09 祈少年、離郷する
「門脇のおじさん。俺、今回のことは黙っておきますね」
白髪にまとう雪を払いながら、門脇さんが頷く。
「そのほうがいいだろうな……会長の方は、おれが適当に誤魔化しておくから」
真実を打ち明け、落ち込んでいる花凛に、気遣うような視線を向ける。
「何も気に病むことなんてないべ。いいか? あれは通りすがりの賽銭泥棒の仕業だった。そういうことにしておこう。――な?」
「黙っておく代わりといっては、なんですけど」
うつむいている花凛の代わりに、ふてぶてしい笑みを浮かべて俺はいう。
「オジサンの家にルノワールの絵がいくつかありますね。それをひとつ、譲ってくれませんか?」
「はあ?」
完全に意表をつかれたのか、小柄な老人は目をしばたたかせている。
「祈くん、絵画に興味があるのか。でもなぁ、あれは贋作といっても、結構貴重なもので」
「お願いします。オ西木幌の子のためなら、何でもしてくれるんでしょ?」
「…………わかったよ。一枚だけだぞ」
「ありがとうございます」
渋面を作った門脇さんに、満面の笑みを返す。
おい、と絆に肘で小突かれた。
「お前どういうつもりだよ。門脇のオジサン困ってるだろうが……ん?」
着信音が鳴り出した。絆のスマホだ。誰だよ、とグチりつつ、ダウンジャケットからスマホを取り出す。
「はい。母ちゃん……えっ、マジ!? わかったすぐ帰る!」
「どうした?」
「空き巣逮捕!! 空き巣の野郎、オレんちの納屋に入りやがって、うちの父ちゃんと兄ちゃんに返り討ちにされたってよ! 現行犯逮捕だぜスゲーよ! ってことで、オレ帰るわ!」
狐目を興奮に輝かせながら、脱兎のごとく去っていった。
なんというか、感情の切り替えが上手い男だ。
門脇のオジサンにさようならをして、俺と花凛は石段を下っていく。
雪に埋まった石段を歩くのも今日で何度目だろう。ほんの一時間の出来事だったというのに、どっと疲れを感じていた。
「なんか色々ごめんね、祈」
「ん?」
「私さ……警察官になる夢、諦めるわ」
心細げなその声に、先を歩いていた俺は振り返る。
「どうしてだよ」
「だって、人を殴っておいて知らないフリをしようとしたんだよ。そんな人間、警察官になる資格はないよ」
「まあ、会長が頑丈だったからよかったものの、下手したら死んでたかもな」
「……だよね」
「でも、その行動力とか正義感とかさ。凄いと思うよ。そこは誇ってもいいんじゃないかな」
俺の言葉に、花凛は伏せていた瞳を上げる。
「花凛のそういうところ、俺は尊敬してるよ」
「……祈」
「なんて顔してるんだよ」
少しだけ乱れた髪を、優しく梳いてやった。
「ところで、花凛。お前に頼みたいことがあるんだけど」
そこで、俺は、出来るだけ穏やかで品の良い笑みを浮かべた。
目の前の幼馴染は頬を染めて、惚けた表情をしている。俺は親父似の善人顔に感謝する。
「その振袖なんだけど。――脱ぐとき、俺に手伝わせてくれないか?」
「……え?」
「俺は和服が好きなんだ」
「…………はあ?」
「なぜかっていうと、和服ってのは、きっちり着付けられているように見えて脱がせやすくて隙だらけ――上品さとエロスを併せ持つ最高の衣装だ。それなのに日本の女子ときたら冠婚葬祭とか特別なときにしか身に着けないときている。正直お前に似合ってると思わないけどそれでも目の前にいたらやっぱりチャンスと思うだろ。袂から手を挿し込んだり帯を崩したり紐を何本もしゅるしゅる解いたり襦袢を脱がしたり、それからそれから」
興奮で訳が分からなくなった頃、拳を振り上げている花凛がぼんやりと視界に入った。
「久しぶりに会って少しはカッコよくなったと思ったのに、中身は全然変わってない……っ! このド変態野郎ーっ!」
「!!」
冗談でなく、目の前に星が飛び散った。
後、暗転――
それから、どうやって家に帰ったかは覚えていない。
雪まみれ過ぎて、母ちゃんに驚かれたことだけは覚えている。
+ + +
「事件だ、祈!」
離郷の日。
玄関前で帰り支度をしていると、息を弾ませた絆がやってきた。
「雪男が出たんだってよ!」
「……雪男?」
「神社の階段を尋常じゃない勢いで転がり落ちてきて、雪まみれの姿で走り去っていったんだって。雪男に違いないって、荒巻の婆さんが町内で触れ回ってるぞ!」
「……」
それ、俺。
まだ微かに痛む肘をさすりながら、密かに舌打ちをした。人を妖怪扱いにしやがって。
「今日、札幌に戻るんだってな」
「大学で第二言語のテストがあるからな」
「お前、中国語だっけ? オレと同じくドイツ語を選択しておけば、あと二日はいれたのに。――ところで、あの絵、どうするつもりなんだ?」
「絵?」
「とぼけるな。門脇のオジサンから脅し取ってたルノワールの絵だよ」
脅し取った、なんて人聞きの悪い。
「親父にあげたよ」
「おじさんに?」
「アイツ、にわかの絵画マニアだからな。喜んでたよ。代わりに、カリフォルニアへの旅費をもらう約束をした」
「カリフォルニアって……ああ、米国のお爺さんとお婆さん家に行くのか」
「Yep!」
米国人なのは婆ちゃんで、爺ちゃんは生粋の日本人だが、カリフォルニアの土地が気に入ったらしく、居を構えて暮らしている。
今の俺にとって、あれほど開放的でスリリングな街は無い。
「祈、いくぞ」
軽トラの前で、親父が気取ったポーズで立っている。札幌行のバスが出ているターミナルまで送ってくれるらしい。
でも、一方で――
この町の子だから。ただ、それだけの理由で、無条件に守ってくれるような、そんな閉鎖的な故郷も悪くないとは思うのだ。
「じゃあな」
「おう、また」
数日後には大学で再会するであろう絆と、軽く挨拶を済ます。
遠くでこちらに小さく手を振っている花凛の姿が見えた。
またそう遠くないうちに帰ってくるか。
銀世界に染まった田舎町を軽トラックが通り過ぎていく。
雪に反射した光の眩しさに目を細めながら、ガラにもなく、俺はそんなことを思った。
《『祈少年と初詣の怪事件』……end)