第五章 女房鉄砲仏法 力への意志(1)
陽が昇り始め周囲が明るくなって来た頃、周囲を木々に囲まれた神社の裏手で、吉法師は顔に風の囁きを受けて目を覚ました。
(ここは?)
それまで押し込まれていた狭く酒臭い場所からは出されていたが、猿ぐつわと手足の縛りはそのままであった。吉法師は不自由な状態で周囲の様子を探り始めると、直ぐに自身の体調が悪くなっている事に気が付いた。
(うぇ~、気持ち悪い)
長い時間、酒臭い中で揺られ続けている間に着ている衣服も自身もすっかり酒漬けになっていた。吉法師は周囲の景色がぐるぐると回り出すのに耐えられず、再び目を閉じた。
暫くすると、ぐったりとしていた吉法師の所に、四人の修験者の格好をした男達を従えた服部半蔵が、肩に鷹を乗せた鷹匠の男と話しをながら近付いて来た。
「半蔵、連絡の時間より大分早かったな」
「あぁ、思いがけず早く浚う機会を得たものでな」
その鷹匠の男は予め吉法師を浚って来るという連絡を受けていた様であった。
(一体何者じゃ?)
吉法師は既に目覚めている事を気付かれない様に、眠っている振りをしながら男たちの様子を探っていた。そんな吉法師に鷹匠の男は肩に乗せた鷹と一緒に顔を近付け、興味を持ってその姿を見渡していた。
「こ奴が噂に聞く那古野の吉法師か、なるほどうつけの様な格好をしておる、とてもあの弾正忠の嫡男とは思えぬ」
半蔵は不思議そうな顔をする鷹匠の男を見ながら、少し笑みを浮かべて言った。
「成りは小さいが大きな獲物であろう、尾張弾正忠家の嫡男ともなれば、人質としての価値は相当高い筈じゃ」
するとその時、半蔵が口にした大きな獲物という言葉に反応して鷹匠の男の肩に乗っていた鷹がバタバタと羽を動かした。
くわぁー
鷹匠の男は興奮した様子で一鳴きする鷹に動じる事もなく、フッと笑みを浮かべて言った。
「こ奴もこれは大きな獲物じゃ、と言っておる」
冗談めいたその鷹匠の言葉に対して、半蔵も同じ様にフッと笑みを見せながら言った。
「本多殿は利口な鷹を飼っておる」
すると鷹はその半蔵の言葉に頷く様に首を前後に揺り動かした。二人と一羽は不敵な笑みを見せ合っていた。
その鷹匠は名を本多俊正と言い、鷹狩りを介して広く諸国の情報に通じると共に、三河の武家と深く交流を持っている人物であった。半蔵とは以前から交流があり、今回三河松平経由での駿河今川への人質売り込みの交渉役を引き受けていた。
くわぁー
二人は吉法師という大きな獲物(人質)を前にして興奮する鷹の様子を面白がって見ていた。吉法師はその様子を目を閉じたまま耳を傾けて聞いていた。
(鷹の鳴き声?、三位ではない、誰じゃ?、うえっ!)
吉法師は酒酔いに耐えながら以前会った平田三位の鷹、飛龍の事を思い出した。
(くぁー)
その記憶の中の飛龍の鳴き声は、目の前にいる鷹の声とは異なっている。吉法師が耳を澄まして如何なる者たちかを想像していると、新たにこの場に駆けつける二人の者たちの声が聞こえてきた。
「お頭!」
それは農民に成りすました半蔵の配下の男達であった。男達は半蔵の命で先行して街道の様子を見張っていた。
「この先の沓掛への道は武家の者達によって封鎖されておる」
「知多を南に迂回する道も既にかなり検問が厳しくなっておる」
その報告を聞き修験者の格好をした四人がざわつく中で、半蔵は口元に笑顔を見せながら言った。
「さすがじゃな、この先は大高を治める水野の領地、似ているとは思うていたが、やはりあの笠寺の酒宴の場でこの吉法師と一緒におったのは緒川水野四家の水野信元であった様じゃな」
余裕を見せる半蔵に俊正が問うた。
「どういう事じゃ半蔵、水野は岡崎松平宗家広忠の正室の実家、尾張の織田家とは敵対しているはず、なぜその水野が笠寺でこの吉法師と一緒におったのじゃ?」
半蔵は腕を組み、笠寺での様子を思い起こしながら答えた。
「儂が見た様子からすると、恐らく水野は既に松平を見限り、織田に付いたという事であろう」
その言葉に俊正は驚きを見せた。
「うーむ、松平も危うい所だな、だがその様な時にこの獲物は嘸かし喜ぶであろう」
俊正の言葉に半蔵が頷くと、更に二人の商人の格好をした者が突如姿を現した。
「お頭、熱田の加藤が手勢を集めて熱田湊を封鎖させておる、一部はこちらに向かって来る様じゃ」
「それに我らが出た後の笠寺では小豆坂七本槍の岡田助右衛門と下方左近が手勢を集めながら我らの事を探っておる」
相次ぐ周囲の状況の報告に俊正は半蔵の表情を窺いながら言った。
「熱田の織田勢も動き始めた様じゃな、既に周りを囲まれて来ておるということじゃ、半蔵、沓掛への獲物の移送は大丈夫か?一度伊勢にでも退いて様子を見るか?」
俊正は水野と織田の予想外に早い行動に、半蔵は動揺しているのではないかと思った。しかし半蔵はその自信を揺るがせる事はなかった。
「我らに街道の封鎖は意味を成さぬ、なぜなら我らが通る所こそが乃ち道じゃからな、我々は当初の計画通りここから沓掛の近藤の所に向かう、そこまで行けばもはや織田も水野も簡単には手は出せぬであろう」
俊正は半蔵からその力強いを言葉を聞き、沓掛への獲物引き渡しの成功を確信した。
「うむ、それでは儂は岡崎の松平へ交渉に向かうとしよう、岡崎の松平は起死回生の策が必要じゃろうし、駿府の今川は尾張を抑えて東海の覇権を万全な物にしようとしておる、織田の嫡男を懐に抑える意味は大きい、これは相当高く見積もるであろう」
半蔵はその言葉を聞いて、やはりこの俊正に交渉役をお願いして良かったと思った。
「交渉の方、よろしく頼む」
「うむ、半蔵も道中抜かりのない様にな、沓掛で会おう」
そう言って俊正は一つ半蔵に笑みを残して足早に立ち去って行った。
(儂を浚って来た者たちの頭は半蔵と申す者、そしてあの鷹匠らしき男は本多と言っておったな、一体誰じゃ?)
吉法師はこの時、薄目を開けて二人を見ていた。そして鷹匠の男が立ち去った後、再び酒樽の中に押し込められ輿で運ばれる事になった。
(あいててて)
しかしその揺れ方はこれまでに比するものでは無かった。
半蔵らが通りゆく場所は水野と織田の検問を避けて、全く道になっていない所であった。鬱蒼とした森の中、急斜面の崖っぷち、澱んだ沼の畔、吉法師を入れた酒樽を乗せた輿を担ぐ四人の修験者の格好をした男たちは、半蔵の先導の元、人目を避けて道無き道を進んでいた。
「お頭、この先に那古野の織田勢らしき輩が構えておりますぜ」
「よし、であれば向こうの峰を行こう」
「お頭、この先に水野の検問がありますぜ」
「よし、であればあの池の畔を行こう」
半蔵は先行させた配下の者たちを使い、行く先の情報を入手しながら方向を変えつつ沓掛に向かって進んでいた。
暫くすると一行は丘山が連なる所の麓までやって来た。
「よし、あの山を越えれば沓掛まであと少しじゃ」
半蔵が修験者の者達に声を掛ける中、酒樽の中の吉法師は酒の臭いと激しい揺れでぐったりとしていた。
(一体何処まで運ばれたのじゃ、早く脱出しないと、うぷっ)
吉法師は吐き気に襲われる中で、動きを悟られぬ様にしながら、縛られている腕を解こうと手を揺り動かし始めた。
酒樽を運ぶ一行は丘山を暫く登ると、沢が流れている場所に出た。沢の幅はそれ程広くは無かったが、昨日の雨の影響のためか、いつもより水嵩が増していた。
「ここで渡るのは危険だな、もう少し上流に行くぞ」
半蔵はここで川を渡るのを避け、上流に迂回する事を修験者の格好をした男たちに伝えた。そして暫く行くと大きな岩の中を流れている場所があった。
「よし、ここであれば渡れそうじゃな」
そう言って半蔵は一人、先行して岩を伝い対岸に渡ってみた。
「よし大丈夫じゃ、慎重に渡れ」
問題無く渡れると判断した半蔵が指示すると、酒樽を運ぶ四人の修験者は足取りを合わせながら岩を乗り越えて川を渡ろうとした。
「おい、そこ滑りやすいから気をつけろ」
半蔵が注意したその時であった。
ビューッ!
南からの一陣の風が一行に吹き付け、一瞬酒樽を舞い上げた。
うわっ、どぱーん
酒樽を運んでいた修験者の四人は突然の出来事に全員で姿勢を崩すと、酒樽と共に川に落ちて行った。
「あー、何をやっておるのじゃ」
半蔵は四人に向かって怒鳴った。四人の落ちた川の場所は流れのない所であったが、吉法師を入れた酒樽は風に煽られて少し先に落ち、その時の衝撃で輿から外れた状態で流れのある場所に向かっていた。
「如何、流される!」
半蔵がそう叫ぶと同時に、吉法師を入れたその酒樽は勢いを増して下流へと流されていった。
(うわー、何じゃ、)
吉法師は酒樽の中で一体何が起こったのか分からなかった。揺れるのはそれまでと同じであったが、水の音が間近に聞こえ、樽の隙間からは水が染み込んで来る。
「あー、まずい、流れていく、追えー、追えー」
その外の半蔵の叫ぶ声が小さくなって行くのを聞きながら、吉法師は考え込んでいた。
(これは川に落ちて流されているのではないか…、あいた!)
その直後、酒樽は川の流れの激しい所に入り込み、上下左右に激しく揺らされると、吉法師も樽の中でゴロゴロと転げ回っていた。
「わわ―、わぁー」
吉法師は暫くの間、酒樽の中で激流を下っていた。その激しい揺れの中で、いつの間にか猿ぐつわは外れ、吉法師の声は樽の中で響いていた。そして水に濡れていた手枷が緩んだ時、酒樽は河原の浅瀬に乗り上げて止まった。
「と、止まった!」
吉法師は安心して一呼吸置くと、急いで足枷を外した。そしてそっと酒樽の蓋を開け、近くに自分を浚った男たちの姿がない事を確認すると、酒樽から飛び出して、河原の上に倒れこんだ。
(やった、よく分からぬがあの者達から脱出できた)
吉法師はふらつく体とガンガンする頭と執拗な吐き気を我慢して、気力を振り絞って立ち上がった時、思わぬ視線にギョッとなった。
吉法師の目の前には、この近くに住んでいるらしい三人のお婆さんが立っていた。お婆さんたちはこの河原で洗濯をしていた様で、突然酒樽に乗って流れてきた吉法師を不思議に思いながら見ていた。
「びっくらした、何と酒樽から子が出てきおった」
「おや、この子は、もしかすると」
「おぉ、そうじゃ、きっとそうじゃ」
そう言って自分の方を指差しているお婆さんたちは、自分を那古野の吉法師であると知っている。そう思った吉法師は、このお婆さんたちに自分の状況を話して助けを得たいと考え、お婆さん達の方に歩み寄って行こうとした。
しかしお婆さんたちはそんな吉法師の思いとは裏腹に、異様な物を見る目をして叫んだ。
「そうじゃ、あれは酒樽から出てきた酒太郎じゃ!」
「伝説の酒太郎じゃ、初めて見た、恐ろしや!」
「なんまんだぶ、なんまんだぶ」
突如妖怪に出くわしたかの様な反応をするお婆さんたちは、その直後、年を感じさせぬ動きでその場を駆け去って行った。
「ちょ、ちょっと待て、誰が酒太郎じゃ!」
吉法師は去って行くお婆さん達を目で追い掛けながら、届くはずのない声で問い掛けた。しかし今の自分は酒樽の中で揺され続けたために、髪は乱れ、着物は酒漬けの状態になって周囲に酒の臭いを振り撒いていて、もはや妖怪の一種の様であった。
「これはまずい、このまま酒太郎はまずいだろう、ぐふっ!」
酒を意識した吉法師は再び頭痛と吐き気、体のふらつきに襲われ、その場にしゃがみ込んだ。
その時であった。
「いたぞ、あそこじゃ、追え、捕まえろ」
吉法師はその声の聞こえた方を振り向くと、半蔵と修験者の格好をした四人が川の対岸から迫って来るのが見えた。
(ま、まずい)
ここで再び彼らに捕まる訳にはいかない。吉法師は気を振り絞って立ち上がると、川とは反対の山の方に向かって歩き出した。しかしその足取りはおぼつかない。しかも彼らから逃げ切るために、もう一つ深刻な問題があった。
「まずい、草鞋が片方しかない!」
笠寺で浚われた際に草鞋の片方が脱げて無くなっていた。吉法師は右足が裸足という状態のまま、山の中に身を隠す様に逃げ込んで行った。




