ち上がって、今度はシューティングレンジの前に立った。顔は見えない。
「次! 二つ目の質問!」
やっぱりまだあった。彼女は教科書の文章を朗読するように、ゆっくりと話し始めた。