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第二章 敦盛(2)

 吉法師と勝三郎は三河から帰還する軍勢とは逆向きに馬を走らせ、中程を行軍している父信秀の本体を目指していた。先頭の佐々軍の列を過ぎると、その先に第二軍の旗印が見えて来た。


「おっ、次は権六の軍か」


 二ツ雁金の旗印、それは下社城の柴田権六の軍勢であった。権六は若き頃、織田信秀に武力と政務能力の高さを買われ、下社の城と尾張の一軍を任されていた。今回の小豆坂の戦で七本槍の選出は無かったものの、権六は圧倒的な槍捌きで敵軍を圧倒していた。


 戦が終り、帰還の途においても権六は戦場さながらの威圧感を周囲に与えていた。しかしなぜか沿道の民衆は権六の長く伸びた髭が気になって仕方がない。本来その権六の髭は屈強な武将としての象徴になる箇所であったが、この時はそれが全く働いていない様で逆に嘲笑される箇所となっている様であった。それについては権六の家臣達も気が付いているらしく、時折ちらちらと権六の方を見ては様子を窺っていた。


 吉法師はその様な状況の権六の軍勢の中を通り掛かった。民衆の視線の先にいる権六を見た吉法師はすれ違いざまに大きな声で言い放った。


「権六ぅー!、おっきい飯粒ついているぞー!」


 吉法師は幼少時から父信秀に仕える権六を良く知っており、父と同様に権六と呼んで慣れ親しんでいた。吉法師は大きな声で飯粒の指摘をした後、馬速を緩めずに権六の横を通り過ぎ去って行く。権六は吉法師の指摘した飯粒と言うのが自分のどこについているのか、分からずにいたが、そこに更に遠く過ぎ去った吉法師からまた大きな声が届く。


「ひげー!」


 その声に権六はようやく髭に付いた飯粒に気が付く。続いて通り掛かった勝三郎も叫びながら横を通る。


「お師匠さまー!」


 権六は普段は怖そうな面持ちをしているが、家中でも屈指の槍の使い手で、子供や若輩達の面倒見も良い事から若い武者達の憧れの存在になっていた。勝三郎も以前手解きを受けた槍筋を褒められた事から、師匠と呼んで親しみを抱いていた。


 権六は馬で颯爽と駆け去って行く二人に対し返答も無く、憮然とした表情のままその馬影を追っていた。髭に付いた飯粒は簡単には取れそうもない。沿道の民衆は、敵に鬼柴田と恐れられる権六が子供の吉法師に飯粒が付いているの指摘された事を妙におかしく思っていた。


(ごんろくちゃーん、ごはんこぼしちゃいけませんよー)


 本人には聞こえない様に叫ばれた沿道のその声は、憮然とした表情で行軍している権六が通り過ぎた後、民衆のあちらこちらでクスクスと言う笑い声を誘っていた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 吉法師は尾張の軍勢の中程を行軍している信秀の本隊を目指して馬を走らせていた。吉法師の後には少し離れて勝三郎が懸命に付いている。尾張の軍勢は佐々軍を先頭に何軍かに分かれ断続的に続いていたが、吉法師はその軍勢とすれ違う中で戦傷を負っている者が多い事が気になっていた。頭や腕に戦傷を負って帯を巻いている者が多かったが、中には腕や足を失っている者、もはや動けなくなっている者、そして途中で息絶えたのか、骸となって運ばれている者などもいた。


(戦は大勝したはず、勝ってもこれなのか!)


 吉法師は軍勢の予想外の状態に衝撃を受けていた。勝つには勝ったのだろうが、大勝ではなく辛勝ではないかと思う。通り掛かる沿道の先から悲しみの声が聞こえて来る。


「うわぁーん」

「えーん、いやだー、おとぉー」

「おまえさーん」


 討死した足軽の家族の者達であろうか、路上脇の骸の傍で母親と数人の小さな子等が泣き叫んでいた。その様子はとても見るに堪えがたいもので、戦と人の死が非常に身近なものに感じられた。


(戦、人が殺し合い、人が死ぬ……)


沿道には近隣の民衆が軍勢を英雄の如く迎えている。名の通った武将が通る度に大きな称讃の声を上がる。その傍らでは戦傷者や戦死者の家族は悲痛な声を上げている。栄光と不幸が入り混じった光景だったが、吉法師の耳元には不幸の悲痛な声の方ばかりが残る。


「おとぉー、死なないでー」


 この声に吉法師は手綱をギュッと強く握り、不安な感情が込み上げて来るのを必死に抑えた。これまで深く意識したことの無い人の死というものに対して恐怖が込み上がってくる。


(戦で人が死ぬ、でも死ぬってどういうことなのだろう。体が動かなくなって……、その時この頭で考えているものは何処へ行ってしまうのだろうか?)


 吉法師は前方にまた泣き叫ぶ子供を見つけ、思わず目を閉じた。しかし馬で駆け抜ける中で耳を塞ぐ事は出来ない。


「おとぉー、なんで、なんで死んじゃうんだよー」


 吉法師の耳元でその子供の声が何度も何度も木霊の様に響き恐怖に包まれる。


(こ、怖い、父上…)


 その時街道は登り坂に差し掛かり、馬はこれまで走って来た疲労で息が上がって来ていたが、吉法師はその馬速を落そうとはしなかった。この死を感じる恐怖から解放されるためには、早く父に会う事しか無い。不安な気持ちを押さえながら、吉法師は馬に無理を強いてがむしゃらに走らせた。


「吉法師様、何か焦っておられるのか……」


 後ろを走る勝三郎は長時間の走りで疲労している中、何とか必死に吉法師に付いていた。吉法師の馬の操り方が乱れており、何か吉法師の異常を感じる。


「戦、死ぬ、怖い……」


 もはや吉法師の死への恐怖は街道の坂と共に頂点に達していた。そして道が下り始めた時、その先に一際大きな軍勢がこちらに向かって来る様子が見えた。永楽銭の旗印、織田信秀の本体であった。


(あ、あれだ、織田の本隊、あそこに父上はいる!)


 織田の本隊はこれまでの軍勢とはまるで規模が違っていた。これまでの軍勢は多くても数百人の規模であったが、信秀が率いる織田本隊は各諸城に散らばる一族が集まっており、数千人の大規模になっている。軍勢の列は見渡す限り延々と続く壮大な物であった。


(何と言う大きな軍勢、この様な軍勢を父は率いているのか!)


 それはこれまで吉法師が見た事が無い規模だった。父が非常に多くの家臣に采配を振るっているという動かしている事を、初めて実感として感じられた。しかしそれは大将自身の決断で先程まで見た様に多くの戦傷者、戦死者など不幸な人々を生み出すと言う大きな責任にもつながり、それは嫡男である将来の自分の責務でもある。


(死ぬのが怖い、将来が怖い……)


 吉法師はその軍勢を見て将来の重責を実感していた。もしかしたら父に会う事でその重責が現実的な感覚で伸しかかって来るかも知れない。そう思うとこれから父に会う事に対しても少し躊躇いを感じる。吉法師は様々な悩み事を抱えながら、父信秀のいる織田本体に向かって街道の下り坂を駆け下りて行った。


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