転校生はシャーロキアン。
「はい。借りてた本、返すよ」
幼なじみの和彦は、通学途中の道で、私に文庫本を手渡してきた。〈四つの署名〉と題名に書かれたそれは、シャーロック・ホームズのシリーズの中でも、私が特に気に入っている長編の一つ。
シャーロック・ホームズ――その世界的に有名な探偵に、私は夢中になっている。ホームズの世界を楽しむためと思えば、図書委員の仕事も、あまり得意ではなかった英語の勉強も、全く苦にならないから不思議だ。
私は手渡された〈四つの署名〉を受けとると、鞄の中に入っていた本と素早く交換し、和彦の胸に押しつけた。
「はい。次の長編は〈バスカヴィル家の犬〉ね」
私に、強引に本を押し付けられた和彦は、呆れた顔をした。
「またシャーロック・ホームズ? 他にもあるだろ? 夏目漱石とか芥川龍之介とか。たまには日本人が書いた本も読みたいんだけど」
和彦は私に負けず劣らずの文学少年だが、学校ではそれを隠している。彼いわく『モテなくなるから』だそうだ。しかし彼は、ぶつぶつと文句を言いながらも、素直に鞄にそれをしまった。
「ま、いいか。読み終わったら、すぐ返すよ」
「ううん、ゆっくりでいいよ! 私は今、英語版を読んでるから」
私が鞄から、Holmesと書かれた本をちらりと見せると、和彦はますます呆れた顔になった。
「このホームズバカ。この間も、図書室の一番目立つ棚にホームズ全集、勝手に置いてただろ。いつかお前、本当に図書委員、クビになるぞ?いいか、俺は忠告したからな」
「いいの。私はシャーロキアンだから」
「シャーロキアン?」
「ホームズの熱狂的ファンをそう呼ぶんだって。世界中にいるんだよ、ホームズのファンは」
「ふーん。シャーロキアンねぇ……お前みたいなのが、世界中にいるなんて、想像できないわ。あ、俺、先いくな」
バスケ部で仲の良い友人の姿を見つけた和彦は、そっけなく手を振って走り去っていった。
登校班が同じだったよしみで、今日も何となく一緒に登校してきたけれど、最近は部活の朝練などもあるようで、なかなか時間が合うことが少ない。そろそろ別々に通った方がいいのかな、と思いながら、私も自分のクラスに急いだ。
「転校生を紹介します」
ホームルームが始まって早々に、クラスがざわついた。新学期が始まるときは、だいたいこうだ。私は机にほおづえをついて、先生の横に立っている男子を見つめた。
「佐々木ケン、と言います」
その男子は、そう言うとぺこりと頭を下げた。大人しそう、というのが第一印象。あまり目立つタイプではなさそうだ。
それでも、下校時刻になると、社交的なタイプの子達が、次々に彼に話しかけはじめた。
「海外にいたんだって?」
「もしかして英語ペラペラなの? すごーい!」
ああ、帰国子女なのね、と少し冷めた目で見つめながら、私は素早く準備を済ませると図書室へと急いだ。
返却された本をチェックして、番号どおりに並べていく。最後に、おすすめの本コーナーの前で、腕を組みながら、今週のおすすめに置く本を、何にしようかと考える。これが図書委員としての私の仕事だ。
その時、キィと音を立てて、図書室の扉が開く音がした。
「あっ」
「えっ」私たちは、ほぼ同時に声をあげた。入ってきたのは、あの転校生だった。
「びっくりした。人がいると思わなくて」彼は胸に手をあてながら中に入ってくると、「たしか同じクラス……だよね?」と質問してきた。
「うん。そうだよ。私は林です。よろしくね」
「林さん、よろしく」彼が手を差し出してきたので、私は、戸惑いながらも手を出した。
「あ!日本ではあんまりみんな握手しないんだっけ、ごめん」彼はすぐ手を引っ込めた。
「佐々木くんは、海外から来たの?」
「そう。イギリス――ロンドンから」
「ロンドン!」
私のいきなり大きな声を出したので、佐々木君は目を丸くした。その様子を見て、私は笑ってごまかした。
(変な子だと思われたかな……)
しかし、彼は特に気にする様子もなく、図書室の棚に置かれた本をゆっくりとチェックしはじめた。一番目立つ棚に置かれた本を目にすると「あ、ホームズが全巻ある」と声をあげた。
「The Adventures of Sherlock Holmes……The Memoirs of Sherlock Holmes……His Last Bow……」
佐々木君は、流ちょうなイギリスのアクセントで、ホームズ全集の原題を読み上げていく。そして、すぐに「あ、『帰還』だけない!」と言いながら、こちらを振り向いた。
「ごめん、〈シャーロック・ホームズの帰還〉は、今貸出中なんだ。でも、うちに全巻あるから、貸してあげられるよ。持ってこようか?」
私が後ろから声をかけると、彼はゆっくりと振り向いた。
「ありがとう。でも、ホームズならうちにも全巻あるし、いいや」
私と佐々木君はそのとき、お互いに同じことを考えているのに気づいた。笑いをこらえながら、同じ動作でゆっくりと人差し指を相手に向けた。
「もしかして……シャーロキアン?」
まるで示し合わせたかのように同じ言葉を発した私たちは、まるでお互いの秘密を知ってしまったかのように一緒に笑った。
「ロンドンに住んでたってことは、ベイカー街のホームズの家にも行ったことがあるの?」
「あるよ」佐々木君は、事もなげにそう言った。「でも、普通の家だった。探偵事務所、って感じじゃなかったな」
「すごい!」私は興奮して飛び上がった。鞄からいそいそと英語の本を取り出すと、「ひょっとして、これも読めたりする?」と彼に見せた。
「ちょっと難しいけど、読めないこともない。というか、読んだ」
私が尊敬のまなざしで佐々木君を見つめると、彼は照れ笑いをした。
「ねぇ。ホームズ同好会を作らない?」私は言った。「同好会ならすぐ活動できるし、人を集めたら正式な部になるよ」
「いいよ。本が読める部活に入りたかったんだ」佐々木君はにっこりと笑うと、「じゃあ、また、明日ね」と言って、鞄を持って出ていった。私は、明日学校に来るのが、急に待ち遠しくなった。
*
次の日の放課後、私は急いで返却されている本を片付けると、佐々木くんが来るのを待った。その時、おすすめ本の棚に、見慣れない紙が差し込まれているのが目に入った。その紙には、一行だけアルファベットが書かれていた。
"NAC UOY FI EM HCTAC 1/4"
(なく、うおい……?)
そこに書かれた言葉がさっぱり読めなかった私は、その紙を裏返してみたが、そこには特に何も書かれていなかった。すると、ちょうど佐々木君が図書室に入ってきた。
「どうかしたの?」
そう尋ねる彼に、私はその紙を手渡した。すると彼はしばらく考え込んで、みるみる表情を変えた。
「これは――挑戦状じゃないかな」
佐々木くんはノートと筆記具を取り出すと、その紙に書かれたアルファベットを逆から書いていった。
"CATCH ME IF YOU CAN"
「捕まえられるものなら、捕まえてごらん、という意味だよ」佐々木くんはそういうと「これ、どこにあったの?」と聞いてきたので、私はおすすめの棚を指差した。佐々木くんはその棚や窓などをしばらく調べていた。
「ここって、鍵はかかるの?」私は首を振った。「誰でも入れるのか……じゃあ、その線では犯人は絞れなさそうだ。でも一つだけ解ったことがあるよ。犯人は、英語が得意ってこと」
そう語る佐々木くんはとても生き生きとしていて、まるで本当にホームズを見ているかのようだった。
「この1/4というのは、何かな?」私が気になったことを口に出すと、彼は腕を組んだ。
「全部で四枚あるってことじゃないかな。この暗号にはきっと、続きがあるんだ」佐々木くんは確信を持った口調でそう言った。
「ホームズ同好会、最初の事件だ。犯人はきっと僕が捕まえてみせる」
私たちはしばらくの間、暗号が他にもないか図書室の中を探し回っていたが、下校時刻になって見回りに来た担任に見つかり、学校を追い出された。私たちは、仕方なく、家に帰ることにした。
*
次の日、私は日直当番で日誌を書かなければならず、少しいつもより遅れて図書室に入った。佐々木くんは待ちかねていたかのように、私に紙を手渡す。
「はい、これ。おすすめ図書の棚にあったよ。犯人は、間違いなく今日もここに来てる」
私は、そこに書かれた点をじっと見つめた。
"・・・・ ・・ ・・・ 2/4"
(4、2、3……?)
私は頭の中で、必死に語呂合わせをしたりして、つじつまが合いそうな言葉を探したが、何も思い付かなかった。私がその紙をみながら、うんうんと考えている間、佐々木君は全校生徒の名前が書かれた名簿をじっと見ていた。
「佐々木君……もしかして、この暗号解けたの?」
「うん」彼はあっさりと言った。「僕の得意な分野だったから」
それを聞いて、私は少しだけ、悔しい気持ちになる。
「答えが解ってるなら、ヒントちょうだい」
佐々木君はそれを聞いて、少し考えている様子だった。
「ヒント? 難しいな……えーっと、たまたまだと思うんだけど、これには『ツー』がないんだ」
(ツーがない……?)
それを聞いて、私の頭はますます混乱した。私がギブアップを告げると、佐々木くんは、にやりと笑って「それは、林さんがワトソン役になるってことで、いいよね?」と言った。
私は、みすみすホームズ役を譲りたくはなかったけれど、ロンドン帰りの彼はやはりどこか、ホームズのそれに似た雰囲気があることを否定はできなかった。私は、無言でうなずく。
「じゃあ、答えを教えようか。これは、モールス信号だよ」
佐々木君はそういうと、アマチュア無線の本を図書室から探し出して、それぞれの点が、アルファベットの何に対応しているかを教えてくれた。
「エイチ、アイ、エス……」
「his。英語だと『彼の』という意味になるけど、そうと決めつけるにはまだ早い気がする。暗号はまだあと二つあるしね」
佐々木君はそう言って、目を輝かせると、大きなため息をついた。きっと彼は、次の謎に早く挑みたくて仕方がないのだろう。しかし明日は休日だ。学校の鍵が閉まっていては、手も足も出ない。
佐々木君と私は、仕方なく、図書室から出ることにした。
「石井先生、いじわるだよね。ちょっと下校時刻過ぎたぐらいで、あんなに宿題出すなんて……」
昨日、私と佐々木君の姿を見つけたのを良いことに、担任の石井先生は、私と佐々木君にだけ、たっぷりと課題を出したのだった。
「良かったら、明日、手伝ってあげようか? 英語とか算数なら、得意だし」
「本当に? うれしい」
私は、佐々木君と休みの日に会えることを嬉しく思った。
電話番号をお互いのノートに書き留めて、親と相談して電話し合うことを約束すると、その日は早めに解散した。
*
週末に、佐々木君と勉強をすることを話すと、お母さんは大喜びした。電話口でぺこぺことおじぎをしながら、佐々木君の親としばらく話をしていたお母さんは「明日、こっちに来てくれるって」と言いながら受話器をゆっくりと置いた。「佐々木君のご家族は、ずっとイギリスにいらっしゃったのね。日本に友達がまだ少ないから、よろしくって言ってたわよ」
佐々木君は翌日、小さな外国産のお菓子の箱を持って、私の家に現れた。部屋に招き入れると、佐々木君は、初めて会ったとき、図書室でそうしたように、本棚にある本をのぞきこんだ。
「本当だ……シャーロック・ホームズが全巻ある。あ、『バスカヴィル家』だけ、ない!」
よく解るね、と私は笑った。「〈バスカヴィル家の犬〉は、今、友達に貸してるの」
「僕の他にも、ホームズ好きの友達がいるの?だったら、その人も同好会に呼んだらいいのに」
ちょうどそのとき、ピンポーンと玄関からチャイムの音が鳴り響いた。
「あら、和くん?」
お母さんの声が聞こえて、私はそのタイミングの良さに驚いた。「ちょっとここで待ってて!」と佐々木君を待たせると、私は玄関に向かった。和彦は借りた本を持って玄関に立っていた。
「良かったら、一緒に宿題やる?佐々木君が来てるの」
「佐々木って……?新しくお前のクラスに転校して来た人?俺、宿題ないけど。まぁいいか」
和彦は靴を脱いで私の部屋に向かった。佐々木君と和彦は、緊張したように、ちゃぶ台で向かい合ってしばらくお互いの様子をうかがっているようだったが、佐々木君がイギリスに住んでいたという話になると、急に話に熱が入りだした。
「英語があんまり話せなくても、友達ってできるかな?」
「大丈夫だよ。和彦君は好きなスポーツ、ある?」
「バスケが好きかな」
「そしたら、一緒にバスケすれば、すぐ仲良くなれるよ」
「そっか、ルールは一緒だもんな」
私はぽつんと話題に取り残されてしまったようで、和彦から戻ってきた〈バスカヴィル家の犬〉をそっと本棚にしまった。
「和彦君も、良かったらホームズ同好会に入らない?」
「遠慮しとく。俺はバスケ部で忙しいし」
「そっか……」佐々木君はがっかりしたように、肩を落とした。「でもいいのか。林さんがハドソン夫人役になっちゃうしね」
佐々木君は、私の方を見て、にやりと笑った。ホームズが大好きな私には、その冗談の意味がすぐにわかった。
ハドソン夫人は、ホームズやワトソンが住んでいる家のオーナーで、推理にほとんど関わることがないのだ。私はそれを聞いて少しだけ焦った。次の暗号はぜったい解かなければ――そんな気持ちをあらたにした私は、二人に助けてもらいながら、必死に宿題のプリントをこなした。
*
私はその日、少しだけ早く登校して、一足先に、図書室のおすすめ本コーナーをのぞいた。そこには、すでに紙が刺さっていた。私はその紙を取り上げると、急いで目を通した。
"『一番目は何を計るものか?』
『液体を計るものなり。』
『二番目は何を計るものか?』
『土地を計るものなり。』
『三番目は何を計るものか?』
『体重を計るものなり。』 3/4"
(これまでとは違って、謎かけみたいになってる。ホームズにも確かこんな話、あったな)
私は授業を受けるふりをしながら、今度はその謎を、一人で解いてみることにした。
『一番目は何を計るものか?』
『液体を計るものなり。』
この二行がひとまとまりであることは、文章の内容からわかる。液体を計るもの、という言葉から、計量カップのようなものを思い浮かべた。
ノートにお母さんが料理に使っている計量カップの絵を描いてみた。しかし、そのあとにメジャー、体重計を並べて書いてみても、うまく一つの言葉にまとまってくれそうな気配がない。
しばらく考えていると、私の頭に、ヒラメキが舞い降りてきた。
(もしかして、単位を聞かれてるのかな?だとすると……これは〈リットル〉)
私はそのノートに、大きく『l』と書いた。なんとなく、合っていそうな確信が持てたので、次の謎かけに挑む。
『二番目は何を計るものか?』
『土地を計るものなり。』
土地を計るもの――頭の中には、平方メートルが浮かんだ。ノートに『m』と書いてみたが、『l』と『m』では、なんとなく意味がつながらない気がした。頭を抱えて、昔、算数の時間に色々な単位を習ったのを思い出す。土地は広いから、別の単位を使うこともある、と先生が説明していたような気がする。広さを体験するために、校庭に線を引いて、その中に描いていた字は――
(〈a〉、つまりここに入るのはaの文字だ)
私はすぐに、『m』の字を消しゴムで消して、『a』と書いた。『l』『a』と続いた文字を見て、答えに近づきつつあるのを感じた。私は、胸いっぱいに息を吸い込んで、吐きだした。残りはあと一つだ。
『三番目は何を計るものか?』
『体重を計るものなり。』
体重ということは、〈キログラム〉。私はノートに『kg』と書いてみた。しかし、『lakg』では一つの単語にならない。並び替えても、意味のある単語にはなりそうになかった。
(だとしたら、〈グラム〉?)
ノートに書かれた『k』の字を消して、『g』を残す。『lag』――意味は定かでないが、何となくそのような単語はありそうな気がした。辞書をこっそりと取り出して確認してみる。"lag"という単語には、遅れという意味があるようだ。
(his lag――彼の遅れ?どういう意味だろう?)
しかし、これまでとは違って、それっぽい答えを導き出せた気がする。今日は、私が推理を佐々木君に披露する番だ。私は今から、放課後が待ち遠しくなった。
放課後、私はさっそく佐々木君に自分の推理を話した。
佐々木君は、私が自分の力で、謎を解いたことを喜んでくれたが、最後の謎かけの推理を聞いたところで、不思議そうに首をかしげた。
「途中までは合っている気がする。でも、最後が『g』……?しっくりこないんだ」
佐々木君はそういうと、もう一度暗号を読みはじめた。
「体重を計るもの、か。日本では、体重はキログラムで計るんだね。イギリスでは、単位が違うんだ」
そういうと、佐々木君は鉛筆をとりあげると、私のノートのgの下に『st』と書いた。
「ポンドという単位もあるけど、たぶんこっちが正解じゃないかな。〈ストーン〉という単位だよ」
「ストーン……?」
私はその、聞きなれない単位に首をかしげた。
「うん、イギリスでは、体重計とかは、だいたいこの単位なんだよね」
佐々木君は、そう言いながら、ノートに、前回の暗号と一緒に単語を書いてつなげた。
『his last』――彼の最期。
私たちは、その不吉な言葉の響きに、顔を見合わせた。
「もしかしてこれは、殺害予告かもしれない」佐々木君の顔から、血の気が引いていく。「最後の暗号は何としても解かないと。怪文書だけでは、済まされなくなるかも……」
*
そして、最後の日。4/4の紙は、いつもの場所に置かれていた。今回は抜け駆けなしで、二人一緒に、その謎に取り組むことにした。
"5 8 74 4/4"
「数字だけか……意外とシンプルな謎だね」
「あいうえおの順に番号を当てていくんじゃない?」
「僕も最初、そう思った。でも、あいうえおは50音しかないよ?アルファベットなんて全然足りないし」
「そっか……」
私は、がっかりと肩を落とした。それでも、二人で喋りながら謎を解いている時の方がずっと楽しい。
「やっぱり、この74が決め手だと思うな……74、74……それだけの数の文字が並ぶもの、何かあったかな?」
佐々木君は、しばらくうろうろと歩き回りながら、ヒントを探すように本棚に並ぶ本の背表紙をのぞき込んでいた。しばらくして「あああ!そういうことか!」と大きな声をあげた。
「判ったの?」
「うん。『どう解くか』は解ったけど、まだ確信が持てない。あの表が欲しいんだけど……この学校にも、きっとあの表があるはずだ。案内してくれる?」
「案内ってどこに?」
「理科室だよ」
私たちは、紙を持って理科室に急いだ。
「あった!周期表。これが欲しかったんだ」
周期表。それは、世界で発見された全ての物質の元――つまり元素が書かれている表のことだ。100以上の種類があるのに、まだ発見されていない元素もある、と聞いて、驚いたのを覚えている。
佐々木君は、壁に掛かったその表と、数字を照らし合わせはじめた。
「5番……ホウ素の『B』。8番が酸素の『O』。74番は、タングステン?!ああ、でも元素記号は『W』なんだ」
『his last bow』
それが、暗号の答えだった。
「もう一つ、犯人について重要な事実がわかった。犯人も――シャーロキアンだ」
佐々木君は、あごに手を当てながら、ノートに書いたその答えを見つめている。それは、偶然にも、私が英語版でチャレンジしていたシャーロック・ホームズと同じタイトルで、私にも、佐々木君の言いたいことがすぐにわかった。
「〈シャーロック・ホームズ最後の挨拶〉……それが暗号の答えってこと?」
「うん。初めて図書室に行ったときに、そのタイトルを見かけた気がする。図書室に戻ろう!」
私たちは、その本を確認するために、急いで図書室に戻った。
図書室に戻ると、本棚から〈シャーロック・ホームズ最後の挨拶〉を取りだし、ページをめくった。すると、ページの隙間から、ひらりと紙が落ちた。
「やっぱり……」
私と佐々木君はうなずきあうと、その紙をめくった。その紙には、
"WOW! 4/4+"
と、一行だけ、書かれていた。
「『素晴らしい!』か……バカにされてるな」
「これって、ただのいたずらって、こと? でも、右下に4/4+ってあるし、これも暗号の続きなのかな……」
佐々木君は、黙ってその紙をつかむと、図書室を出ていった。私は、あわててその後ろから追いかける。彼が歩いていった先は――職員室だった。
「石井先生――お話があります」
「おお、佐々木君か。どうした?」
「図書室に、こんな怪文書が置いてありました」佐々木君はそういうと、これまでの暗号を全て石井先生に説明する。
「面白いね、それで?」
「僕は、先生が犯人だと、思ってます」
その言葉を聞いて、私は汗が吹き出たが、先生は大笑いした。
「いいよ、一応聞くけど、なんで先生が犯人だと思った?」
「英語は先生の担当科目だし、僕がイギリスの帰国子女なのもよく知っているからです」
「なるほど、だから先生を疑ったんだね。だけど残念ながら、先生は犯人じゃないな」
そういうと、先生は暗号の紙に目を落とした。
「ふむ。ヒズ、ラスト、バウ、ワウ、か」
「……」それを聞いた佐々木君は、まるで凍ってしまったかのように、その場に動かなくなった。「4/4に足す……バウ、ワウ……そうか……犬の鳴き声だ!」
「〈バスカヴィル家の犬〉!」
私と佐々木君は同時に叫んだ。そして、二人は一斉に職員室を飛び出した。
私たちは、全速力で図書室に戻り、本棚の〈ヴァスカビル家の犬〉を探したが、本はいつもの場所から消えていた。
「誰かが借りているのかな?図書カードを探してみる!」
しかし、図書カードをいくら探しても、〈ヴァスカビル家の犬〉の図書カードが見当たらない。
「誰かが持ち出したんだ……」
私が、この事件の迷宮入りを覚悟しかけたとき、佐々木君が叫んだ。
「いや、もう一冊、あるじゃないか。あの本を借りた人物――彼が犯人だ!」
*
もう一冊の〈ヴァスカビル家の犬〉は、相変わらず私の本棚にしまってあった。しかし、一つだけ違ったのは、そのカバーの裏に隠された、小さなシールメモだった。そしてそこには、衝撃の内容が書かれていた。
『アメリカに転校することになった。今までありがとう。
P.S. 俺も実はシャーロキアン』
佐々木君は、そのメモによって、全ての真実が明らかになったことを確認すると、私の肩に手を置いた。
「あとは君の仕事だ。任せたよ、ワトソン君」
私は、そのメモを持って、すぐ隣の家のインターホンを押した。しばらくして、ジャージ姿の和彦が出てきた。
「和彦……アメリカに行っちゃうって、ほんと?」
和彦は一瞬面食らったような顔をして、すぐに固い顔になると、こっくりとうなずいた。「ああ。九月から。向こうに行く」
「和彦もシャーロキアンだったなんて、どうして隠してたの?私が貸した本も、全部、読んだことがあったんでしょ?」
「だって、そんなことを言ったら、もうお前から本貸してもらえなくなるだろ」
照れ隠しのように、そっぽを向いて、和彦は言った。私は、自分の顔が耳まで真っ赤になるのを感じた。寂しい気持ちと、嬉しい気持ちがごちゃごちゃになった私は、どうしていいかわからず、そっぽを向いたままの和彦の横顔をじっと見つめた。
しばらく二人はそのまま、何も言わずに立っていた。
「手紙、書くよ」
「ああ、俺も。暗号でね」
〈完〉