第五章 女房鉄砲仏法 力への意志(21)
吉法師は孫一の後に付いて本堂の廊下を奥の間へと向かっていた。
大広間を中心に其処此処で行われている宴会の人も本堂の奥に向かって疎らとなり、暫く歩く内に遂には全く人気のない状態となっていた。
(おや?)
途中吉法師は廊下の壁に大きな穴が開いているのを見つけた。
(伊賀の衆が押し入った跡か?)
その壁の穴は明らかに外から内側に向けて突き破られており、何者かが強引に侵入した跡の様に見える。もしかしたらこの廊下の奥に何者かが身を潜めていて、こちらの隙を窺っているかも知れない。吉法師はその穴が気になり前を歩く孫一の方に目を向けたが、孫一は特に気にする様子はなく、何か苦笑を浮かべながらその場を通過していく。
(この穴は特に問題無いのか?)
吉法師は孫一の対応に不安を覚えた。しかし、その孫一の手を見るといつの間にか一本の刀が握られている。
(孫一め、いつの間にかしっかりと備えておる…)
態度には見せないながらもしっかりと周囲を警戒して進む孫一に、吉法師は安心感を抱きながら、その後を着いて行った。
やがて孫一は本堂の最も奥にある部屋の前に立ち止まると、閉ざされた戸に聞き耳を立てて、中の様子を窺った。吉法師もそれを見て同様に戸越しに聞き耳を立てると、部屋の中から人の話し声が聞こえて来た。
「致し方なかろう、この乱れた今の世を生きるためじゃ、儂らの里は貧しい、昨今は戦乱と飢饉で、田畑の僅かな収穫だけでは生きてゆけぬ、今の状況では里は滅びる、儂はそれを望まぬ」
「半蔵、ぬしはたわけじゃ」
「何だと!?」
中では善空と伊賀の衆の頭の服部半蔵が舌戦を繰り広げていた。
(大丈夫なのか?)
もし半蔵が論戦では勝てぬとみて武力に及べば、善空の身は危ういのではないか、吉法師は善空のことが心配になって孫一の方を振り向いた。すると孫一は口先に一本指を当て、自分たちは身を伏せ善空にこの場を任せようと言っている。吉法師は心配に思いながらも頷き、静かに話の成り行きを窺うことにした。
善空にたわけと一喝された半蔵は善空を鋭く睨んで威圧していた。しかしその半蔵に臆することなく善空は問い掛けた。
「ぬしが里の者たちを救いたいと思うのは良く分かる。だが、なぜそのためにあの吉を狙う。吉はぬしの里の貧しさとは関係無かろう?」
その善空の問い掛けに半蔵は威圧を続けながら答えた。
「この尾張であ奴の身分は高い、あ奴を敵対する周辺国に売り飛ばすことで里の多くの者が救われるのだ」
「半蔵、ぬしは尾張の弾正忠家に恨みがある訳でもあるまい、なぜぬしはその様なことができる、あの様な年端もいかぬ子供を不憫だと思わぬのか?」
この善空の問い掛けに半蔵は返答の声を詰まらせた。そして一度天井を仰いで自身の使命を確認すると、改めて強い口調で言い放った。
「特に恨みがある訳でも無ければ自らの私利私欲のためでもない、あくまでこの世を生きる里の者たちのためだ」
半蔵は里の皆が生きていくために必要として、吉法師の誘拐という自らの行為を、卑劣と思いながらも正当化しようとしていた。そんな半蔵に善空は更に問い掛けた。
「ぬしは里の者たちのためであれば、他国の子供は犠牲になっても良いと申すか?」
それは微かに半蔵が垣間見せた良心を問う問い掛けであった。しかし半蔵の内情においては良心よりも里を担う使命の方が優先される。半蔵は自身の考えに自信を持って答えた。
「今のこの世の乱れは武家の者たちの中で引き起こされたものじゃ、その武家の嫡男ともなれば常日頃より自身の命運について覚悟を持っておるのは当然じゃろう」
それは戦国の世の特有の考え方であった。
自国の利益のために他国に不利益を与える、自己の利に対してはやった者勝ち、成功したもの勝ちで、むしろ解決に到る筈のない秩序を前提に考える方が意味が無い。それは応仁の乱より七五年、生まれながらに戦国の世に生きる者が大半を占める中で普通の考えになりつつあった。
このため狙われやすい武家の子はその存在を秘し隠されるのが普通であった。しかし吉法師の場合は物心付く前から那古野城主としてその存在が知れ渡り、小童となっては自らの意思で熱田湊の市に出入りする様になって、うつけとの噂を生じさせている。それは戦国の世でかなり異例なことであった。
半蔵にとって吉法師の武家の嫡男としての覚悟など知る由もなく、他国の御家事情など興味の示す所では無い。単に危機意識の薄く見える吉法師は絶好の的であり、他国への売り込みは自分たちの将来を良きものするために有効で、直前で最も力を入れるべきこととの考えであった。
自身の考えに自信を示す半蔵を前に、善空は一度静かに息を吸い込んで気を溜め込むと、片膝と右手の拳を突き出して一気にその気を開放した。
「喝!」
それは経を唱える時の最大声量による一喝であった。驚きの表情を見せる半蔵に対し、善空は姿勢を整えた後、静かに諭した。
「半蔵、ぬしは自身の苦難を他人の苦難にすり替えることで解決を図っておる。ぬしはこの世の乱れは武家の者たちにより引き起こされたと申すが、ぬしのその様な考えがこの戦乱の世を引き起こしておるのじゃ、そうは思わぬか?」
半蔵はこの善空の指摘に押し黙った。その問い掛けは是非共に受け答え難いものだった。半蔵は改めて自身にその使命を照らし合わせて問うた。
金銭を目的とした誘拐、出来ることなら自分もその様な卑怯なことをやりたくはない。しかし里の窮状は切迫しており、他に即効性のある良き代替えの案は浮かばない。しかしこの問い掛けの中で、この後自身の考えを正当化出来る自信も無い。半蔵は良き受け答えが導き出せず、言い訳の様になりながら答えた。
「確かに儂らの行為も世を乱す原因やも知れぬ、しかし例えそうだとしても、儂は里の者を守っていかねばならぬ」
それはもはや使命に対する悲痛の叫びであった。
「半蔵、ぬしがその様な考えで生きて、伊賀の里の子がまた同じ様な考えを継承して、その様な世代の連鎖を続けて、いつの日か良き世が訪れると思うか?」
それは世に対する半蔵の思いへの問い掛けであった。
半蔵は里の子供たちの里の中で育っていく姿を想像した。争いの中で育っていく子供たちは大人になり、平気で略奪を繰り返し、更にその子らにも自然な姿として継承されていく。半蔵は困惑の様相を浮かべた。
「いや、思わぬ、里の子には良き生き方歩んで欲しい、だが儂には他に良き手立てが思い付かぬ、儂は如何にすれば良いのか?」
回答に困った半蔵は逆に善空に訊き返した。
子供の吉法師を力づくで誘拐しようとした半蔵も真は善人である。その問題の全ては戦国の世が作り出した風潮であり、戦国の世を終わらせるためにはそれを断ち切って行かねばならない。善空は一度何かの情景を思い浮かべるかの様にして部屋の周囲を見渡した後、改めて半蔵に語り掛けた。
「半蔵、人は根本的に幸福にありたいと願い、出来る限りの高みを目指そうと努力する。それは力への意思であり、人の根本的な行動の原動力となっておる。それが物欲や支配欲となって世を乱しておるのじゃ、人の欲望が原因となればこの世は簡単には治まらぬ、しかしぬしが浚うとした吉は…、」
善空はその話の途中で一度部屋の入口方に目を向けた。そして再度半蔵に目を向けると、改めて話を続けた。
「ぬしが浚おうとした吉はぬしと同じで、この戦乱の中、如何にして皆が幸せに暮らしていけるかを考えておる。じゃが、ぬしと違ってその対象はこの戦乱の天下の世そのものじゃ、この世を何とか変えていこうと覚悟を固めておる」
半蔵はその善空の言葉に衝撃を受けた。
(あの子供の吉法師が…、そんなことを考えておるのか…)
善空は半蔵に話を続けた。
「難しきことと思うても逃げず、問題を他にすり替えず、覚悟を以て正面から立ち向かう気でおる、あの年にしてじゃ、我らはあ奴の舞を見てその将来への覚悟の思いを受け取った。そしてこの場のあ奴を助けると決めたのじゃ」
半蔵は善空の話を聞き、吉法師に対して大きな考え違いをしていたと思った。
吉法師に対してはこれまで世間のうつけという噂から、単に好き勝手なことをやっている問題の嫡男という印象を持っていた。しかし実際は将来戦乱の世を鎮めるために、日々知恵を絞り努力しているという。恐らく色々と試行錯誤を行っているその状況が世間でうつけと映っているのであろう。それに対して自分は他人を、他国を不幸にすることで自分たちの幸せを得ようとしている。
「うつけは自分の方であった…、儂はあ奴の将来への努力を啄もうとしていた…」
自分が自身の里の将来を考えることで必死になっている時、子供の吉法師はこの戦乱の世、そのものを改善しようとしている。半蔵は吉法師の将来への覚悟を認めつつ自分の思慮の狭さを悔いた。
「善空殿、儂が間違っておった」
そう言って頭を下げる半蔵に善空は笑顔を見せた。
「半蔵、伊賀の里の子は山の自然に囲まれて育ち根は皆良い子じゃ、人の育と縁を大事にするが良い、里の物を活かしながら今日より明日を良き日にすることを考えるのじゃ、伊賀への道は険しいが、ぬしらの祖先は必死にその里を切り開いてきたのじゃ、そういう里の思いを継承して行かねばならぬぞ」
伊賀の里を険しい道を切り開きながら開拓していった祖先の思い、そしてこれからの里の将来を担う子供たち、里の皆の思いを自分は戦乱の世だからといって汚す訳にはいかない。戦乱で乱れるのは何処も同じ、その中で尾張の将来を担う吉法師は子供ながら天下そのものを正そうと覚悟を固めているという。自分も戦乱の世に甘んじた考えを続けていてはならない。
(自らの力で里を強く豊かにしていく)
祖先の思い、自力での里の発展、未来の子供たちへの継承、半蔵はその決意と共に涙を浮かべた。その涙は戦乱の世で穿った半蔵の心を浄化するものであった。善空はその半蔵の真の思いを察して深く頷いた。
戸口では吉法師と孫一が戸越しに善空と半蔵の話のやりとりを窺っていた。
(話は終わった様じゃな)
(うむ、さすがは善空、すごい説得力じゃ)
孫一は半蔵との武の勝負に決着が付けられず、善空の舌戦による勝負に送り込んだことを狙い通りと思っていた。
「もう入っても良いぞ、いるのであろう」
気付かれない様にしていた吉法師と孫一であったが、二人は善空に声を掛けられると戸を開けて部屋の中に入った。
「気付いておったか!」
吉法師と孫一が戸を開けて部屋に入ると、そこは広さ四畳分の狭き部屋で、正面の観音様には明かりが集中して灯されていた。観音様は目が見開いた状態でこちらを見下ろしており、生を正す雰囲気が立ち込めていた。
孫一はすっかり改心している様子の半蔵を見ると、手に持っていた刀を半蔵の前に差し出した。
「ほい、ぬしの直江志津、返すぞ!」
それは半蔵との勝負の時に、半蔵が投げ付けて来た愛用の名刀であった。半蔵は驚きと同時にまた申し訳ない気持ちになった。
「すまぬ…」
半蔵は鞘にその刀を収めながら不思議に思った。
部屋にいる皆が他に武器を所持していない状況の中で、この刀を返却すれば再度自分たちに向ける刃になるかも知れないとは考えないのであろうか、半しかし三人の自分に向けられた笑顔は直ぐにその疑問に対する答えを与えていた。
(自分は許されただけでなく、もう既に今後の信用を受けている…)
半蔵は懐深き三人に恐縮すると吉法師に向かって座ったまま頭を下げた。
「吉法師殿、此度は申し訳なかった」
半蔵は吉法師の存在を確認すると反省を込めて頭を下げた。
「半蔵殿、良いのじゃ、儂も此度は色々と勉強になった、将来に向けて必要な時間であったと思うておる」
それは吉法師の内面に宿る大きな力が見えていたのかも知れない。この時半蔵は子供の吉法師の体が何故か大きく見える様な気がした。
「さぁさぁ、話はここまでじゃ、広間に出向いて我らも一杯やるとしよう」
ここで孫一は半蔵と皆に仲直りの意味を含めて、自分たちも宴に向かうことを提案した。
「よし儂も行こう、何やら良き酒が届いておると聞いておる」
「ははは、半蔵殿、里への良き土産話になると思うぞ」
即座に善空と吉法師が同調して半蔵を誘った。
「いや、さすがに酒宴という気分にはなれぬ」
半蔵はここで即座に酒宴にまで向かうことに抵抗感を表した。
「半蔵、他のぬしの里の衆はもう既にいい感じになっておったぞ」
「そうだな、酒も舞も一級だからな、致し方なかろう」
孫一は半蔵に他の伊賀衆が完全に酒の宴で出来上がっていることを暗に伝えた。
「酒と舞か、どうも皆の姿が見えぬと思うておったが…」
半蔵は伊賀の衆の本堂突入の目的がひっくり返っていたことにまた驚きの表情を見せた。そしてその半蔵の表情を見て三人はまた笑顔を見せた。
ははははは
一堂は笑いながら共に大広間へと向かって行った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本堂の台所では食材の搬入から調理、配膳までの一連の作業が円滑な指示のもと、手際よく行われていた。
「その吸物と漬物は大広間から外陣で行われている宴に運んでちょうだい、そっちの炊き上がった飯は食べ安い大きさでにぎりにして、それから窯には次の芋煮用の鍋を当てて」
台所で取り仕切っていたのは水野家の春であった。春は興業の世話で知り合いとなっていたお民から吉法師の情報を伝えられると、四人の侍女たちと共に即座に寺に入った後、お民が掛け持ちしていた奥の台所仕事を引き継いでいた。
「佐介、各所の酒宴の状況はどう?」
そしてこの時、春に付いていた佐介は伊賀者としての俊敏な技と状況を把握する能力を存分に活かし、本堂全体に酒宴の気を行き渡らせていた。
「姐御、酒宴は大盛り上がり今や大盛況です」
佐助は春に上役の様な敬意を以て答えた。
本堂に足を踏み入れた者はそれまでの苦難を全て忘れ極楽の世界を体感する。佐介は春の指示のもと、憧れのお民の舞と共にそんな世界を作り上げることに、充実した仕事の達成感を感じていた。しかし一方で、瞬時に的確な指示を出せる春に対しては、以前に何処かで見覚えのある印象を抱いていた。
(確かこの方は…、ええと、思い出せぬ…)
この指示の出し方は武家の奥方に思える。しかし何年か前に何処かでその舞う姿を見た様な気がする。しかしそれが思い出せない。佐助はもどかしい思いを抱きながら春に付いていた。
「ご苦労さま~」
するとそこに一つの演目を終えたお民が現れた。
思わずその距離の近さにドキッとした佐助はお民に目を合わせられながら問い掛けられた。
「まだ酒樽は十分にあるのかしら?」
大広間で舞娘たちががお酌に回る中で酒の消費が増えていた。佐介は一度酒樽の方を見ると、困惑した様子を見せて答えた。
「いえ、消費の勢いが強まっていて、もう長くは持ちませぬかと」
「ふふふ、少し彼女たちに自重させておけば良かったかしらね」
春が言う彼女たちというのは、水野家の侍女の四人のことであった。春は本堂に突入してきた彼女たちに本堂での戦闘は無いことを伝えると、そのまま尾張で将来有望な黄金世代との関係構築を狙い、酒を持たせて酒宴へと向かわせていた。
しかし彼女たちは皆酒をよく飲む。黄金世代の男たちとの酒宴が始まってからは、全体の酒の消費が一気に勢いづいていた。台所の春は次から次へと瞬時に酒樽を持ち去る侍女たちに、自重することを伝えられずにいた。
(もう少し、あと一刻ほどは酒をもたせたいわね)
恐らくまだ飲み足りないという御仁はたくさんいるであろう。身内の侍女の酒量で誤算が生じるとは、そう思った時だった。
「春姐さ~ん、お酒持って来たわよ」
そう言って従者に酒樽を持たせた女が訪ねて来た。女は春と同じ武家の奥方の様なしっかりとした面持ちをしている。
「あ~咲さん、お久し振り、全然変わらないわね」
その女に最初に応えたのはお民であった。お民は尾張での興業の際には、緒川での春と同様に、咲の世話になっており、公私で親交が続いていた。
「咲、ちょうど良かったわ、お酒尽きかけていたところで助かるわ」
春と咲は桜井松平家の娘で実の姉妹であった。分家の桜井松平家は岡崎の宗家に反目していて、咲を織田信秀の実弟の信光の室に輿入れさせ、織田方の後援を得る様になっていた。二人の姉妹は年が近い上に仲も良く、日頃から頻繁に連絡を取り合っては、観光や観覧、市での買い物を楽しんでいた。しかし時代は戦国の世であり、三河では尾張織田方と駿河今川方への権力が綱引きが行われている。二人はその表向きの活動の裏で、松平宗家の清康が暗殺された守山崩れや、水野家の織田方への離反の準備に暗躍していた。
「この寺は変わらないわね」
「そうね、ここでは何か気を張らなくて済む、落ち着くのよね」
二人にとって寺は権力争いが横行する戦国の世から離れることができる心安らぐ場であり、穏やかな表情でいられる場となっていた。
仲の良い姉妹の顔を見せる春と咲、それを見ていた佐助は過去に二人の姉妹が並び舞う人気の舞女がいたことを思い出した。
「あー!、美春と美咲だっ!」
戦国の世に翻弄される姫が世の儚さから立ち上がり最後に幸せを掴む姿を描く舞、二人は若い時、その身分を隠しながら、熱田や笠寺の湊市に出向いては美春と美咲という名で息を合わせた舞を披露していた。
二人は一時尾張の国中に知れ渡るほどの絶大な人気を誇っていたが、ある日を境に忽然と姿を現さなくなり、いつしか伝説となっていた。
佐介は二人の正体が水野家と織田家の奥方と知り、目を丸くして驚いた。その佐助の表情を見て、春と咲は笑みを浮かべながら昔の自分に思いを寄せた。
「ふふふ、懐かしいわ、そう呼ばれるのも」
「若かったわね、あの時は」
そう言って笑顔を見せる春と咲にお民は笑顔で言った。
「そうだ、姐さんたち、今日ここで記念に当時の演目をご披露して頂けませんか、私も見させてもらった事ないのよ、伝説と噂されるお二人の舞、是非見てみたいわ」
そのお民の提案に咲は笑顔を見せながら応えた。
「えぇ、いいの、私は大丈夫よ、またいつか春姐さんと舞ってみたいなと思っていて、時々こっそりと守山の城で練習していたのよ、でももう体に染みついているのよね、忘れないわ」
「いえ、私はちょっと、もう自信ないわ」
咲が復活の舞の披露に前向きな一方で、春は困惑していた。
「え、なぜ、姐さんもこの間まで小紅に一生懸命教えていたじゃない、演目を忘れた訳ではないでしょ、余興なんだからいいじゃない」
咲は小紅という娘子の名を挙げて春に久々の舞の共演を促した。その演目は春にとってもお気に入りで忘れることはない。しかしそれは小紅に教えていた思い出の舞でもあった。
(小紅…)
春は自分に舞の教授を願う幼子だった小紅のことを思い起こした。
小紅は以前この寺にいた元気な孤児の幼子であった。自分には自分を育ててくれる親がいない、いつまでもこの寺の世話になっている訳にはいかない。小紅は物心が付くと自分は早々に自立しなければならないことを悟り、寺を訪れていた春と咲の二人に舞の教授を願い出ていた。二人は彼女の境遇と自立への思いに心打たれ、寺を訪れては出来る限り時間を作り、舞の手解きをしてあげていた。その後、小紅は何回か興業の演目で共演できるまで舞を上達させていたが、修行と称して一人で尾張の湊市を回る内に消息不明となっていた。
自分が手解きしていた幼子が消息を絶ち、今は生きているのかどうかも分からない、それは春にとって、戦国の世で受ける心の痛みの一つになっていた。
「やはり私には無理だわ、ここの台所も私がいないと指示が進まないし」
春が再度困惑して拒否をすると、皆はこれ以上無理に勧めることもできず沈黙した。
その時であった。
「春、大高からいっぱい食材持って来たぞ」
「母上、お魚も持って来たけど、ええと、良かったのかしら」
それは水野家から寺への本格的な補給の到着であった。
春の夫で水野家当主の信元を始め、娘の照、大高の叔父忠氏、刈谷の義弟信近、常滑の娘婿森隆がそれぞれ高機動性を備えた荷駄隊を率いて食材を持ち込んでいた。
「おいそっちの角に積んでいくぞ」
「調理に回す分は仕分けておいてな」
そう言って男衆は運んできた食材を台所の角に積み始めた。
「こ、こんなにたくさん…」
「驚かなくて良くてよ、元はほとんど織田家からの手土産だから」
食材の量に驚くお民に春はさらりと元手が掛かっていない事を伝えた。
「ああ、本当だわ確かにうちの家で用意したものもあるわ」
咲が指差した荷駄には守山の織田家の家紋が付けられていた。その咲に照は一人の娘子を連れたまま近付いて声を掛けた。
「叔母様お久し振りです、叔母様もこの寺に来られていたのですね」
「あら、照ちゃん久し振り、可愛い娘さん連れているのね」
そう言うと、咲は娘の目線に腰を蹲めて話し掛けた。
「お母さんにそっくりねえ、お名前は?」
「玉ゆいます」
娘は少し困った表情を見せながらも元気よく答えた。照は笑顔を見せた。
「叔母様、私にこんなに大きな娘はおりませぬわ、こちら滝川様の娘さんなの」
そう言って、照は滝川一益の弟益氏と天心、そして玉を紹介した。益氏と天心はお民と咲の前に出ると自前で用意した土産を目の前に差し出した。
「儂ら吉法師さまに面倒をみていただいた者で、儂は滝川益氏と申す、これは土産です」
「どうも初めまして、私は天心と申します、これはお土産です、大丈夫まだ食べられます」
そう言って二人は来る途中で捕えたウリ坊と半分傷んだ大根を差し出した。
それはとても土産として人に手渡す品では無かった。一瞬何か悪い冗談かと思ってたじろいだ咲とお民であったが、二人の真剣な表情に熱意を感じ、引きつらせながらも笑顔を見せた。
「あ、ありがとう」
「こ、このウリ坊、可愛いわね」
二人の言葉に気を良くした益氏は持っていたウリ坊をお民に手渡しながら言った。
「ウリ大根、うまいですよ!」
あくまでもウリ坊は愛玩のためと思っていたお民はその言葉に驚いた。
(食べるのかーい!)
その一方で妙な殺気を感じたのかウリ坊も急に暴れ出して益氏の手を離れた。
(食べられるのかーい!)
そう言わんばかりにウリ坊は台所中を暴れ回ると、戸口の隙間から外へと逃げて行った。
「い、いかん、待てー、ウリ大根のウリ!」
「叔父上、待ってー」
必死に捕まえた好印象を得るための土産物、益氏と天心はウリ坊を追って外へと駆け出して行った。
「ちょっと食べるには可哀そうよね」
「そうね、あの可愛さ、調理は無理ね」
「ウリ坊の無事を祈るわ」
さすがにあのウリ坊をウリ大根に調理するのはしのびない。春、咲、お民の三人はウリ坊が上手く逃げ出したことにほっとして笑顔を見せ合った。
しかしその時、玉は戸口の外まで出るとウリ坊を追い掛ける二人を見て叫んだ。
「貴重な食材なのよ、しっかり捕まえてー!」
身なりの整った可愛い娘子がウリ坊の可愛いさよりも、食材であることを重視している。
「こ、この娘は?」
気になったお民はその理由を密かに照に訊ねた。
「玉ちゃんは孤児なの、あの滝川の叔父さんたちに養われているのだけど、最初に笠寺で会った時は酷い粗末な服を着ていたわ、日々の食べ物にも困っている様子だったわ」
三人はそれを聞いて押し黙った。
ウリ坊を可愛いと思うのは日々余裕のある生活を送っている者の観点で、全ての者の観点では無く、日々の食べ物にも困窮している者には食材と思う方が優先される。
三人は玉やウリ坊を追い掛けている二人に申し訳ない思いが募った。
(確かに粗末な成りをしていた…)
春は笠寺の宴で最初に出会った時の玉の姿を思い起こした。その後、照により着飾った姿が定着していた玉の姿から生活の苦労を感じることは無かったが、今のウリ坊に対する観点の違いからは、困窮した生活の苦労が窺える。
(小紅…)
更に春は玉を見ながら同じ年頃で、同じく孤児の小紅の姿を思い重ねた。行方不明となっている小紅も、もしかしたら同じ様に困窮した生活の日々を送っているかも知れない。春は小紅への思いを重ねたまま玉への思いを募らせていった。
(玉が幸せになれれば、きっと小紅も幸せになれる気がする…)
春は玉に近付くと腰を蹲めて話し掛けた。
「玉、幸せになれるおまじないの舞が見たい?」
その春の言葉に玉はキョトンとした表情を見せた。
春が美春として妹の美咲と共に見せる舞、それは戦国の世の姫が世の儚さの中で幸せを掴むおまじないの舞であり、小紅に教えた舞であった。
そして玉は常日頃、口癖の様に幸せになりたいと口ずさんでいた。
「見たい、幸せになれるおまじないの舞!」
舞については良く分からないものの、幸せのおまじないと聞いて見ない訳には行かない。その玉の元気な言葉に春は笑顔を見せた。
「よし、それじゃあ準備するから後で照に案内してもらって大広間の方に来て」
そう言うと春は立ち上がり、真剣な表情で咲とお民に伝えた。
「行くわよ、咲、お民準備お願い」
「姐さん、そうこなくちゃ、いよいよ復活の舞ね」
「私も楽しみだわ」
そう話しながら三人は舞の準備のためにバタバタと奥の部屋へと向かって行った。
「あなた、悪いけどここよろしくね」
春は途中、夫で物資の搬入を指揮していた夫の水野信元に言葉を掛けた。
「え~! ここってこの台所をか?」
戸惑いを見せる信元を尻目に春たちが通り過ぎていくと、今度は娘の照が信元に声を掛けた。
「父上、叔父上たち、あなたお願いね、食材の調理の賄い」
その照の言葉に動揺は水野四家全体に広がっていった。
「おい、照、無理じゃ」
「我ら奥の仕事などやったこと無い」
「調理すら経験ないぞ」
戸惑う四家の主の男たちに照は離れながら激を飛ばした。
「大丈夫よ、やればできる!」
そう言って照も玉を連れて台所から離れていった。
その女衆の様子を見ていた佐介も颯爽と動いた。
「これは大変な事態だ、叔父さんたちこれ頼むよ」
そう言うと佐助は持っていた盆をサッと信元に手渡し、大広間の方に走り去って行った。
水野四家の男たちは最後にその場に取り残されていた。
(ええと、何をすればよいのであろう…)
取り敢えず、手始めに何をどう動いて良いか分からない。四人が呆然と立ち尽くしていたその時であった。
「ちょっとー、大広間の隣の広間で酒がないって叫んでいるわよー」
「外陣で食膳が足りないってよー、どうなっているのぉ」
「芋煮の芋はどこですか、もう鍋にくべてようですか?」
「米は何処じゃ、未だ炊いておらんのか、どうなっておるのじゃ?」
「こりゃ、魚じゃないか、寺ではよろしくなかろう、魚っぽく無くせい」
様々な注文が堰を切ったように台所に飛び込んで来た。
「わー、どうすれば良いのじゃ」
「動け、とにかく動け」
台所は戦場の如くの忙しさと化していた。




