いちばん星
カキーンという澄んだ金属バットの音と共に、白球がレフト後方のフェンスを飛び越えた。
高校通算58号。彼―――石動稔大にとって今日2本目の本塁打は、レフトを守る選手がほとんど動かない圧巻のアーチだった。
ダイヤモンドを一周しながら、いつもの〝外野指定席〟に目をやる。そこに彼女の姿はない。
きっと、なにか用事があったんだろう。当時の彼は、それほど不思議に思わなかった。
だがその日は―――彼にとっての〝一番星〟が喪われた日だった。
★
八島ひかるが死んだ。
その報せを稔大が聞いたのは、翌日の朝のホームルームが始まる前のことだった。
普段は寡黙な彼が、この時ばかりは話していた女子生徒に掴み寄り、真偽について問いただした。
―――詳しくは知らないけど、事故に遭ったんだって。今夜にも通夜が行われるらしいよ。
あまりにも現実離れした答えに、稔大は言葉の意味をうまく理解出来なかった。
タチの悪い冗談だろう―――そう思いながらも、昨日の練習試合で〝指定席〟に彼女がいなかったことを思い出し、気付けば教室を飛び出していた。目指すのはひかるが所属している3年4組。きっとそこに、いつもと変わらない彼女の姿があるはずだ。
「八島っ!」
勢いよく扉を開けると、教室中の人間がこちらを向いた。しかし、稔大はそれには目もくれず、思い描く彼女の姿を探した。
太めの眉に愛嬌のある顔立ち。短く切りそろえた前髪と、ボリュームのあるショートポニーテール。
教室中のどこを探しても、見慣れたその姿が見つからない。
やがて担任教師がやってきて、稔大はその人にも掴みかからん勢いで迫った。
「先生、八島は……! 八島は今日、どうしたんですか!」
どうか、ただの休みであってくれ。病気でも、親の都合でも、サボリでも構わない。
しかし―――
「その話だが……昨日、亡くなったそうだ」
その答えを聞いた瞬間、彼の中で大切な何かが音もなく崩れ落ちていった。
★✩
今日は、何月何日だろう。
あの報せを聞いて以来、稔大は時間の感覚を失っていた。
学校には行かず、食事もほとんど口にしない。
いつも通りの生活をすれば、現実を受け入れてしまいそうだったから。
当てもなく町をふらつき、誰もいない自宅へ帰る。
部屋はいつも通り暗闇に満ちていた。照明をつけると、まばゆい光と静寂が訪れる。
父親は、幼い頃に亡くしていた。シングルマザーとなった母親は、二人分の生活費を稼ぐため、毎日遅くまで仕事をしている。二人が顔を合わせるのは、母親の仕事が休みの週一日だけだった。
おかげで、親の目を気にすることなくひかるを家に招くことができた―――
その、はずだったのに。
「……っ」
ひかるはもう、この世にはいないらしい。
ふざけてる。そんな馬鹿な現実があるはずがない。
思考はそこでストップし、自室に戻るため立ち上がると、食卓テーブルの上に置かれた手紙が目に入った。
―――ハンバーグ、冷蔵庫に入ってます。温めて食べてね。
母親が毎日書き残すメッセージ。ここ数日、メニューは稔大の好物ばかりが続いていた。
母親は、何かを察しているのかもしれない。しかし、今は誰にもこの気持ちを話すつもりはなかった。
階段を駆け上がると、自室のベッドに倒れ込む。
起きていては、また余計なことを考えてしまう。瞑目し、時計の針の音に意識を集中させる。
やがて訪れた眠りの欲求に、稔大は素直に身を任せた―――
★✩★
その日の夜、夢を見た。今でも鮮明に思い出す、ひかるとの出会いの記憶。
ちょうど1年前、稔大は家の近所にあるバッティングセンターに来ていた。それは彼の日課であり、野球部の練習後に打ち足りない気持ちをここで晴らしていたのである。この日も最速140キロのストレートを放るマシンの前に立ち、景気のいい音を響かせていたのだが―――
ガシャーン!
激しいフェンスの音、それに女の悲鳴が聞こえてきて、稔大は慌ててゲージの外に出た。
何事かとあたりを見回すと、1つのゲージに女性らしき人影があった。
影は、フェンスにめり込んでいた。
「た、助けてぇ~!」
不可解な状況に首をかしげたくなるが、ひとまず助ける必要があるだろう。
そう考え、稔大は声の主に駆け寄った。
女子の制服を着ている。それに、この制服はうちのものだ。
両肩に手をかけ引き寄せてやると、女子生徒はようやくフェンスから離れた。
「はぁ……はぁ……死ぬかと思った」
床に座り込み、興奮したのか荒い呼吸を繰り返す。やがて落ち着くと、女子生徒はその場に立ち上がった。
「助けてくれてありがとう。えーと、どなたかは存じませんが」
「2年1組の石動稔大だ」
「へぇ、石動くんっていうんだぁ。あたしの名前は」
「八島ひかるだろ。知ってる」
「なんとっ!」
大げさなジェスチャーで驚くひかるのことを、学年で知らない奴はいないだろう。
定期テストで学年一位を獲り続ける秀才でありながら、変人としてのエピソードをいくつも持つ、校内ではちょっとした有名人であった。
中でも屋上で天体観測をするため深夜の学校に侵入し、警備会社の人間に取り押さえられたというのは有名な話である。
「ねぇ、どうしてあたしの名前知ってるの?」
「それは……」
「あ! よく見たら石動くんの制服、あたしの学校と同じじゃん! だからあたしのこと知ってたのか~」
「いま気づいたのか……」
バカと天才は紙一重、というやつだろうか。
ひかるは汚れていた制服をぽんぽん払うと、床に置かれていた金属バットを手にした。
「さて、もう1丁やるかな~」
右バッターボックスに立ち、何故かガニ股に足を開く。バットを握る手は左手が上、右手が下になっていた。
「おいおい……」
不安になりながら見ていると、ひかるはマシンから放たれた80キロ近いボールを見事なまでに空振りし、コマのように回転して再びフェンスに激突した。
「……なるほど」
噂通り、秀才・八島ひかるはスポーツがてんで駄目だった。
.+*:゜+。.☆.+*:゜+。.☆
「いやー、ずいぶん教えて貰っちゃって悪いねぇ」
バッティングセンターのベンチに座りながら、ひかるは上機嫌に言った。少しは上達したのが、よほど嬉しかったのだろう。
「石動くんって、野球部ではどこを守ってるの?」
「センターだ」
「なるほどー。つまり、石動くんはグラウンドの真ん中あたりを守るわけだ」
「外野の真ん中だよ」
「あー、そういう事ね。つまり外野センター」
「……」
八島ひかるは、野球についてほとんど知らないらしい。
「1つ聞くが」
「うん?」
「八島は、どうしてバッティングの練習なんかしてたんだ?」
その問いに、ひかるは少し照れくさそうな表情を浮かべた。
「今、体育の授業でソフトボールやってるんだけど、これが全然ダメでねぇ。少しでも打てるように、練習しようと思ってさ」
「授業?」
「うん、そう」
未だかつて、体育の授業のためにバッティングセンターで練習する人間がいただろうか。
稔大が訝しむと、ひかるはその表情を汲み取ったのか、不意に〝告白〟を始めた。
「あたしってさ、体育がすごく苦手なんだよね」
そうだな、と心の中で相槌を打つ。
「そんで、苦手だから嫌いでさ。もう子供の頃から、体育とはなるべく関わらないように日々を過ごしてきたわけ。部活にはもちろん入らなかったし、授業も具合が悪いフリしてサボったり。でも、最近になって考え方が変わったんだ」
「考え方?」
そう問うと、ひかるは少し恥ずかしそうに、
「自分の可能性を自分で潰すのはもったいない……って感じ、かな」
自信なさげに呟くと、ひかるは頬をポリポリと掻いた。自分の可能性、なんて言葉が少しくすぐったかったのだろう。
ひかるの話は続く。
「2年生になってから、進路指導の回数も多くなったじゃない? ほとんどの人が進学するだろうから、どこが第一志望だとか、そんな話。でも、例えば希望の大学に進学できたとして、その先はどうなるんだろうって思ったの。あたし、何も考えてないやって」
「それが普通じゃないのか? 行きたい先は、大学の4年間で考えればいい」
「あたしも前はそう考えてた。でもね、こんな話をしたら、キミは馬鹿にするかもしれないけど……。もし大学に進学したら、あたしがプロのスポーツ選手になるなんてことは、まず有り得なくなるじゃない?」
「……はい?」
馬鹿にするどころか、何を言っているのかわからない。
それが表情に出ていたのか、ひかるは「だよね」と独りごちた。
「つまりね、あたしは今までの人生でいろんな可能性を潰してきちゃったんだと思うの。自分には向いてないとか、得意じゃないから嫌いだとか、そんな理由で。だから今、あたしは将来の自分がどうなりたいのか分からない。そう思ったんだ」
自分の可能性を潰したくない。
そのために、苦手なことや嫌いなことにも向き合って挑戦する。
「だから、バッティングセンターに来たのか」
「そういうこと」
にこりと笑った顔は、あどけない少女のようだった。
「石動センセーには感謝してるよ。今日であたし、プロ野球選手に一歩近づいたかも」
「それはないな。野球を舐めてる」
「……て、手厳しいですねぇ」
大げさに落ち込むひかるを見て、稔大は思わず微笑んだ。
話の合わない変人だと思っていたが、こいつにはしっかりとした信念がある。
それが稔大の、ひかるに対する第一印象だった。
★☆★☆
翌日は、雨が降っていた。
ここ1週間ほど、太陽はほとんど顔を出さず、テレビの天気予報的に言えば〝あいにくの天気〟が続いていた。
まるで自分の心を映し出しているかのようで、稔大は何もやる気が起きないまま、だらだらと自室のベッドに横たわっていた。
何も考えずにいられたらいいのに。
だが、そんなことは無理な話で、気付けばひかると過ごした記憶を頭の中で辿っていた。
彼女がどんな表情をし、どんな仕草をしていたか、不思議なほど鮮明に蘇ってくる。
―――石動くんなら、きっと野球のスターになれるよ。
やめてくれ。
俺はそんなに立派な選手じゃない。
お前が死んだってだけで、練習をサボり続け、野球のことなんかすっかり忘れちまってる。
俺が、本当に大切だったのは―――
「……八島」
溢れる涙に気づいたのは、頬を伝う温もりを感じた後だった。
両手でそれを拭い、気持ちをごまかすように窓の外を見る。
雨は、依然として降り続いていた。
外出すれば、傘をさしていても足元が濡れてしまうだろう。
しかし―――今日なら誰にも会わずに済むかもしれない。
机の引き出しを開けると、奥の方に一枚の写真が仕舞ってあった。写っているのは稔大とひかる、そして背景に〝星の降る丘〟と記された看板。その場所は、初めて学校以外の場所に2人で出掛けた、稔大にとって思い出の地だった。
―――ひかるに会いたい。それが叶わないとしても、当時の記憶に触れ、彼女の隣にいたことを少しでも肌で感じたい。
そう思った時、彼の心中にあった迷いは消えた。
ひかるに会いに行こう。
稔大は大急ぎで支度を済ませたあと、雨の降りしきる外へと飛び出した。
★☆★☆★
〝星の降る丘〟は、稔大たちの住む町から電車で2時間、更に駅からバスに乗り換え30分ほどのところにある、町営の子供向け科学館のような施設だった。
周囲を緑深い森が囲み、鳥のさえずりや虫の鳴き声が聞こえてくる、自然豊かな場所でもあった。
―――うわぁ、すごい! 思ったよりずっと大きいね。
バスを降りたひかるの第一声は、そんな感じだったと思う。
〝星の降る丘〟は二階建てで、1階に宇宙に関する展示、2階に大型の望遠鏡を多数設置している、〝思ったより〟立派な施設であった。
1階には太陽系の天体や銀河・星雲などの写真が展示されており、ひかるはその一つ一つをじっくり鑑賞しては「へぇ~」だとか「すごい」などと感想を漏らし、忙しなく動き回っていた。
子供連れやカップルなどで賑わっていたこの場所も、今日は雨が降っているためか、稔大以外には誰もいない。
静かな館内を歩いていると、ふいにひかるの声が蘇ってきた。
―――石動くん知ってる? あたしたちの住む地球は太陽系にあって、その太陽系みたいな惑星系がすんごいたくさん集まって出来たのが天の川銀河。そんで、宇宙には天の川銀河みたいな銀河がたくさんあるんだって。そう考えると、なんかワクワクしてこない?
「……興味無いな」
冷たくあしらうと、ひかるは露骨に唇を尖らせ、
―――ふん。石動くんだって、宇宙に比べれば米粒より遥かに小さい存在なんだからね。
ぷい、と顔を背けると、再び展示写真に興味を移していた。
よほど宇宙のことが好きなんだろう。館内を歩き回るひかるの表情は、きらきらと輝いて見えた。
それだけで、ひかるをここに連れてきてよかったと感じたのを覚えている。
―――ねぇねぇ、2階に望遠鏡があるみたいだよ。まだ少し明るいけど、一番大きいやつなら恒星とか見れるって。
「そんなに慌てるなよ。足元につまづくぞ?」
待ちきれないとばかりに階段を駆け上がっていくひかるの姿を思い出し、つい笑みがこぼれてしまう。
幸い、1階にはスタッフの姿はなく、にやけた顔を誰にも見られることはなかった。
ひかるの残像を追うようにして、ゆっくりと階段を上っていく。
2階には沢山の望遠鏡が設置されていた。学生でも買えるような小さいのもあれば、高さにして3~4メートルもあるかなり大型のものも置かれている。最も大きい望遠鏡は太陽系の惑星や、比較的近くの星雲などについても観ることが出来るらしく、〝星の降る丘〟の顔としてホームページにも掲載されていた。
―――うわぁ、すっごい大きいね。あたしが持っているのとは全然違うや。
ひかるはずっと興奮しきりだった。彼女は自前の望遠鏡を持っていて、天気のいい夜には1人で天体観測することもあったという。以前、夜の学校に忍び込んだ時も、その望遠鏡を持ち込んで屋上で星を観ていたそうだ。
―――少しでも空に近い方が、星が綺麗に見える気がしたんだよね。
その時のエピソードを、ひかるは少し恥ずかしそうに語ってくれた。警備員に取り押さえられたことで彼女は一躍有名人になったが、その動機は子供のように純粋だと稔大は思った。
ただ、星を見たかったから。
―――ねぇ、石動くんも一緒に星、見ようよ!
望遠鏡を覗きながら、ひかるがぶんぶん手招きしている。
だが、近づこうと一歩踏み出した時、彼女の姿は消えていた。
誰もいなくなった館内で、稔大は一人立ち尽くす。
ひかるはもう、〝ここ〟にはいない。
そう感じた時、抑えきれない想いが瞳の奥から溢れ、頬を伝った。
.+*:゜+。.☆.+*:゜+。.☆
「うわぁ、すっごくキレイ! 石動くんも早くおいでよっ」
ひかるに急かされ、〝星の降る丘〟の屋上にたどり着くと、そこには満天の星空が広がっていた。普段観るよりも星の形がくっきりとしていて、これまで興味のなかった稔大でさえ、思わず見とれてしまうほどの美しさだった。周辺に視界を遮る建物がなく、まるでプラネタリウムを観ているかのように全方位に星を観ることができる。
「みんなキレイで、どれが一番星か分からないくらい。あれかなぁ、それとも……うーん……。石動くんは、どれが一番星だと思う?」
「さぁな」
「またそんな返事ぃー。せっかくだから、石動くんも一緒に探そうよ」
ひかるに腕を引っ張られ、ドキリとしながら彼女の隣に立つ。
その横顔は、星空に負けないくらい楽しそうに輝いていた。
辺りは静かで、虫の鳴く声だけが遠くから聞こえてくる。
まるで、この世界に自分とひかるの2人しかいないようだった。
この時間が、ずっと続いてくれればいいのに。
「……今日は、連れてきてくれてありがとう」
静寂を破ったのはひかるの、彼女にしては小さな声だった。
「あたし、こんなに楽しいの本当に久しぶり。子供の頃に戻ったみたいに、たくさんはしゃいじゃった」
「ずいぶん楽しそうだったな」
「そりゃあもう。それも全て、石動くんのおかげでございやす」
ふざけて礼をするひかるに、稔大は「なんだそれ」と短く笑った。
「ともかく、石動くんには感謝してる。今度、なにかお礼をするね」
「そんなもん、別に」
「遠慮する必要はナッシング。うーん、そうだなぁ……。あっ、野球部の試合に応援に行くってのはどう?」
「それはお礼か?」
「お礼に決まってるよ~、女の子が応援しに来てくれるんだよ? しかも、石動くんに対して限定」
「遠慮する」
「なんとっ⋯⋯! 今なら手作り弁当もついてくるよ?」
「遠慮する」
「なんとっ!!」
ガックリと倒れ込む仕草を見せるひかる。それが演技だと分かっていたので、稔大は敢えて何も反応しなかった。
次の瞬間、ひかるはケロッと復活し、
「まぁ、お礼はともかくとして、試合は見に行きたいなぁ。石動くんが活躍するところ観たいし」
「やめてくれ」
「どうして?」
「気が散る」
「安心して。遠くからこっそり見るから」
「応援するんじゃなかったのか」
「こっそり応援する」
「それは応援というのか……」
稔大のツッコミに、ひかるは「もち」と親指を上げた。
「石動くんはきっと、すごい選手になると思う。だから今のうちに近くで見ておかないと」
「お前、野球のこと全然知らないだろ」
「知らないけど、色々調べたりしたよ。プロ野球のスカウトも石動くんを見に来てるって」
ひかるが言うと、稔大は図星とばかりに目を逸らした。
確かに、スカウトには何度か会ったことがある。
しかし、それでドラフト指名されるとは限らないし、そもそもプロで活躍する保証なんかどこにもない。
稔大は、そのことをずっと思い悩んでいた。
「石動くんなら、きっとスターになれるよ。だって素人のあたしが、バッティングセンターであんなに打てるようになったんだもん」
「10球に2、3球だろ?」
「それでも、あたしにとっては大進歩なの!」
力説するひかるに、稔大は「そうかい」とだけ返した。
そもそも、教える才能は選手というより、コーチの方だと思うのだが。
「とにかく、あたしは石動くんの試合見に行くね。石動くんのファン1号になってあげる」
「勝手にしてくれ」
「プロになったら、ユニフォームにサインちょうだいよ?」
「気が向いたらな」
「なんとっ、ファン1号をないがしろにする気?」
本気でがっかりした様子のひかるに、稔大は思わず笑ってしまった。
プロ野球選手を目指すことは、これまでどちらかというと消極的だった。
母親が夜遅くまで働いているのを見て、安定した収入の重要性を生活の中で感じていたからだ。
でも、これからは少し真剣に考えてもいいかもしれない。
何しろ今日、自分のファン一号が誕生してしまったのだから。
「石動くんが、プロ野球界の一番星になれますように」
星空に祈るひかるの横顔を、稔大はいつまでも眺めていた。
★☆★☆★☆
目が覚めると、見慣れない場所にいた。
稔大は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかったが、車掌のアナウンスが聞こえてきて、自分が帰りの電車に乗っていたことを思い出した。ちょうど降りる駅が近づいてきていたので、慌てて席を立つ。
ずっと夢を見ていた気がする。断片的に思い出されるのは、〝星の降る丘〟の屋上でひかると話した記憶だった。
今日はあいにくの天気だったが、その日は驚くほど星空が綺麗だったのを覚えている。
そして、稔大とひかるの関係が大きく進展した日でもあった。
あの日以来、2人は学校で一緒に昼食を食べたり、休日にはどこかに出掛けたりするようになった。恋人同士のように手を繋いで歩いたりというようなことは無かったものの、お互いの相手に対する気持ちは同じだったと思う。
でも、それはもう叶わない。ひかるはこの世にいないのだから。
こみ上げてきた涙をぐっと堪え、静かな駅舎の中を通り抜ける。
見慣れた駅前の広場に降り立ち、稔大は自転車を走らせた。町は水を打ったように静かで、自転車を漕ぐシャッシャッという音だけが妙にうるさく響いた。照明をつけている家はわずかで、出歩いている人間などほとんどいない。横を通りがかった公園の時計を見ると、時刻は午前零時を回っていた。いつもは遅い母親も帰ってきているだろう。
メールを入れなかったことを後悔しながら、稔大は自転車を漕ぎ続けた。
やがて自宅にたどり着くと、居間の窓から明かりが漏れていた。母親が起きて待っているのだろう。流石に怒られるかもしれないと思いながら、稔大は玄関のドアを開けた。
居間を覗くと、やはりというか、パジャマ姿の母親が待っていた。
「おかえり。遅かったね」
「……あぁ」
どこに行っていたの? そう聞かれるかと思ったが、母親は何も言わなかった。稔大にとっては、そのことが逆に気にかかる。
「お腹空いてるでしょう。カレー、作ってあるけど」
「……いらない」
「食べて来たの?」
「うん」
それは嘘だったが、どうしても食べる気にはなれなかった。母親の料理はもう何日も口にしていない。
母親は特に気にした様子もなく、テーブルの上に用意してあったらしい皿やコップを片付け始めた。申し訳なく思うが、稔大にはどうすることもできない。
片付けが終わると、母親は台所の電気を消した。
「お母さん、そろそろ寝るけど。あんたはまだ起きてるのかい?」
「あぁ」
「なら、居間の電気はちゃんと消しといてね」
稔大が頷くと、そのまま居間を出ていこうとする。
母親は、不思議なほど何も聞いてこない。まるで何事も無かったかのように、いつも通りの態度で接してくる。
そのことが、稔大にとっては逆に辛かった。
「どうして……何も聞かないんだ」
気づけば、その言葉を口にしていた。母親は立ち止まり、ゆっくりとこちらに向き直った。
「俺がおかしいって、とっくに気づいてるんだろう? 学校に行ってないのだって、野球部の練習に行ってないのだって、知ってるはずなのに。それなのに、どうして何も言わないんだ」
稔大がまくし立てると、母親はフッと表情を緩め、
「何か聞いたとして、あんたはそれを話してくれるのかい?」
「……それは」
「お母さんは、あんたのこと信じてる。何があったのか知らないけど、きっと立ち直ってくれるって」
母親は優しく微笑んだ。
何も知らないはずなのに、どうしてそんなことが分かるんだよ。
どうして、俺が立ち直るって信じられるんだよ。
稔大の胸には思いが溢れたが、言葉にすることは出来なかった。
感情が高ぶってしまわないように、抑えるのがやっとだったから。
「まぁ、学校を休むのはともかく、ご飯はちゃんと食べなさいよ。人間お腹が空いてると余計なこと考えちゃうからね。……カレー、用意するかい?」
そのことも見抜かれていたらしい。
稔大が頷くと、母親はすぐに食事の準備を始めた。鍋を火にかけると、食欲をそそる独特の香りが立ち上ってきて、お腹の虫がぎゅるぎゅると声を上げる。腹が減ったと感じるのは、本当に久しぶりのことだった。
「ほら、用意できたよ」
稔大は席に着き、熱々のカレーを口に運んだ。肉多めで人参抜きの、稔大が何度も食べてきた味。暖かさが体に染み込み、全身に行き渡っていくようだった。
「……うまい」
久しぶりに食べた母親の味は、震えるほどに美味しくて。
気付いたときには、涙が頬を伝っていた。
母親は何も言わず、ただ黙ってこちらを見つめている。
稔大は涙をぬぐう事もせず、ひたすらカレーを口に運び続けた。
スプーンを持つ手が、カチャカチャと絶え間なく動き続ける。
「ゆっくり食べなさい。喉に詰まらせるといけないから」
「……うん」
大好きな人を失ってから初めて感じる母親の温もりに、稔大は涙を止めることができなかった。
.+*:゜+。.☆.+*:゜+。.☆
食事を終えると、稔大は外に出た。火照った体にひんやりとした風が吹き付ける。もう五月とはいえ、夜はまだまだ涼しい日が続いていた。
夜空に星はなく、闇色の雲がすべてを覆い隠している。
「明日から、学校に行くよ」
稔大は、背後にいる母親に背中越しに言った。
「無理してない?」
「少し眠いかもしれないけど、大丈夫。これ以上サボるわけにはいかない」
そう言って、稔大はうーんと背伸びをした。部活をサボっているせいで、体は鈍り切っているはずだ。
顧問にはとんでもなくどやされるだろう。もしかすると、最後の大会は試合に出られないかもしれない。
だが、土下座してでも試合には出る必要があった。
ファン1号の期待する通り、野球界の一番星になるために。
「それなら、もうそろそろ寝ないと。明日は早いんだから」
「分かってる」
学校にいくということは、現実を受け入れるということ。
それは、ひかるの死を受け入れるのと同義だった。
辛くないわけがない。苦しくないわけがない。
でも、そうするしかないのだと、稔大は思った。
ひかるの死から逃げ続ける自分を見て、彼女はきっと叱り飛ばすに違いないから。
「ほら、家にそろそろ入るよ」
「うん」
―――ありがとう、八島。
俺は、お前と出逢えてよかった。
野球しかなかった毎日が、お前と出逢って変わった。
毎日がびっくりするくらい充実していて、幸せだった。
俺がプロ野球選手を目指す決意をさせてくれた。
そして―――お前のことが誰よりも、好きだった。
泣くのは、これで最後にしよう。そう思いながら、稔大は涙を流した。これまで我慢してきた想いを爆発させるかのように、いつまでも、いつまでも。
涙が溢れ、顔がぐしゃぐしゃになるくらいに。
―――お前のこと、絶対に忘れないよ。
そう心に誓ったとき、雲間に覗いた一番星が一瞬、強く瞬いたような気がした。