第二章 敦盛(3)
織田本隊の先頭では織田造酒丞信房が炎を身に纏った様な絵柄の甲冑と額に二本の角が付いた派手な兜を身に着け行軍していた。それはまるで赤い鬼が本隊の大軍団をを率いている様であった。
造酒丞は大鎌槍の使い手で、湊町で用心棒として雇われていた所を信秀に見い出され、高い禄を以て織田一門衆に招かれていた。今回の小豆坂の戦いでは織田一門衆の先陣を切って敵に突入し、戦傷を負いながらも敵軍を追い散らして、見事に戦功七本槍の選出を得ていた。
造酒丞は民衆出の自分が織田本隊の先頭で戦勝の旗頭になっている事に大きな誇りと満足感を抱いていた。そしてその様な造酒丞を軍勢の先頭に据える事は織田家にとっても大きな意味があり、有能な人材は厚遇して召し抱えると言う、民衆に向けた人材確保の良き宣伝となっていた。それは造酒丞も良く承知していて、派手な見た目の演出はその宣伝効果を高める狙いがあった。沿道の民衆はその民衆出の英雄に大きな声援を上げ、造酒丞は大薙刀を振り回す派手な振る舞いで応えていた。
するとその時、造酒丞の近くにいた家臣の一人が前方から接近する騎馬に気が付き、造酒丞に声を掛けた。
「造酒丞様、前方から接近する騎馬ですが、もしや吉法師様では?」
「何?」
造酒丞が前方を見ると、子供を乗せた二騎の馬がすぐそこまで迫って来ているのが目に入った。造酒丞にとって吉法師は年は離れているが、武家の常識や仕来たりに囚われず、自由な行動で共感する仲間であった。一族の会合の中でも共にする事が多く、造酒丞は以前会った時に、おいしい水と称して酒を飲ませ、吹き出していた吉法師を思い浮かべていた。今その時の顔の子供が、前方から巧みに馬を駆けて迫って来ている。
「おぉ、確かに吉っちゃんの様だ」
造酒丞は吉法師の事を愛称を込めて”吉っちゃん”と呼んでいた。親近感と共に近付いてくる吉法師に大きく手を上げて呼び込んだ。
「吉っちゃーん、出迎えかー!」
しかし吉法師は顔を強張らせたまま、無言で造酒丞の横を通り過ぎて行く。
「あれ、吉っちゃん? 何じゃ素通りかー!」
吉法師は平静を装っていたが、来る途中で煩った戦の無情さや死の恐怖、そして将来の重責に今にも潰れそうな思いでいた。先頭の赤鬼の武者が親しい造酒丞と分かったかどうかは去る事ながら、とても談笑できる状態では無かった。
「吉法師様お通り、御免!」
続く勝三郎は、その吉法師の状況を補うかの様に、簡潔な断りを入れながら通り過ぎて行った。
吉法師は織田本隊の中を父信秀の姿を求めて馬を走らせていた。吉法師は当主信秀の嫡男として織田軍の中でも知られている存在であった。軍勢の家臣や親類衆は、突然の吉法師の参上に対して一様に沸き立った。
「吉法師様じゃ!」
「我らを迎えに参られたのですか?」
「吉法師殿!」
しかし吉法師はその様な声に全く反応せず、ただひたすら軍勢の中に父信秀の姿を求め、馬を走らせていた。吉法師の頭には戦の無情さと共に戦傷を負った足軽達の姿や家族の悲しむ姿が浮かび、また自身の死に対する恐怖が絡み付いている。
(いやだ、こわい、父上……)
恐怖を振り払おうとして何度か頭を振っていたその時だった。吉法師はようやく軍列の中で一際大きな馬に跨る父信秀の姿を見つけた。そして一気に近くまで駆け寄ると、面前で馬を急停止させた。
ヒヒーン!
大きな馬の嘶きが軍勢の中に響き、吉法師の馬が前脚を跳ね上げて止まる。
父信秀とそのすぐ後ろで行軍していた叔父の信康、信光、信次は、突如大きな馬の嘶きと共に参上した吉法師に目を丸くして驚いた。軍勢が急停止し直ぐ後ろを行軍していた荷車が荷崩れを起こし、慌てて何人かの家臣達が集まって来ている。叔父の信康はその荷車の状況を気にしながら、吉法師に声を掛けた。
「吉法師か、久し振りじゃな、大きゅうなったな」
しかしその問い掛けに対し、吉法師は軍列の後方を向いたまま押し黙っている。首を捻りながら兄信秀の方を伺う信康に対して、今度は父信秀が声を掛けた。
「吉法師如何した、那古野の城はどうした?」
しかしその父信秀の言葉に対しても、吉法師は列の後方に目を向けて無言を貫いている。
信秀は信康と顔を合わせ疑問の表情を浮かべた。後ろにいる信光と信次もどうしたのかと不思議そうな顔をして吉法師を見ている。信光はその時少し遅れて到着した勝三郎に吉法師の様子を問い掛けたが、勝三郎は首を数回横に振り、その理由が良く分からない事を伝えている。
この時三河小豆坂での戦いは既に終わっているとは言え、四散している敵の武者に対し未だ警戒が必要な状況であった。その様な時に信秀は那古野、引いては尾張の留守を守る立場であるべき嫡男の吉法師が城を空けて出てきた事を問題に思った。理由によっては勝手に持ち場を離れたとも思われてしまう状況であった。
その後、吉法師はようやく体の硬直が解けたのか、無言のまま軍列後方に馬を歩ませた。そして叔父たちの横を通り過ぎると、荷車の積直しを終えた荷車の前で立ち止まった。
那古野弥五郎、荷車に載る藁の上には名を記した張り紙が置かれていた。吉法師は荷車からずれ落ちる瞬間を見ていた。それは戦死した武将の骸で、その時に首と胴体が完全に切り離されていたその姿はあまりに衝撃的であった。
吉法師は無言のまま、じっと張り紙の名前を見下ろしていた。那古野弥五郎は清州の剛の者として有名で、何度かその構えを拝見した覚えがある。こんなすごい人でも戦で討ち死にしてしまう、吉法師は弥五郎の骸を前に頭の中で戦の惨劇を浮かべていた。槍や刀が体に刺さる恐怖、首を斬り落とされる恐怖、自分の意識が何処に行くのか分からぬ死の恐怖、どれもが恐ろしく、その身を震わせた。
その時信秀は吉法師は何をしに来たのであろうかと、その参上の目的を考えていた。そして弥五郎の骸の前で立ち竦む吉法師を見ていた時、自分が初めて戦を体験し絶句した時の事を思い出した。
自分が初陣の時この様な感じだったかも知れない、そう思い出した時、信秀は吉法師参上の理由が分かった様な気がした。この場に吉法師を送ったのはきっと家老の平手政秀であろう。そして政秀は吉法師に尾張全軍が結束して集まり犠牲を出しながらも戦に勝利した様子を見せる事で、将来の嫡男としての自覚と覚悟を深めさせようとしているのだと思う。
政秀の考えを読んだ信秀は吉法師に対して嫡男としての心得をどの様に伝えるのが良いかを考えた。この勝ち戦で今尾張の民衆から英雄視されているが、実際には犠牲者も大く、吉法師にはその負の部分の方が先行して伝わっている様に思う。
吉法師は馬上から弥五郎の骸を見つめたまま、青ざめた表情で小刻みに震えている。その様子を見た信秀は居たたまれなくなり、馬を飛び下りると馬上の吉法師の頭に手を当てた。
「吉法師、弥五郎は立派な最後であったぞ」
そう言って信秀は吉法師から手綱を取って近くの家臣に手渡すと、吉法師を抱き上げそのまま自分の馬に乗せた。そして自らも吉法師の後ろに乗ると、全軍に発進の合図を送りその馬を歩ませた。後を叔父の信康と勝三郎が続き、その後ろを信光と信次が続き、そしてまた後続の部隊の行軍が延々と続く。
信秀が騎乗する馬は他の武将の馬に比べ一回り大きい。吉法師はそこから父信秀と同じ景色を見ていた。前後の長い軍勢が見渡す限り延々と連なっているのが見える。その大将の光景の中で吉法師は感じていた。
壮大な眺めを見ることができるこの馬に乗る者はそれだけ責任も重い、父信秀は何も語らないが、この大将の馬上にいるだけでその重責の実感がひしひしと伝わって来る。それは自身が将来担うべき責務である。
自分は将来父上の様に出来るのだろうか、そう考えると将来というものはが不安に思う。どうすれば良いのか、これだけ父に近い距離にいながらうまく言葉が出ない。
(何しにここに来たのか、父の話を聞かないと……)
そう思っても、戦を行う意味や人の死、そして将来の重責への心構えなど、様々な疑問が交錯してどの様に話を切り出したら良いのか分からない。
ふと軍列の左方を見ると、少し離れた草原で自分と同じ様な年頃の子供達が楽しそうに遊んでいるのが見える。吉法師は普通の家に生れていればこの様な悩みは無かったであろうと思いながら、羨ましそうな表情を見せた。
その吉法師の視線の先を見ていた信秀はその時の吉法師の気持ちを察していた。信秀自身も子供の頃は鍛錬と学習の毎日で、幾度と無く武家の嫡男という責任の重さから抜け出したいと思う事があった。信秀はその時の自分を今の吉法師を重ね合わせ、その時の自分に聞かせるかの様に吉法師に話し掛けた。
「吉法師……」
信秀はその名を呼ぶと、吉法師の頭の上から顔を覗き込んで笑みを見せた。吉法師の目前に父の逆さ顔が広がる。
「儂の嫡男と云うのは大変よのー、あれこれと考える事があってのー」
そう言うと信秀は声を上げて笑い、少し乱雑に吉法師の頭を撫でた。その父の言葉を耳にした時、吉法師は父と思いが共感できている思った。
自分の将来への不安について相談ができるのは、やはり同じ様な子供の頃の時分を過ごしたであろう父上しかいない。日頃居城が異なり希薄な関係ではあったが、今この瞬間は同じ馬に跨り父の温もりが感じられる。日頃離れていても自分は父上と共に歩んでいる、そう思った時、吉法師の心内で何か安心感が広がっていた。そして心が落着いてくると自然に口を開ける様になっていた。
「那古野の城は、爺に留守居を任せた」
そう言って吉法師は先の信秀の問い掛けに答えた。その言葉を聞いた信秀は何か親心を打たれた思いがした。吉法師は幼い頃から城主として城を任せられ、この歳にして既に自分の命をかけた生涯の戦いが始まっている。子供らしい遊びがしたい時もあろう。それは自分も幼少時にそうであったから良く分かるが、これはお互いの定めというものである。信秀は先程の嫡男と云うのは、との言葉にその様な思いを込めていた。そして吉法師が悩みながらも自分の今の責務で返答をした事に信秀はどうやら嫡男としての定めが通じたと思った。
馬上の親子は短い会話の中で、互いに嫡男としての思いが通じている事を確信していた。信秀は視線を前方に戻した。
「そうか、では那古野の城は安心であるな」
吉法師は続けて参上の理由や、父上に色々と訊ねたい事を考えていた。馬上で二人きりの今なら何でもゆっくり訊ける。戦を行う意味、人の死について、父上の幼少の頃は何を考えどの様な心構えをしていたか、どれもこれもが早く聞きたく、何から聞こうかと思っていた。しかしその時、突如沿道の民衆から一極大きな歓声が上がった。
「弾正忠様、勝ち戦おめでとうございます!」
「弾正忠様はすごいお方じゃ!」
「織田家ばんざーい! 尾張ばんざーい!」
古渡の城の周辺にはその姿を一目見ようとたくさん民衆が集まっていた。民衆は信秀が嫡男吉法師を擁しているのを見て更に声を上げる。
「御嫡男の吉法師様と一緒の登場じゃ」
「本当じゃ、何とも希少なお姿じゃ」
「吉法師様も凛々しいのぉ」
「ああ、尾張の国はこの織田弾正忠家があれば安泰じゃ」
「そーじゃな、我等も誇らしいものじゃ」
「あー、何か儂、涙出てきた」
戦勝の自軍を迎えていた民衆は合戦で活躍が伝えられた武将が通る度に興奮して大きな歓声を上げていた。そして大将の信秀が通る時には、その興奮の度は最高潮に達していたが、その嫡男の吉法師を擁した予想外の登場に親近感が加わり、感極まった称賛の声援を送っていた。
「吉法師!」
「はい!」
信秀の呼びかけに吉法師も即座に応答できる様になっていた。
「いつまでもこの様に民と共に喜びを分かち合えると良いのー」
「はい!」
何か父と共に民衆から称される事がうれしく感じる。この民衆の織田弾正忠家に向けられた称賛と期待の声は誰もが得られるものでは無い。自分は民の称賛の声を将来父から引き継ぎ、得続けなければならないと思う。
この時吉法師はそれを人から教わるのでは無く、初めて自身の体感として考えることができた。それは将来の立場の自覚につながり、政秀が意図する狙いであった。
吉法師は更に嫡男としての心構えを固めておくべく、ここで父に色々と訊いておきたいと思った。しかしそれに対しての沿道の民衆の声援は邪魔になっている。何とか話の機会を伺っていたが、目の前にはもう古渡の城が迫っていた。
もうここまで来たのか、と焦りながら吉法師は父に話し掛けた。
「父上、実は今日、軍勢に参上したのは……」
そう話し始めた瞬間、何人もの使者が信秀の帰りを待ちわびたかの様にして集まって来た。
「ご報告します、清須のより明日の報告の確認を求められております」
「ご報告します、熱田の宮より戦勝の祝辞が届いております」
「前線より速報、三河松平の軍勢はそれぞれの拠点に撤収している模様です」
「弾正忠様、沿道の村より戦勝の祝いの品が届いております」
「戦場周辺の村より年貢の免除の依頼が届いております」
古渡の城が近付くにつれ、更に続々と使者からの報告や用状が入り、もはや馬上の親子はゆっくり話どころでは無くなっていた。
「各方面に戦後の指示を致すので、城内にて待機しておけ」
信秀は城に到着の直前使者たちにそう伝えた後、一言吉法師に呟いた。
「吉法師、我らが定めぞ!」
その父の言葉に吉法師は小さく頷いた。
やがて到着した古渡の城門の前は民衆や城の使用人たちで溢れていた。織田本体の軍勢は大きな歓声の中、城内へと進んで行った。