第五章 女房鉄砲仏法 力への意志(2)
吉法師は夜の山中を追手から逃げ続いていた。
「向こうだ、吉法師は向こうに逃げているぞ」
「追え、捕まえろ」
今度彼らに捕まれば確実に人質として他国に連れて行かれ、二度と尾張には戻れない。吉法師は時折木陰や窪地に身を隠して周囲の気配を探りながら、山中の奥へ奥へと必死に逃げていた。
この時山中の道無き道を這いつくばる様にして逃げていた吉法師の体はすっかり泥と埃に塗れていた。体の疲労の方も頂点に達していて一時の休息を要求していたが、頭の方は一度気を抜くとそのまま動けなくなると考え却下し逃げ続けていた。
吉法師が山中で初めて足を止めたのは、湧水が滴っている場所であった。吉法師は水を口に含みながら、雲間から覗く月の明かりに照らされた自分の姿を見て、少し気がおかしくなった様な笑顔を浮かべた。
(これではまるで最初に会った時の一益たちの様じゃな)
吉法師は今の自分の姿に情けなさを感じ心が折れそうになりながら、再び自身の姿を追手から隠すべく、木々が生い茂る場所に逃げ込んで行った。
月明かりの届かないその場所は、一晩中灯りの絶える事の無い那古野の城内で育った吉法師にとって、経験の無い暗闇の世界であった。
突如近くの茂みから飛び出して来る野生の動物、木の上から光る目で見つめてくる夜行性の鳥、集団で騒ぎ立てる虫の声、そして風で騒めく草木の音、一人ぼっちで追われている吉法師にとってこの世界のものは、全て自分に襲い掛かってくる敵の様に思えた。
吉法師は無くした右足の草鞋の代わりに、自身の右腕の袖を破って巻き付けていたが、それが緩んできたのが気になり、暗闇の中で身を屈めて巻き直す事にした。
(なぜこの様な事になってしまったのであろう……)
吉法師は落ちぶれてしまった自身の姿を嘆いていると、舞の師匠である松井友閑に言われた一言を思い出した。
(吉法師殿は家臣を鍛える前に先ず己を鍛えねばならぬ様じゃな)
それは吉法師が揺れる舟上で上手く敦盛が舞えなかった時の言い訳に対する友閑の言葉であった。
領主たる者に求められるのは常に結果である。その過程においては幾つかの方法があるであろうが、例えその過程の中で想定外の事であってもそれを受け入れ対応する事が求められる。この戦国の世でその様な領主になるためには、家臣の信頼を得ながら良き将来に導かねばならず、そのためには絶対的な個の力が必要となる。
友閑は揺れる舟上での敦盛の舞を完璧に演じて見せてくれた。
敦盛の舞の背景となる平家の一の谷や屋島の戦の敗戦も、自分は出来ない、相手も出来ないであろう、という考えの差による所が大きかった。友閑は舟上の舞を通して如何に吉法師の主観が領主として脆く、心得の上で今後の鍛錬が必要となる事を証明してくれていた。
(己を鍛えるか、もしや今のこの状況は今の儂への鍛錬じゃろうか、命懸けじゃな)
吉法師は痛む頭を押さえながら、新たな痛みを見せる右足の方に目を向けた。その右足は山中を逃げ回った代償という様な多数の傷を負っていた。
(このままでは追手から逃げ果たしたとしても、何処かで動けなくなって死んでしまうかも知れぬ)
吉法師はこの時改めて人の生きる時間には限りあるという事を感じると共に、沢彦和尚に初めて会った時に言われた言葉を思い出した。
(生きるも幻、死ぬるも幻、考えるべきは今ここに一つの時間があるということじゃ)
この限られた時間の中で己は何をすべきか、これに対して吉法師は物心もつかぬ幼い頃より立派な領主になる事を求められていた。
一方で戦国時代の領主の嫡男は常時様々な敵から様々な形で命を狙われる存在である。普通の家の子供であれば凡そ無い悩みであるが、吉法師にとってそれは立派な領主になる事を求められるのと一緒に、物心がついた時からの悩みとなっていた。
吉法師はそんな悩みを共有できる唯一の人物の言葉を思い出した。
(我らが宿命ぞ!)
それは父信秀の言葉であった。
吉法師はその立場を子供ながらに恐れる事もあったが、父が同じ道の先を歩んでいると思うと不思議とその恐れは薄らいだ。吉法師は暗闇の山中を逃げる苦しい状況の中でフッと一つ笑みをこぼした。
(ひどい舞であったな)
吉法師は最初に見た信秀の演じる滑稽な敦盛の舞を思い起こした。その時父と笑顔を交わした思い出は、良き領主を目指そうとする吉法師の心に安らぎを与えていた。
吉法師はその父の舞に続き、父の紹介で見た友閑の舞を思い出した。その舞は領主となる自身の覚悟を固めると共に、何か将来への自信を持たせてくれる様な気がした。
そして敦盛の舞で覚悟の定まった自分は尾張の領主として、どの様な世を目指して行けば良いであろう、吉法師がそう思った時、一緒に友閑の舞を見ていた一人の女子の言葉が頭を過った。
(吉法師様が成すべきは天下の再構築ですわ)
それは津島天王祭での吉乃の言葉であった。
笑顔を見せる吉乃の姿と一緒に、吉法師の周りには祭りの篝火の灯りの情景が広がっていった。その中では大勢の仲間や民衆の皆が笑顔を見せながら祭を楽しみ、宴を楽しみ、生きることを楽しんでいる。
爺、勝三郎、四郎、又兵衛、…
父上、沢彦和尚、叔父上、酒兄、…
権六、隼人正、孫介、新助、与兵衛、…
佐久間大学、半介、佐久間衆、…
蜂須賀小六、川並衆、…
友閑師匠、三位殿、青山殿、…
加藤図書助、弥三郎、…
内蔵助、犬千代、九右衛門、…
助右衛門、左近、…
滝川一益、益氏、慶次郎、天心、玉、…
水野信元、森隆、春、照、水野の侍女衆、…
そして那古野の城の皆、熱田の町の皆、…
笑顔を見せる皆に向かって吉法師が笑顔を返すと、更に吉乃の声が聞こえた。
(もし天下を治める仕組みが、笑顔の持てない悲しい世にしようとしているのであれば、再構築が必要でしょう)
吉法師の目の前で吉乃はいつもの笑顔を見せた。
「そうだな、吉乃の言う通りじゃ」
吉法師は篝火の明かりが広がったその情景の中で呟いた。するとその直後に吉法師の周りの灯りは全て消え去り、周囲は元の暗闇の世界に戻った。
(今のは、幻か?)
吉法師は現実と幻想の区別が出来なくなっていた。身体の方も既に思う様に動かなくなっていて、生死の境を漂っている様にも思えた。
(しっかりするのじゃ吉法師、皆が待っておるのじゃ、現実をしっかりと見定めて今一度、我が進むべき道を歩まねばならぬ)
吉法師は自分自身を鼓舞し、改めて周囲の暗闇の中を見渡した。
すると暗闇に覆われた木々の間から山の上の方に向かって、全て消え去ったと思われた篝火の灯が、幾つかの小さな形で残されている事に気が付いた。
吉法師は最初この灯が見えた自分の目を疑い、幻想の一部と思って目を擦った後に再度その灯を見たが、その灯は消えて無くなる事はなく、暗闇の中で明るさを保っている。
(幻ではない!)
吉法師はその灯に向かって急な山の斜面を登り始めた。既に体はその限界を超えていたが、それを超えて体を動かそうという心の力が沸き上がっていた。
あの灯りの場所に辿り着いたとしても、そこで何が起きるか分からない。しかしどの様な苦難を経ても、あそこまで辿り着いてこの状況を好転させる。吉法師はそんな強い意志を持って、暗闇の山中の急な斜面を一歩一歩、昇って行った。




