03 メシア流血事件
ガリバーの額から流れる鮮血!
深手の傷か――!? 傷口に顔を近づけたところ、“死体”が、かっと目を見開いた。
「い、生き返った! 大丈夫ですか!?」
「うぅ……」
顔を顰めて唸っている。普段から物事にあまり動じない俺もさすがに興奮で声が上擦った。
「痛、痛たた」
初老の男は頭を押さえながら、ゆっくりと上体を起こす。
俺を見つめた後、愚鈍な動作で辺りを見回した。自分の置かれている状態がまったく理解できない、といった表情だ。
「ここは……ここはどこだ?」
「神社です」
「神社……? 私は、私は……」
まさか、傷を負った衝撃で記憶喪失に?
『私は誰?』とか言い出したらどうしようかと思ったが、幸いその前に絆が、彼が誰かを思い出してくれた。
「町内会長の樫葉さんだ!」
「ガリバーさん?」
「こんなときに何フザケてんだよ! ガリバーじゃなくて、か・し・ば!」
名前を聞いてようやく思い出す。
樫葉町内会長。一年ほど前に道外から移住してきて、猛烈に町政を語りつくし、半年前に町長に就任した変り種のオッサンだ。
自分のことを、西木幌町の救世主と称しているらしい。痛い。
「そうだ……私は樫葉太郎……西木幌町の――メシア!」
名を呼ばれた途端、彼は急に自信に満ちた様子になり、額から流血したまま咆哮した。
見た目もセリフも痛々しいことこの上ない。
「おうい!」
そうこうしているうちに、車道から軽トラが上がってきて、白髪の小柄なオジサンが走り寄ってきた。
この人は知ってる。町内会副会長の門脇さんだ。
俺が記憶している限り、この門脇さんは常に町内会の役員を務め続けている。温厚な人柄で働き者で評判である。
「会長ケガしてるべ! どうなってんだこりゃ!?」
何故か俺に視線が向けられたので説明する。
「わかりません。初詣に来たら、境内で会長さんが倒れていて」
「――もしかして、松山商店とこの祈くん? いやぁすっかり大きくなったなあ……はっ! そうじゃなくて、と、とりあえず救急車。祈くん、ケータイ!」
「待ってくれ門脇副会長」
通報しかけた門脇さんを、樫葉会長が手を挙げて制した。
「私なら平気だ。まだ痛むがキズは浅いようだし」
「いや、でも……」
「とりあえず応急処置をしてくれないか、社務所に救急セットがあったはずだ」
ウインドブレーカーのポケットから鍵束を取り出す。
立ち上がった樫葉会長の身長は、190センチといったところか。
さっきは横になっていたから余計大きく感じたんだな。それでもデカい。老人ばかりの田舎町で、一番の巨人であることは確実だろう。
ふたりは鍵を開けて社務所に入っていく。樫葉会長は、門脇さんに肩を貸してもらってはいたが、自力で歩けていた。
「どうする?」
つり上がった狐目をぎょろりとさせて、絆が俺と花凛を交互に見る。
推理小説マニアを称する絆だが、実際の流血現場では、怯えて何も出来ないチキン野郎ということが証明された。
「どうするって。大丈夫なんじゃない? せっかくだから参拝していこうよ」
意外にケロリとしているのが花凛だ。女が血に強いというのは本当だな。
「そうだな」
俺もそれに同意する。
ここまで苦労してやってきたんだから、本来の目的を果たすべきだ。
「お前ら……よくそんなに冷静でいられるな。うわ!」
絆が何かにつまずき雪に突っ伏した。
「くそ、なんで、こんなところに石が」
俺は蔑んだ視線を絆に送る。
これから一年間の幸を神に祈るというのに、元日からブザマに転んで醜態を晒し、もう奴は救いようがない。
「あ、絵馬があるよ」
雪まみれになった絆の傍らで、花凛が楽しげな嬌声を上げた。
絵馬だと?
拝殿に上がるまでに三段ほどの階段がある。
その、木製の手すり部分に絵馬が一枚縛り付けてあった。神社でこういった類のものは一切販売していないから、自ら持ち込んで縛り付けていったんだろう。
「ええと……『ずっと一緒にいられますように 牧野響、小川笑美』だって。響と笑美も参拝に来てたんだね」
絵馬には、黒マジックで書かれた丸文字がのたうっている。
地元に残っている同級生カップルが書いたものらしい。俺は冗談じゃなく脱力して倒れそうになった。絵馬を手すりから解く。それを雪山へ向かって、思い切りぶん投げた。絵馬は雪の中に埋もれて見えなくなる。
「祈っ! なにやってんのよ」
「アイツらのためだ。こんな田舎で、こんなものを晒しやがって。恥を知れ」
「怖ェよ、お前……『祈り』じゃなくて、『呪い』に改名した方がいいって」
狐顔を蒼白にした絆が呟いた。こいつら何もわかってない。
こんな小さな町で、羞恥極まりないアホを晒している絵馬を、気を利かせてり葬り去ってさってやったというのに。
メシア流血事件に、同級生の恥ずかし過ぎる絵馬。
新年から愚かしいものばかりを見せつけられ、興ざめにも程がある。
さっさとお参りして帰ろう。
階段に足をかけると、ぎいと軋んだ音がした。
財布から五円玉を取り出す。賽銭箱に向かって、それを投げ入れた。
「ええと、推理小説研究会に女子が入って来ますように……うおっ!?」
願い事をした直後、俺はのけ反る。
賽銭箱の手前側――その木枠部分に、血痕がこびりついていたのだ。