第二章 敦盛(4)
織田の軍勢が古渡に帰城した時、その控えの間にはたくさんの人々が信秀に会うために待っていた。彼らは尾張内外の状況を報告をする者や政務上の指示を仰ぐ者、そして戦の功労や賠償、所領の安堵を求める者達で、信秀は戦場から帰ったばかりという状態の中、休む間も無く業務に追われた。
吉法師は本丸御殿で父信秀と別れると、バタバタと戦の後片付けが行われている城内を通り抜け、御殿の渡り廊下から中庭にある池の畔に出て、一人ぼんやりと物思いに耽っていた。この古渡の城では決まった自分の居場所が無く、何となくここに流れ着いた様な感じであった。
周囲は徐々に陽が陰り、城内のあちらこちらで篝火が焚かれ始めている。吉法師はその灯りを前に、先程の行軍の時の父との会話を思い起こしていた。
我等が宿命、という自分を織田家の嫡男として見てくれている父のこの一言が何ともうれしく思えた。普段離れて過ごしている父と意思の疎通ができた事は、今回の訪問でここまでの大きな成果であった。しかし今回ここに来た真の目的となる話は全く出来て無い。無情な戦をする事の意味、人の命の行方、そして父の子供の頃の日々の心構えなど、ここで嫡男としての自覚が強まることによりそれらを知る必要性が増していて、このまま那古野には戻れないという思いが強くなっていた。
もう少し父と話をしなくては、と思う吉法師であったが、この後この城で父と話が出来る予定は無い。吉法師は池の前の縁石に蹲る様に座り途方に暮れていた。時折近くの廊下をバタバタと家中の者達が通っていたが、周囲がすっかり暗くなった庭の池の畔に蹲っている吉法師に気付く者はいなかった。
パチパチ パチパチ
吉法師は右手の方で自分を呼ぶ様な音が気になり目を向けた。それは篝火で松明の燃える音だった。篝火は周囲が暗さとは対照的に明るさを増していて、周囲をぼうっとした明るさで照らしている。
パタパタ パタパタ
今度は左手の方から自分を呼ぶ様な音を耳にし目を向けた。そこには風ではためく必勝祈願の幟を掲げた祠が、暗がりの中に浮き上がって見えた。幻想的な光景に吉法師の思考が重なる。
戦の意味とは何であろうか、人の死とは何であろうか、討死した弥五郎の姿を再び思い起こす。それはあまりにも衝撃的だった。戦では死が身近なものとなり、例え勝ち戦であっても死ぬ事がある事を知った。吉法師の悩みは再び深み落ちて行く。
自分もいつか戦の中で死ぬのかも知れない、もし死んだらこの意識はどうなるのであろうか、いや、そもそも自分は生まれる前の意思はどこにあったのだろうか。
齢十にして自己意識を認識した吉法師は死と共に、命の仕組みについて深く悩む様になっていた。吉法師は幻想と言う空間の中で、深い悩みの迷宮に迷い込んでいた。
「乾杯ー」
「おおー、勝利の酒じゃー」
「おらー、飲め飲めー」
奥の大広間からは大勢の人の賑やかな声が聞こえる。
それは御殿の大広間で始まった勝利の宴の様であった。今の自分はそれに参加する気にはなれないが、かといっていつまでもこの様な場所で考え込んでいる訳にもいかない。この城の何処かで今宵の居場所を見つけなければならない。そう思った時であった。
「吉法師殿、ここにおりましたか」
その声に振り向くと立派な僧衣を纏った一人の僧が自分の方を見ていた。僧は高き威厳の中で優しい面持ちを見せている。吉法師は暫しその僧の顔をじっと見つめながら考えていた。
(この僧、何処かで見覚えがある……)
確か父と歳が近く親しくしていた僧だったと思うが名が思い出せない。するとその僧は近くに寄って来てしゃがみ込み、目線の高さを自分に合わせて話し掛けて来た。
「広間で皆さんがお待ちですよ」
その言葉に吉法師は少し驚きを見せた。なぜこの僧が自分を迎えに来たのであろうか、その理由は分からない。しかし話がし易く、自分の悩みに対して相談が出来そうな人物に思える。
「御坊はどこの寺の者か?」
吉法師は差し当たりその僧に身元を尋ねた。それに対して僧はにこやかな表情を見せて応えた。
「拙僧は京の寺の者で、御父君とは兼ねてより仲良くさせて頂いております」
僧は父との関係を伝えることで自分への警戒心を解こうとしていた。しかし吉法師はこの僧が以前より父と親しくしていた人物という覚えは既に持っており、初対面としての警戒心は薄い。吉法師は宴に参加する気にはなれなかったが、この場に留まっているつもりも無く、僧が促す通りに御殿の大広間に向かう事にした。その間に再び吉法師が問い掛ける。
「御坊はどの様な教えを説いておられるのですか?」
吉法師は本当に聞きたい質問を遠回しにして訊ねた。本当は相手が僧侶であれば、早々に悩みの原因の一つの人が死とは、という質問をぶつけてみたかった。もしかしたら父よりも納得の行く答えが得られるかも知れない。しかしいきなりその様な質問をぶつければ、自分が死を恐れていると思われ、武士として、また武家の嫡男としては恥ずべき事と思われるかも知れない。
その吉法師の問い掛けに対して、僧は何か待ってましたとばかりに答えた。
「今、人の世の教えとしては大きく二つに分かれています。一つは最近民衆の間で流行っておりますが、人は死んだら霊魂となり、神仏を崇拝すれば極楽に行けるというもの。神仏と言う大きな他力の中で安心感が得られるとあって民衆には受けが良いが、誠にその様な死後の世があるかどうかは証明できませぬ」
それは正に吉法師が聞きたいことだった。自分が問い掛ける前に僧の方から話題にして来たことに、吉法師は少し驚いた表情をして聞き入った。僧はその吉法師の表情からその内情を察したかの様にして話を続けた。
「そしてもう一つは我々の教えですが、こちらは霊魂の存在を否定しています。精神と肉体は同一に存在し、その中で森羅万象についての様々な悟りを得るものです。つまりは何事も自力で行う、という事ですから先の教えとは正反対の考えです。大きな労力が伴うので民衆にはちょっときついですが、常に大きな判断力を求められるこの戦乱の時代の武家の心構えとしては重要となりましょう」
吉法師はその言葉に小さく頷いた。そして宴が行われている広間が近付く中で、吉法師はもう一つ自分の悩みの核心となる問い掛けておきたく、その歩みを鈍らせた。
「御坊、それでは人の死というのはどの様なものであろうか?」
その問い掛けをする吉法師の表情はこれまでに無い真剣身を帯びていた。それは今の吉法師の悩みの根源の一つであった。僧は何か笑顔を押し殺す様にして答えを続ける。
「もし霊魂という不明瞭な存在を最初に是とするなら、その先の話はもう何でも有りでしょう。しかし霊魂とは何か、人は目で物を見る事ができ、耳で音を聞く事ができ、頭で物事を考える事ができる。死ねばそれらは無い。つまり現実の世界の中で考えれば霊魂は無の存在と言う他は無い」
吉法師は押し黙って聞いていた。これまで仏の教えの話を聞いた事が無かった訳でも無いが、こうして理屈で考える事などは無かった。
「拙僧共の教えでは全てを分かっている事で結論付け、分からない事は悟りとしてそれを得るための努力をする。しかしながら人の死においては分からない事ばかりじゃ。分かっている事は人は死ねばその肉体は土に返るという事だけ、命という物は幻の様な物じゃ」
二人は御殿廊下の先程とは別の園庭の前で立ち止まり外を眺めた。少し風が出ているためか、池の水面で篝火の灯りが揺らいでいる。その中で僧は吉法師に言葉を続けた。
「ですが吉法師殿、それでは生きるという事はどういう事か、がむしゃらに挑戦を続ける様な生き方も、ひたすら平穏な時を過ごす様な生き方も、長い時の流れから見れば全ては一時の存在、いなくなればそれで終い、つまりは生きるという事も幻の様な物なのじゃ」
そして僧はまた吉法師の前にしゃがみ込んで目線を合わせた。
「つまりは生きるも幻、死ぬるも幻、同じ幻として考えれば生死に境は無い、ただ考えるべきは今の己にはここに一つの時間があるとい言う事じゃ」
吉法師は僧の説明の意味を深く考えた後、ぼそっと呟いた。
「生きるも死ぬるも幻か……」
その吉法師の真剣に悩む姿を見ると、僧は笑みを浮かべて云った。
「しかし親子ですなー」
吉法師はどういう意味か、と問う顔をして僧の方を見たがこの言葉の意味までは云わない。
「いや、何でもありませぬ、そなたの父は良き人生の先輩じゃ、この先は父に直接聞くと良い」
「父上に?」
「そう、父上に、」
そう言って僧はにっこりと笑顔を見せたが、吉法師は今ひとつ腑に落ちない思いであった。
するとその時、一人の子供が廊下の奥から駆け寄って来ると、吉法師の前に入る僧を見つけて声を掛けた。
「こんばんは、沢彦さま」
そして次にその子供は吉法師の方を振り返ると、驚いた表情を見せた。
「あれー、兄じゃじゃないですかー」
それは吉法師の実弟の勘十郎であった。勘十郎は沢彦を見掛けて走り寄って来たが、一緒にいたのが普段城内では見かけない実兄の吉法師である事に気が付いて驚くと、後ろを振り返って叫んだ。
「母上ー、兄じゃがいるー」
この時吉法師はもう少しこの僧との話を続けたいと思っていた。しかし思わぬ弟勘十郎の登場に、僧との話の継続は困難となっていた。しかしその勘十郎が来たことで、今まで話をしていた僧に名が沢彦宗恩である事を思い出した。沢彦はその時廊下の奥に向かって一礼していた。そこには吉法師の実母の土田御前が数人の女中を従えて向かって来ており、その女中の一人は、勘十郎の下の弟で、まだ赤ん坊の三十郎を抱いていた。
「兄じゃ、これから是非私達の部屋に来てくださいよー」
吉法師は日頃生活を共にしていないこの弟に対しあまり実の兄弟としての親近感を感じていなかった。しかし大広間で行われている宴にはもっと参加する気になれない。この城で決まった居場所が無い今の吉法師にとって、この時の勘十郎の言葉は少しありがたいという思いがした。
勘十郎は吉法師が応える前にもう土田御前の方に走り寄って行き、これから自分を連れて行く事を伝えていた。
沢彦はそれを見てここでの自分の役割の終了を伝えるかの様に声を掛けて来た。
「それでは吉法師殿、拙僧はこれにて」
何か名残惜しい思いがした。沢彦と知った上でもう少し話を続けたかった。短い時間ではあったが、非常に重要な教えを頂いた様な思いがしていた。
「沢彦様!」
吉法師はその場を離れようとする沢彦に声を掛けた。
「沢彦様、またお話できますか?」
その真剣な眼差しの吉法師に沢彦はにっこりと笑顔を見せた。
「はい、近いうちにまた」
そう言って去って行く沢彦の後ろ姿を見送っていた吉法師だったが、直ぐに勘十郎に促される。
「兄じゃ―、こっちこっちー」
勘十郎は手を振って自分達の方へ来る様に吉法師を呼んだ。呼ばれる先には母がいる。吉法師はいささか緊張して歩き出した。吉法師は物心付く以前より那古野城主として母とは別の生活を送っており、あまり母との思い出が無い。子供としてどの様に接して良いのか分からない。吉法師はうつむき加減に歩いて近寄ると、母に向かって挨拶をした。
「母上、お久しゅうございます」
それはもう元服して親元を離れた子供の様な挨拶だった。母の土田御前もここまで他人に育てられ大きくなった吉法師に対し、勘十郎や三十郎と同じ様な我が子としての愛情が湧かない。何か冷めてしまう感情がある。しかし自分が初めて生んだ子であり、その時の感動だけは今も覚えている。
「吉法師、大きくなったわね、鍛錬もがんばっている様ね」
その言葉には、離れていても母親としての成長を願う思いと、家の嫡男としてしっかりと成長してもらいたい、という期待があった。
「はい、母上」
吉法師の緊張感は少し挨拶を交わした事で和らいだ。
「さぁ母上、行きましょう」
そう云って勘十郎は母の手を取り、奥の部屋に向かって前を歩き出した。吉法師はその後ろをついて行き、女中達がその後ろに続いた。
勘十郎は久しぶりに兄の吉法師に会ったためか、楽しそうに母と手をつないで廊下を歩いていた。吉法師はそんな勘十郎を後ろから羨ましい思いで見ていた。自然に母と手を繋ぐ事ができる勘十郎にとって母はいつも身近な存在となっている。しかし自分にとって母の存在は遠く手を触れた覚えなど無い。これも嫡男として使命であるとすれば、嫡男というのは何か損ではないかと思う。
廊下を歩く間の吉法師の目線は前を歩く二人の手に釘付けとなっていた。
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沢彦はこの時吉法師の父信秀の部屋に立ち寄っていた。
信秀は行軍の途中、吉法師の様子が少しおかしくなっているのを感じていたが、帰城後多忙で相手が出来ない自分の代わりを、旧知の仲で信頼できる沢彦に依頼していた。
「如何であった沢彦、吉法師の様子は?」
他の祐筆と書簡の作成を行っていた信秀は自分に代わって沢彦に吉法師の話相手を頼んでいた。その結果を訊かれた沢彦はフッと笑顔を見せて答えた。
「何度も笑いそうになってしもうたわ」
沢彦はまだ若かりし頃、今回の吉法師と同じ様な嫡男としての悩みを信秀から訊いていた。信秀もいきなり訪ねて来て、人の死とは何ぞやという事を訊ねて来ていたのを覚えている。
「はーっはっはっ、おぬしら親子は良く似ている、よく悩む」
「言うな沢彦、それは儂が良く感じている」
信秀は我が子吉法師との類似点を指摘された恥ずかしさと、若い時の自分と同調している所の嬉しさで、複雑な気持ちであった。
「ははは、であれば儂よりぬしが直接話をするのが良かろう。良き人生の先輩としてな」
確かに自分は子供の頃、同じの様な事で悩んでいた事を覚えている。どの様に改善していたかは覚えていないが、その時の気持ちが理解出来るという事は色々と伝える事もある様に思えた。
「ああ、そうだな沢彦、恩にきる」
そう言って深く頭を下げる信秀に沢彦は困惑した。今や信秀は尾張の国を束ねる立場の人物であるにも関わらず、他人には過度の礼儀を以て応対する。その様な信秀のために協力する者は多い。しかし沢彦は互い気兼ねや遠慮の無い、昔からの近い距離の信頼感で話が出来る関係を望んでいた。
「ははは、よせよせ、改まるな」
そう言って沢彦は信秀に頭を起こさせた。そして信秀がまた笑顔を見せると立ち上がり部屋を出ようとした。
「じゃ、またな、儂はこれからまた都に向かわねばならぬでな」
沢彦が部屋を出る時、信秀はその後ろから呼び止めた。
「沢彦!」
それは先程の吉法師との去り際に似た呼び止め方だった。
この親子は、と沢彦はまた笑いそうになるのを押さえながら振り向いた。
「沢彦、引き続き吉法師の面倒を見てくれ?」
信秀は吉法師に織田家の嫡男としての本格的な教育を施したいと考えていた。そのための人材としては、博学で、自分との付き合いが長く、自分自身もこれまで色々と相談をしていた沢彦が最も適任であると思った。
「ははは、言われなくてもそのつもりだ。吉法師はお主の息子で、あの歳にしてしっかりとした将来の領主としての意思を持っておる。これから如何に成長していくのか、儂も興味があり出来る限りのその将来を見届けたい」
「うむ、頼む」
そう言う信秀はまた改まって、その頭を少し下げ気味の状態にしている。
「また、改まるな」
即座に制止する沢彦に信秀は笑顔を見せた。
「ははは、じゃぁな!」
「おう、またな!」
最後の一言には互いに気兼ねや遠慮は無い、それは友人としての応対だった。声を上げて笑いながら去って行く沢彦を信秀は暫し笑顔で見送っていた。