第五章 女房鉄砲仏法 力への意志(13)
戦況は守る寺側が苦戦していた。
先行していた十名余りの伊賀衆はいち早く武器を手にお民や善空が籠もる本堂に突入してきており、それに続く餓鬼の風貌と化した四人の伊賀衆も逃げる寺方の若い四人を追って境内へと攻め込んで来ている。また孫一の追走を振り切った半蔵は本堂の周辺に取り付いて来ており、その後で橋の仕掛けを突破した三十名程の沓掛衆も側道から押し寄せている。
吉法師は味方となっている寺方の戦況が思わしくない中、その逆境に動じることのない確固たる覚悟の意思を育むべく、揺れる枝の上で熱盛の舞いを極めていた。
(皆は大丈夫であろうか?)
「うわっ!」
吉法師は皆の安否を気にして集中力を散らした瞬間、体勢を崩して枝から落ちそうになった。
「あぶない、あぶない」
何とか枝にしがみついて落下を免れた吉法師は再び体勢を整えて舞に集中した。
(どうすれば逆境の中でも上手く舞えるのだろう?)
足場の揺れを見つめていた吉法師は、その時ふと似たような状況の中で、笠寺に行く途中で見せた松井友閑の舞を思い浮かべた。その時友閑は強い風波により大きく揺れる舟上にも関わらず、いつもと変わらぬ華麗な舞いを披露していた。舞の能力自体は日々の鍛錬と技術向上の成果であろうが、逆境に対応することはこの範疇に入るものではない筈である。そこに必要なものは何か、吉法師は再び考え込んだ時、更に思い起こしてはっとした。
(対応するには先を予測することが大事、そのためには情報が必要、そうか!)
吉法師はその時平田三位に教わった言葉を思い出した。
『彼を知り己を知れば百戦危うからず』
それは古代中国の孫氏の兵法書の言葉であった。
集めた情報を基にして状況の変化を予測し、自身の能力を以てしっかりと判断しながら対応することが必勝の極意となる。吉法師はこの戦いの中で一つの結論を得た様に思った。
(これが三位殿の言われる情報の重要性という事か)
吉法師はさっそく揺れを予測しながら舞を実践してみた。確かに足場の揺れを風の動きから予測して重心をずらす事でその舞を安定させることができた様に思えたが、その表情は冴えない。
(うーん、何かしっくりこない・・・)
足元を安定させることは出来ても舞の質は下がっている気がして、それが大きな違和感となっていた。吉法師は悩み込みながらふと顔を上げると、結が窓から顔を出して、自分の舞う姿を見ているのが見えた。
(ふっ、この様な戦いの状況の中で枝の上の舞なんて変に思われたかな)
吉法師は思わず苦い顔をした。すると結は恐る恐る窓から屋根の上に出て来て、屋根伝いに近付き必死に何かを手渡そうとして来た。
(何だろう?)
そう思いながら吉法師は手を伸ばし、結に礼を言いながらそれを受け取った。それは前に自分が舞台で借りた二本の扇子であった。
また恐る恐る屋根を伝って窓から堂内に戻って行く結を見届けた吉法師はさっそく扇子を広げて舞を試してみた。するとその舞が安定した上でしっくりと修まる感があった。
(枝の揺れの予測に意識を傾ける分、舞全体の調和の感覚が崩れていたのじゃな、この扇子は揺れの予測を入れても自然と舞への意識を高めてくれる)
吉法師は結の的確な改善に驚きながら結の方を振り向くと、結は笑顔を見せながら頷いていた。結は枝の上で舞を練習をしている儂のことを変に思うどころか、しっかりとその舞の質を見定め、この扇子が舞の質を向上させると考え奨めてくれた。結の表情は自分の成すことを信じ自分のために尽してくれる事を窺わせている。吉法師は今この場に自分一人でなく結がいることに大きな意味を感じた。
(信頼を以て同じ意識で取り組んでくれる仲間が己の可能性や限界を広げてくれる・・・)
吉法師は逆境の中で敦盛を舞いながらまた一つ新たな結論を得ていた。
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崖上の戦闘で餓鬼の姿に変貌した伊賀衆の四人が金剛杖を振り翳して迫って来る中、全ての武器を逸した寺側の若い四人はその風貌を恐れを抱きながら境内へと退き、個々に武器になりそうなものを探しながら逃げ回っていた。
四人の中で烏丸は境内の真ん中を逃げ回っていた。
ちらっと背後から追って来る餓鬼を振り返って見ると、その形相は凄まじく戦う以前に凝視されるだけで呪詛されそうな感があった。
(こわっ!)
武器を探して戦わねばならないが、逃げるのが精一杯で探す時間は無い。
(どうすれば良いのだ!)
烏丸は走りながら考えた。自分が手にする武器は無いが、相手が手にする金剛杖も先の戦闘で真っ二つにしており、何か武器になるものがあれば再び対等に渡り合えると思った。
(何か戦う手段はあるはずだ)
考えながら逃げていると、同じ様な状況の猫実が前方から逃げて来るのが見えた。烏丸は余裕が無い中でその猫実とすれ違うと、その直後に猫実を追っていた餓鬼が顔面に迫った。
「うおっ!」
「うわっ!」
同時に猫実の正面には烏丸を追っていた餓鬼が迫り、二人とも挟み撃ちにあった様な状態に陥っていた。二人は咄嗟に手を組むと、その反動を利用して垂直に方向転換し、瞬時にまた別の方向へと走り去って行った。
二体の餓鬼は、この二人の瞬時の方向転換に一瞬どちらがどちらを追うか分からなくなり、その場に止まって顔を見合わせた。そして互いに追う方向を決めると、再び別々に二人を追って行った。
(ん? 何か今、一瞬餓鬼の勢いが緩んだ気がした)
烏丸はその時何か反攻の手掛かりを得たような気がした。今の方向転換で、二体の餓鬼は一瞬どちらがどちらを追うかで迷いが生じた様でその速度を鈍らせた。
烏丸ははっとして思い立った。
(そうだ惑わされずに惑わす、これだ!)
自分たちはここまで武器を失うと共に相手の風貌に惑わされて戦意を下げ勢いを失っている状況である。そして偶然ではあったが先程相手を惑わした時には相手の勢いが落ちた。如何に自分たちが惑わされずに相手を惑わすか、それが反抗への手掛かりになると思った。
その時、一体の餓鬼が烏丸に追い付いて来るとすぐさま仕掛けて来た。
(ここで定石であれば再度逃げるであるが…)
烏丸は金剛杖を振りかぶる餓鬼に、逃げる体制から一転して急接近すると拳と蹴りを一撃ずつ打ち込んだ。自分の攻撃を躱すために更に逃げる方向に距離を取るであろうと思っていた餓鬼は烏丸の攻撃をまともに喰らうと杖と共に地面に転がった。不意を突かれ驚きの表情を見せた餓鬼であったが、一方で烏丸も驚いた。
(杖が元に戻っておる どういうことだ!)
その餓鬼と共に転がる金剛杖が元の長さに戻っていた。よく見ると餓鬼の風貌にも先程までと若干の違いが見られる。どうやら先程猫実と交差した時に別の餓鬼に入れ代わった様であった。
金剛杖が真っ二つになり、その威力が半減している状態であれば、ここで形勢を逆転できるかも知れないが、健在な状態であれば一時的に優位に立ったとしてもまた程なく不利になる。
(いかん、何か武器になるものを)
烏丸はその場を離れると、再び逃げながら武器になりそうな物を探し始めた。そして再び背後に餓鬼が迫って来た時、建築途中の母屋が目に入った。その近くには孫一らが建設のために準備していた部材の板材が積まれている。
(あそこに行けば何かあるかも知れない)
烏丸は通りすがり幾つかの板材を餓鬼に投げ付けると、そのままその板材の陰に隠れた。餓鬼は目の前に飛んで来た板材を余裕を持って金剛杖で叩き落とすと、そのまま烏丸が隠れた板材の山に渾身の一撃を浴びせた。
ドグァーン
凄まじい轟音と共に板材の山が吹き飛んだ。この時一瞬早く離れた烏丸は幾つかの破片が体に撃ち付けてくる中、建設途中の家屋の中に逃げ込み、その奥にある梁材の陰に身を隠した。しかし烏丸の気を察した餓鬼は狙いを定め再び金剛杖で渾身の一撃を浴びせて来た。
ズグァーン
凄まじい轟音と共に隠れていた梁材が吹き飛び周囲の柱や梁が破壊される。烏丸はいち早く別の柱の上に跳び上がると、そのまま上階の柱を伝って逃れようとした。しかし餓鬼の狙いは素早く、階下から烏丸に追い付くと更なる一撃を繰り出そうとしてきた。
(まずい、これは逃げれぬ)
瞬間的に餓鬼から離れて逃げる方が危険と察した烏丸は逆に餓鬼に向かって飛び降りた。瞬間的に餓鬼の渾身の一撃の拍子を避けた烏丸であったが、それでもその衝撃は思いのほか強く、烏丸の体は杖に弾かれる様にして階下の瓦の山に突っ込んでいった。
グァシャーン
鈍い衝撃音が引いた後、烏丸は瓦の山に半身埋まる様に倒れ込んでいた。その姿は瀕死の重傷を負っている様であった。烏丸が動き出す様子が無いことを確認した餓鬼はとどめを刺そうと金剛杖を振りかざして飛び掛かった。
(今だ!)
餓鬼の攻撃を察した烏丸は寸前で躱すと、視線を向けぬままに幾枚かの瓦を投げ付けた。その瓦は餓鬼の不意を突きながらも正確に餓鬼を狙っていた。餓鬼はこの瓦を金剛杖で叩き割りながら瓦の山の上に着地した。すると足元の瓦が崩れると共に、同時に上下から瓦が向かってくるのを察した。餓鬼は下からの瓦を避け、上からの瓦を破壊しながら上階に向かうのが見えた烏丸を追って跳び上がった。しかし乗り移った梁が折れると、踏み場を失った餓鬼は木材の加工場に降り立った。
この一連の間に烏丸は餓鬼の視界から消え失せていた。周囲を見渡した餓鬼が背後に気配を感じて振り向くと、ちょうど柱が倒れて来ているところで、餓鬼はその柱を金剛杖で弾き返そうとした。
その瞬間であった。背後の大鋸屑の山の中から飛び出した烏丸は柱の角材を思い切り振り回して、餓鬼に打ち付けた。
ズダーン!
これは倒れて来た方の柱に注意が逸れていた餓鬼に対して大きな一打となった。餓鬼は前方からの柱に激突して一緒に吹っ飛ぶと、更に一本の柱を折ってその場に倒れ込んだ。
「はぁはぁ やったか?」
息も絶え絶えの余力が無い状態で確認するが、幸運にも餓鬼が再び動き出す様子は見られない。
烏丸は再度確認した後その場を離れることにした。周囲を見渡すとその戦闘を行った建築中の母屋の中は柱や壁材が崩れ瓦、板、壁材などの部材がグチャグチャに散乱していた。
「これはまずい、後で棟梁に怒られる」
そう思いながら孫一の怒り顔を想像して母屋を出た時であった。
ガラガラガラドシャーン!
何本かの柱に致命的な損傷を受けていた母屋は轟音と共に崩れ落ちた。その様を目の当たりにした烏丸は今日一番の恐怖を覚えた。
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熊吉は鬼気迫る餓鬼に心底恐怖しながら必死に境内の端を逃げていた。
背後から迫る餓鬼の形相は余りに恐ろしく、相対することすら困難な状況の中で、とても戦いが挑める状況では無かった。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、無理阿弥陀仏、無理無理無理無理・・・」
元来、寺に住みながらも魑魅魍魎の話を苦手としていた熊吉は念仏を唱えながら全力で逃げていたが、次第にその差は縮まっていた。
そして本堂の隣の蔵の近くを逃げていた時であった。
うわっ!
ズダーン!
戦うことを完全に忘れ念仏に懸命になっていた熊吉は地面の石ころに躓き、その勢いのまま蔵の壁に激突した。
(いてて、しまった!)
致命的な転倒であった。まずいと思った時にはもう餓鬼はすぐ近くまで迫って来ていた。これからまた逃げても直ぐ追い付かれると思った熊吉は思わず目に入った蔵の入口の横に立て掛けてある竹ほうきを手にした。その瞬間、餓鬼は目の前まで迫り金剛杖でも一撃を浴びせてきていた。
バキッ!
ドカッ!
正に間一髪であった。熊吉は竹ほうきで餓鬼のこの一撃の威力を半減させて凌いだ。しかしその勢いは尚強く、熊吉は粉々に砕かれた竹ほうきと共に蔵の入口まで吹っ飛ばされた。
(いたたたた、あんなもんにまともに当たったらひとたまりもない)
熊吉は次の一撃を打ち込んで来ようとする餓鬼に残った柄の部分を投げ付けると蔵の中へと逃げ込んで行った。
薄暗い蔵の中には味噌や塩、米俵など寺の食糧が積まれていた。
熊吉は奥の米俵の陰に隠れると、餓鬼が迫ってくる様子を確認しながら周りに武器になりそうなものを探した。
ドカン、ドカン!
熊吉には手にする武器が無いということを知ってか、餓鬼は蔵の中で歩くのに邪魔なものを片っ端から吹っ飛ばし熊吉を威嚇しながら真っすぐに向かって来ていた。
(まずい、まずいぞ、何かないか!)
餓鬼が迫る中で、必死に武器となりそうなものを探していた熊吉は米俵の山の横に荷車があるのが目に入った。
(よし、あれだ!)
勢いを付けて荷車を餓鬼にぶつける、そう考えた熊吉は金剛杖を振り回して迫ってくる餓鬼との間を見計らって飛び出し、荷車を餓鬼に向かって押し進めた。
もう相手には攻撃の手段は無いと思っていた餓鬼は突然の熊吉の動きに少し不意を突かれたものの、瞬時にその荷車の直線的な突進に合わせ、荷車を跳び越えて熊吉に一撃を浴びせようとした。
(今だ!)
熊吉は餓鬼のその動きを予測して荷車を押し込む速度を寸前で上げると共に先端を跳ね上げた。するとその先端は飛び跳ねた瞬間の餓鬼を捕えた。
(よし、このまま壁にぶつけてやる!)
熊吉は餓鬼を先端に引っ掛かけた状態のまま反対側の壁に向かって全力で荷車を押した。しかし餓鬼はこの状態でおとなしくしてはくれなかった。餓鬼は片手一本で荷車を破壊し、その進みを止めて地面に足場を固めると、次の一撃で荷車ごと熊吉を吹っ飛ばした。
グワシャーン!
荷車と共に吹っ飛ばされた熊吉は様々な食材の樽の置き場に突っ込んでいった。周囲に荷車や樽の破片が散乱する中で、再度熊吉が受けた衝撃は余りにも大きかった。
(うっ、いかん体が動かぬ)
これまでの戦闘で体が悲鳴を上げ動くことを拒否しているのか、それとも餓鬼の呪縛による金縛りなのか、熊吉は食材の樽山に突っ込んだ状態で起き上がれず、目も開けられない状態となっていた。
(動け、動け、)
心の焦りを余所に体は動かない。熊吉は金剛杖を構えた餓鬼が今度は警戒しながら自分に迫ってくるのを視認できずにいた。
(いかん、やられる)
そう思った時、熊吉の脳裏に寺で皆と過ごした楽しい想い出が頭の中に広がった。それは自身の一生の最後にふさわしい安らかな光景であった。その光景に一瞬笑顔を見せた熊吉であったが、直後にふと我に返り思わず叫んだ。
「ここで終わりじゃない!」
その強い意思が体を駆けめぐった時、急に目を開けることができた。するとその眼には金剛杖を振りかぶり、自分にとどめを刺そうとしている餓鬼の形相が映った。
「うげーっ」
恐ろしさのあまり、熊吉は思わず手元に転がっていた小さな樽を投げつけた。
バシッ
これまで何度か不意を突かれていた餓鬼は今回は警戒していたこともあり、咄嗟にこれを金剛杖で叩き割った。
ぶわっ
しかしその瞬間、樽の中に入っていた白い粉が飛び散り、餓鬼は真っ白い空間に取り込まれていった。
(餓鬼は!)
熊吉は餓鬼からの不意の攻撃に警戒していた。やがて真っ白い空間が引いていった時、その中から金剛杖をやたらと振り回している餓鬼が現れた。
「ぎょえー!」
その時、熊吉は餓鬼の表情を見てまた驚いた。餓鬼の顔は黒から白に変化し、一段と薄気味の悪いものとなっていた。熊吉はその恐ろしさのあまり周囲にある物を片っ端から投げ付けた。
うぇ、うぇ、うぇ
熊吉の投げ付けに対して餓鬼は奇妙な声を発している。
「気味わるぅ!!!」
その声を耳にした熊吉は全身に悪寒を走らせながら更に無我夢中で周辺にある物を投げ続けた。
カラン、カラン
暫くして餓鬼の声が止むと、目の前に積まれた物の山から一本の杖が転がってくるのが見えた。それは餓鬼が手にしていた金剛杖であった。
「あれ?」
熊吉は目の前にいた餓鬼がいつの間にか、物の山に変わっていることを不思議に思いながら、目をきょろきょろさせて餓鬼の行方を捜した。
すると餓鬼は目の前の物の山に埋まった状態で気を失っていた。良く見るとその物の山には大きな石臼や味噌樽、米俵など、簡単に投げる事などできそうも無い物が紛れている。
「我ながら恐ろしい、どうやってこんな物を投げたのじゃろう、無我夢中で繰り出した火事場の糞力というやつじゃな」
再度餓鬼が気を失っている所を確認した後、熊吉は倉庫の中の周囲に目をやった。
ザーッ
俵や樽からは米や酒が漏れ出ており、床面や壁には味噌、醤油、塩、小麦、蕎麦などの貯蔵していた食材が床から壁、天井に至るまで飛び散っていた。全ては自分が無意識に発した無我夢中の糞力によるものであると思われた。
熊吉はその有様を見渡しながら思った。
「これは善空様に糞味噌怒られてしまう…」
餓鬼の怒り顔が去った熊吉に善空の怒り顔が迫っていた。
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猿彦はいち早く舞台横の杉の木の上に登り、餓鬼の視界からその身を遠ざけていた。
「さて如何なものか、あの様なものたちとは真面に戦えぬ」
冷静に策を考えていた猿彦であったが、周囲に武器になりそうな物はなく、進退の判断に困っていた。すると間もなくその姿は餓鬼の目にする所となっていた。
もし金剛杖が使えぬ状態で木に登ってきたなら上から叩き落としてやろうと考えていた猿彦であったが、それは甘かった。
(ど、どうするつもりじゃ!)
餓鬼は集中力を高めると、猿彦が登っていた木に金剛杖による渾身の一撃を撃ち込んだ。
ドァーン!
その一撃は木の幹の側面に大きな亀裂を生んだ。その亀裂は次第に大きくなり、それと同時に木が傾いていく。
「うわー!」
猿彦はその木と共に倒れ落ちていったが、その方向には舞台があった。
ズガーン!
倒れる木が舞台に激突し破壊する中で、猿彦は間一髪激突の直前に舞台に跳び移ると舞台下の間に身を潜らせた。
それを見た餓鬼も猿彦を追って舞台内へと侵入して行った。
「ここは楽屋か?」
猿彦が身を隠した間には舞の演奏のための楽器が整然と置かれていた。
「何か武器になりそうなものは」
猿彦はあちこちかき回しながら餓鬼の金剛杖に対抗できそうな武器を探した。しかしそう簡単には見つからない。
(奥の方には何か)
そう思いながら更に奥の棚の方に目を向けた時だった。右の方から強烈な殺気を感じた猿彦は思わず反対の左方に回避した。
ドガーン!
それと同時に凄まじい破壊音が響き、周辺の部材が床や柱ごと砕け散った。
(あぶな)
咄嗟に躱した猿彦はその後の餓鬼の数撃も避け続けた。しかし、周りにあったものが瓦礫化していき、猿彦の逃げ道を塞ぐようになっていく。
(こちらも攻撃を入れねばまずい)
このまま避けるだけでは何れ追い詰められる、そう思った猿彦は近くに置いてあった三味線を手に取ると思い切り餓鬼に殴り付けた。
バッビーン
楽器特有の何か心地の良い破壊音であったが、攻撃の意味において然したる効果は無かった。続けて尺八や太鼓の鉢を投げつけたが、一振りで簡単に一蹴された。
(これならどうだ)
猿彦はその場で一番大きな和太鼓を投げつけようとした。しかし餓鬼はその様子を見計らい、いい加減にしろと言わんばかりの一撃を打ち込んできた。
ズガン!
うわぁ!
猿彦は粉々に破壊された和太鼓と共に部屋の壁にぶち当たり、そのままその壁を突き破って反対側の間に転げ落ちた。
「いてててて、ここは?」
そこはたくさんの舞子の衣装が飾られていた間であった。
「ここはまずい、ここに戦いを持ち込んではならぬ」
お民ら舞子の衣装に被害を与えてはならない、しかしそれ以前に男衆の立ち入り厳禁の間でここに入り込むことからして問題がある。猿彦は焦りながら出口を探した。しかし餓鬼は戦闘の場を選んではくれず、壁を破壊して猿彦の姿を見つけると再び金剛杖を振り回して襲ってきた。
「よせ!」
ドガーン
餓鬼の一撃は猿彦の体を掠め、部屋の中の物をまき散らした。舞子の衣装が部屋中に舞っていた。猿彦は目の前に舞う一枚のボロボロにされた衣装を掴んだ。
「くそ!これはお雪殿の衣装!」
猿彦は恨みを込めて睨むが、武器を持たない猿彦に餓鬼は容赦なく撃ち込んでくる。
ドガーン
轟音と共にまた一着の衣装が舞っていた。
「あぁ、お華殿ぉ!」
猿彦の叫びを他所に餓鬼は金剛杖を振り回し、猿彦がそれを避けるたびに幾枚かの衣装がボロボロになって宙を舞う。
ドガーン
「お涼殿ぉ!」
ドガーン
「お満殿ぉ!」
衣装がやられる度にその舞子の名を叫ぶ猿彦には何か妙な執着が窺えた。やがて猿彦の周りの床には舞子の衣装が散らばり、残る衣装は一枚のみとなっていた。
(くっ、こ、これだけは守らねば、しかし、恐れ多くて触れぬ)
それは一際鮮やかなお民の衣装であった。その場で餓鬼の攻撃を避ければこの衣装までやられてしまう、避ける事が出来ない以上相手を倒さなければならないが、その手段が見つからない。猿彦が答えが出せぬままに餓鬼は無情な一撃を放って来た。
「やめろー!」
猿彦は大声で叫ぶと咄嗟に床に舞い落ちていた舞子の衣装を立て続けに投げつけた。すると幾枚もの衣装は金剛杖を振り回す餓鬼に絡みつきその手元を狂わせた。
スガン!
床面を掠めた杖は一枚の小さな舞子の衣装を舞い上げると、その衣装は餓鬼の顔面を覆い隠した。餓鬼は一時金剛杖を握った両方の手に他の衣装が絡み付き、また視界が取れない状態となっていた。
「今だ!」
それを見た猿彦はこの機会を逃すまいと、咄嗟に近くの衣装をつかみ取ると、餓鬼に向かって突撃した。そして動きに難儀していた餓鬼を捉えると、そのまま部屋の中央の柱に括り付けた。更に猿彦は餓鬼の周囲をぐるぐると回りながら、何枚もの衣装を使って何重にも念入りに巻き込み、遂にその餓鬼を身動きが出来ぬ状態にした。
「やった、何とかお民様の衣装だけはお守りすることができた」
猿彦は深く息をつきながらお民の衣装のある壁の方を見た。しかしそこに掛かってあるはずの衣装が無い。猿彦は思わず息を呑んで餓鬼の方を見た。その一番最初に巻き上げた衣装がそれであると一目して分かった。
(しまった 結局自分で駄目にしてしまった、これはお民様に怒られる)
猿彦はボロボロの衣装を纏って怒りを見せるお民の姿を思い描いた。




