アーケードを全裸で歩きたい(真顔)
『人はなぜ服を着ているのだろう?』
疑問に思ったことはないだろうか、まぁないかもしれない、でも私はあります。STAP細胞もありまぁす。
そう、STAP細胞はあるのだ、あるのだろう、あるのかもしれない。
その存在は非常に曖昧だ。曖昧すぎてSTAP細胞の存在自体を否定する者もいる程に。
しかしどうだろう? いくらなんでも、存在しないものをあんなに大々的にドヤ顔で発表できる人間がこの世に存在するのだろうか?
一般的な思考回路を持ち合わせてこの世に生を受けた私の様な凡人以下の人畜には、そんなことはおおよそ出来そうにない。
にもかかわらずあのムーミン系リケジョは、ムーミンの面影を残した顔を民衆に晒しながら「STAP細胞はありまぁす」と言ってのけた。
私は拍手を贈りたい。今更だが、拍手を贈ってあげたい。
だってそうだろう? STAP細胞が本当に存在していたとなれば、彼女は本番に弱い可愛そうな悲劇のヒロインであり、否定されながらもその存在を強く誇示し続けた。
そして仮に――仮にだ、くどいようだが仮に、本当はSTAP細胞が存在しなかったという世界線がどこかに存在し、そのうえで彼女がその存在を誇示しているとなれば、それはそれで凄いことなのだ。
あんな嘘、普通はつけない。いくら嘘つきであっても、世界各国に注目されるような法螺を吹いて回ることなど普通は出来ないのだ。出来るはずがない。
本来の嘘つきというものはひっそりと、決してその嘘が嘘だとばれないように、真実に包み隠されることを願いながら、静かに密やかに微かに虚実を囁くものなのだ。
それなのに、世間はお祭り騒ぎを楽しむように、彼女を否定しバッシングを続けた。
STAP細胞の存在が不明瞭なのを良いことに、彼女を嘘つきだと叩き続けたのだ。
悪魔の証明、シュレディンガーの猫――どちらとも確定的な判断ができない状況で、弱い者いじめをするように、ムーミンを一方的に叩きのめした。
集団の恐ろしさというものが垣間見えた事件だと私は考えている。
至極当然だが、1人よりも2人、2人よりも3人の方が強い。それは争いにおいても、民主主義においても。
私がYESと言ったところで、私以外の全国民がNOと答えればそれはNOとなり、逆もまた然りで、どちらにしてもマイノリティーの主張というものは大衆の前にひれ伏せられる定めなのだ。
だからこそ、私はムーミンを評価したいのだ。
彼は常に全裸で生活をしている。
ムーミンだけではない、ムーミンのガールフレンドらしき黄色いアイツも全裸だ。もっと言えば、ムーミンの友人である、あの気持ち悪いカンガルーみたいな奴も全裸――全裸なのだ。
いい加減自由すぎる。セクシャルハラスメントなんてチンケな言葉では言い表せない。
この話をすると、「ああいう世界観だから」と言われ、その場で会話が終了してしまうことがほとんどだが、ちょっと待ってほしい、時間をください、もう少し私の主張を聞いてください。お願いします。
確かに、ムーミンは裸がデフォルトな存在なのかもしれない。あの世界では裸はさして恥ずかしいものではないのかもしれない――世間が言うのはそういうことだろう。
では聞こう、なぜスナフキンは全裸ではないのか? あのちっこい玉ねぎ頭はなぜ全裸ではないのか――?
答えは簡単、羞恥心があるからだ。
羞恥心があるからこその衣類であり、自身を社会的一個人と認識しているからこその最低限の文化的要素である衣類を身に着けている。文化人としての意地がそこにはあるのだ。
それを理解したうえで今一度考えてみてほしい。
ムーミンはなぜ全裸であるのか。
私はムーミンについて、ニワカ以下の知識しかないが、それでもムーミンが、スナフキンやあのちっこい玉ねぎ頭とほぼ同じ語彙力をもって会話していることは知っている。少なくとも会話自体は成立しているだろう。
ムーミンは一見、どこかの嘘つきリケジョの様な顔面をしているが、それでも人型であるスナフキンと会話できる程度の文化を持っているのだ。
にもかかわらず、全裸なのだ。
全裸――全裸だ。
それはなぜなのか?
彼は世間に囚われない、全裸でいることに対する崇高なプライドを持ち合わせているからだと私は考察した。
何ともセンセーショナルな若者だ。センセーショナル加減で言えば1年程前に流行ったとか流行っていなかったとか言われている「服の上からブラジャーファッション」並みのセンセーショナルさだ。
あれって、私がやっても警察のお世話にならないのだろうか?
あんな服装、それこそセクシャルハラスメントだ。ひどい性的嫌がらせだ。勃ったらどうするんだ。私の息子――マイサンが。エロ過ぎる。
エロいといえばムーミンママは裸にエプロン、ムーミンパパは裸にハットという、私などでは皆目見当もつかないセクシースタイルで性に対する貪欲さを惜しげもなくアピッている。平たく言えば狂っている。
しかし、それはやはり服の上からブラジャーファッションとなんら変わりない、『衣類』という最低限文化的な国民の権利に胡座をかいた上での性的主張であり、スナフキンと同じように、文化人としての意地が垣間見える。そのほかにも色々と見えているが。
かく言う私も衣類を身に纏っている1人の文化人に過ぎない。
私に限らず、私のマイサンも衣類を纏っている。だからこそ、服の上からブラジャーファッション、ないしムーミンママの裸エプロンという非常に挑発的なスタイルはセクシャルハラスメントに該当するのだ。
あんなものを見たら、マイサンが服を脱いでしまう。いや、脱がされると行ったほうが適切だろう、この場合に限っては。
そう、私は恥ずかしいのだ。服を脱がされてしまう、文化人としての最低限の権利を奪われてしまうことが。恥ずかしくて堪らない。
普通は恥ずかしいものだろう。あなただって恥ずかしいはずだ、あなたが変態でないという前提があってこそだが。
にもかかわらず、ムーミンは脱いでいる。いや、元から着ていない。文化的な存在でありながら、まるで世間に叛旗を翻すかのように衣類を纏っていないのだ。
その姿はどこか、例のリケジョに通ずるものがある。
マイノリティーでありながらも、世間的にはぐれ者でありながらも、自分の主張を曲げないその姿は等しく美しい。
だからこそ私も脱ぎたいのだ。衣類を、文化人――いや、人間としての証を。
そのまま、生まれたままの姿でアーケードに赴き、この世間に苦言を呈すようにタップダンスで小粋なリズムを刻みたい。
わかっている、そんなことが出来るわけないと。まぁ物理的に不可能ではないが、私のひ弱な精神面のことを考えれば、それは不可能なのだ。私のような矮小な人間にとって、それは大嫌いなトマトを半年間主食にするのと同じくらいには無理があるのだ。
だからこそ私は言いたい。
私は裸になれないが、ジーンズの中で窮屈そうに痴態を晒す結果になるであろうマイサンならば、ギリギリアーケード内でも裸になることが出来ると。
だからこそ私は提案する。
何も薄着にブラジャーでなくともいい、寧ろセーターの上からブラジャーファッションを流行らせ、アーケードでも私のようなマイノリティーが、最低限の主張を許される新しい世界を作ることを。