第五章 女房鉄砲仏法 力への意志(19)
暗くなった山中に勝利の掛け声が響き渡る。
「えいえい」
「おう!」
「えいえい」
「おう!」
その山上からの掛け声は麓に集っていた人々の耳にも届いていた。松明の灯りを持って集まったいた者には尾張の武家の男たちをはじめとして、家中の使用人や出入りする商人、農民、湊民など様々な身分の者たちがいた。
「どうやら吉法師さまは見つかった様じゃな」
「あぁ、良かった、良かった」
勝利の掛け声は皆に吉法師が無事に見つかり、保護されたことを伝えるための手段としても、有効な手段となっていた。
「えいえい」
「おう!」
「えいえい」
「おう!」
その勝利の掛け声は山中を撤収中の沓掛衆と酒井衆にも聞こえていた。吉法師を探す尾張の軍勢は麓の直ぐそこまで迫ってきている。吉法師捕獲の作戦が失敗した今、静寂を持って素早くこの場を脱出しなければならない。
「えいえい」
「おう!」
「えいえい」
「おう!」
しかしその掛け声は小五郎の耳に執拗にまとわりついてくる。
「いまいましい、この敗残気分は我慢ならぬ!」
小五郎は小豆坂の戦いでの撤退の時を思い出し、思わず大声で怒鳴った。
「しっ、小五郎殿、声が大きい!」
すると小五郎は近くにいた俊正から小声で注意を受けた。俊正は身を伏せながら音を立てるなという動作を示し、少し離れた所の崖下を指差している。小五郎がその方向に目を向けると、そこには数人の尾張の屈強そうな武士の男が立っているのが見えた。
俊正はその男の様子を窺いながら、更に小声で小五郎に語り掛けた。
「あそこにいるのは柴田権六と言って今の尾張で最強の男じゃ、あ奴は織田家中でも鬼柴田と呼ばれていて、強い上に相手に容赦ない、もし我ら見つかったら…、あー!」
次の瞬間俊正が目にしたのは、今横で話をしていた小五郎が頭上から鬼柴田を襲おうとしている姿であった。
(尾張最強の男の首、土産としての価値あり、いただきだ!)
吉法師の捕獲には失敗したが、その撤収時に偶然に出会った尾張最強の男、その男の首を持って帰ればここまで来た労力の代用になる。小五郎は即決で迷わず崖上から飛び掛かると、権六の頭上目掛けて槍を振り下ろした。
(よし、もらった!!)
小五郎は寸時の先に十分な手応えを予想した。
しかし権六は一瞬の異常な気配を感じると、目に止まらぬ電光石火の槍技で、小五郎の槍の一撃をその体ごと吹っ飛ばした。
ダーン!
小五郎はそのあまりの速さに受け身を取ることすらできず、俊正のいるところまで吹っ飛ばされた。
「いててて、なんという男だ!」
「だから言ったであろう」
俊正は急いで小五郎を担ぎ上げ、その場を去って行った。
権六はその時何かの気配を感じ、思わず槍を振るって撥ね除けたものの、それが何であったのか分からず頭を捻っていた。すると、そこに山上への道を探していた佐々隼人正が現れ、権六に話し掛けてきた。
「やはりこの上に向かう道は分かり難くなっておるようだ、ん、何じゃどうかしたのか、権六?」
隼人正は権六が何かを気にしている様子を見て訊ねた。すると権六は山の方を眺めながら不思議そうに答えた。
「いや、何か今近付いて来たのものを撥ね除けたのたが、直ぐに消え失せてしまって何であったのか分からぬのじゃ、山猿であったかの」
それを聞いて隼人正は笑いながら言い返した。
「ははは、権六、親分猿と間違われて挑戦してきたんじゃないか、捕まえてこの山、案内させたかったのぉ」
「ふっ」
その隼人正の言葉に権六はふと笑みをこぼした。山中では池に落ちて未だ乾かぬ服を棚引かせながら小五郎がくしゃみをしていた。
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一方、先を進んでいた近藤九十郎と沓掛衆は山中を突き抜け街道に出ると、織田家への逆心行為が露見するのを恐れながら沓掛への帰路を急いでいた。すると、ある見通しの悪い曲がり角を曲がった時、逆方向に進む武装の整った武家の一団に蜂合わせた。
九十郎があっと思った時には時すでに遅かった。なるべく自然を装って通り過ぎようと思った九十郎と沓掛衆であったが、さすがに三十名余りもの狩人の格好をした集団が、この夜分のこの様な場所を移動しているのは不自然さが漂っていた。
「待て、ぬしら何処の者か?」
するとその擦れ違いざま、馬上の男が静止を要求してきた。九十郎がその相手の顔を確認すると、それは刈谷の水野信近であった。すぐ隣には常滑の水野森高隆もいる。この時、水野家は既に今川・松平方から離反し、九十郎の表の立場と同じ織田方となっていたが、九十郎はそれを知らず、この水野信近・森隆とは敵対関係にあると思っていた。
水野は総勢八十人程おり完全武装で疲労の度合いも低い様に見える。それに対して自身の沓掛の衆は三十名ほど、狩人の姿に扮装していて武器もまともな状態ではない上に、ここまでの戦闘で疲労の度合いも頂点に達している。
(ここで戦闘になったら全滅させられる)
九十郎は焦りを見せた。この場は何とかごまかすしかない。九十郎がどう言おうか、と考えていると、逆に信近の方から声を掛けられた。
「何じゃ、その方沓掛の近藤殿じゃないか、尾張の若殿は見つけられたのか?」
信近に名指しされた九十郎は内心驚きながら、水野の様子を考察した。
(何故か水野は自分たちのことを仲間だと思っている。ということは、儂らが裏では今川・松平方に付いていることを知っておるということか…)
九十郎は自分たちが裏で今川・松平方とつながっていることを知っているのは、鷹匠の本多俊正や酒井小五郎など一部のみであると思っていた。しかし水野の様子からして、自分たちのことを仲間であると認識している。
(小五郎から聞いていて、我らの後詰めに出て来たということか、なるほど…)
九十郎は何はともあれ、ここで戦闘には至らぬであろう状況にほっとしながら、水野を同じ今川・松平方と思い込んで返答をした。
「いや、我らもう少しの所であったが、尾張の黄金世代の奴やらが出てきて先を取れんかった、もう大勢の尾張の衆が集まって来おって、折角儂らこんな格好で出てきたのに残念じゃった」
悔しがる近藤に、水野の二人は吉法師を一番で発見できず、手柄が得られなかったためだと思った。二人は九十郎の裏の立場を知らず、また自分たちが既に寝返っていることを相手は知っていると思い込み、同じ織田方と思って話をしていた。
「九十郎殿、それは残念じゃったな」
信近はそう言って九十郎を宥めた。その信近に森隆は訊いた。
「叔父上、それでは我ら、今から行っても遅いですかのお」
その言葉に九十郎は吃驚した。
(当り前だろ、今更後詰めなど意味無いし、この程度の兵力で向かって行ったらあっという間に潰されるわ!)
心の中でそう怒鳴っていたが自分らが知る所ではない。すると信近が応えた。
「そうじゃなぁ~、まぁ行くだけ行ってみるか」
信近にとっては、本来の吉法師探しで本人が無事発見されたとしても、その場に赴くことで、今度同盟を組むことになった自分たちの紹介を兼ねながら、どの様な仲間がいるのかを知る良い機会になると思った。
「それじゃあ、近藤殿、道中気を付けて」
そう言って挨拶を交わすと水野信近、森隆の一団は去って行った。
九十郎は尾張の大群の中に向かって行く水野勢を何か間の抜けた集団に感じた。しかし水野勢が自分たちの帰路の間にいるとなれば自分たちの安全性は高まる。九十郎は水野勢の一団をそのまま見送ることにした。
(取り敢えず、これで安心して帰れそうだ…)
そう思い帰路への余裕が生まれると、九十郎は逆にこの人数、この格好で出て来たことに対して、何も土産が無いことに物足りなさを感じる。
ブヒーッ!
するとそこに大きな野生の猪が迫って来た。その猪はもはや野生では恐いもの知らずの大きさになっており、人間の集団にも恐れること無く突進してくる。九十郎は瞬時に皆で鍋料理を食らうことを思い立った。
「よぉし、手ぶらじゃ何だから、あれを土産に捕まえていくぞ!」
九十郎は皆に叫んだ。すると沓掛衆は狩人に変装した姿で本当に狩りを始めていた。




