第五章 女房鉄砲仏法 笠寺の姫(11)
屋敷の台所の奥には宴席で振舞われる酒樽が積まれていた。
台所では屋敷の中でいち早く大入道の話を耳にした信元の妻の春が、二人の侍女を連れて訪れ、その場にいる者たちにその時の状況を伺っていた。
「それでその大入道の姿はしっかりとは見ていないのですね?」
吉法師の失踪の事を伏せて慎重に話をする春に対し、台所の者たちは興奮した様子で当時の状況を語っていた。
「突然あの勝手口から入って来た大きな人影を見て慌てて逃げ出してしもうたからのぉ」
「あぁ、姿は良く見ずに飛び出してもうたな」
「あたしたちなんか皆が慌てて逃げ出して来たのにつられて逃げちゃったのよね」
「ほんと、訳も分からずに逃げていたわ」
「突然の出来事であったからのぉ」
台所にいた者たちが見たのは人影の程度で、誰も正確に大入道の姿を見ている訳ではなかった。春は大入道について再度皆に訊いた。
「本当に大入道だったのかしら?」
春は大入道という妖怪話を即座に信じることをせず、皆の確信度を測るため敢えて疑って見せた。
「いや、あれは大入道に違いない」
「ほら、そこに大きな足跡が残されておる」
「その足跡は普通の人の大きさではないわよ」
「大入道のものとしか思えないわね」
「うむ、間違いなかろう」
台所の者たちが示す通り、床面には人の物とは思えぬ大きさの足跡が、勝手口から酒樽が積まれている奥へと続いていた。大入道については即座に信じる事が出来ないが、この足跡については吉法師捜索の手掛かりになるかも知れない、そう思った春はすぐさま二人の侍女に目で合図を送り足跡の調査に向かわせた後、更に質問を続けた。
「それで一度この台所から逃げ出した後、暫くして戻ってきたら酒樽が一つ無くなっていたのね?」
その春の質問に台所の者たちは奥に積まれている酒樽の方を見て言った。
「そうじゃ、あそこにあった酒樽が一つ無くなっていたのじゃ」
「あぁ、だがその樽はもう空だったはずじゃ」
「変ですよね、空の樽を持って行くなんて」
「間違えて空の酒樽を持って行くおっちょこちょいの大入道さんだったんじゃない」
「そうじゃなきっと、はははは」
台所の者たちは一通り春の質問に答えると、笑顔を交えながら各自の仕事に戻って行った。彼等は不思議な出来事と思いながらも、被害の程度が空の酒樽一つと軽かったために、あまり深刻な事態とは捉えていなかった。
春は台所の者たちへの聴取を終えると、床面に残されている足跡を確認している侍女の二人の所に近寄り声を掛けた。
「どう?」
春の問い掛けに二人の侍女は緊張感を浮かべながら、他の台所の者たちには聞えぬ様に声を潜めて応えた。
「お方様、この足跡を残した者は只者ではではありませぬ」
「何か異様な気配を感じます」
侍女の二人は台所の者たちとは異なり、足跡を一目命見てこの状況を深刻な事態と捉えていた。
「そうですか」
春は侍女たちに引き続き足跡のぬしの正体の特定を指示すると、この台所での状況を吉法師の失踪に関連付けて考えた。
(大入道は恐らく作られた姿、それに扮したを者は何故その様な事までして空の樽などを持ち去ったのでしょう、ほぼ同時に起きている事を考えれば、これは何か吉法師の失踪に絡んでいる様に思う、でももしそうだとすれば、ここでの行動は吉法師が誰の目に触れる事無く失踪しているのとは逆であまりにも大胆、でもそれは後に捜索する私たちの裏をかいて偽装しているのかも知れない・・・)
春はあれこれと推察しながら、部屋の奥に積まれている酒樽の方に近寄って行った。すると実際に見る酒樽は春が思っていた以上に大きく、一瞬浮かんだ吉法師の姿を覆い隠す程であった。その瞬間に春は思った。
(もしかすると空の酒樽を必要としていた?)
大入道に扮した者は吉法師を隠して運ぶために酒樽を持ち去ったのではないか、そう考えると持ち去った酒樽が空であったという事も納得できる。
春は更にあれこれと考えながら、吉法師の失踪に通じるかも知れない床面の足跡を注視した。足跡は途中の所を調べている侍女たちを越えて勝手口の方へと続いていたが、その勝手口の所にはいつの間にか滝川益氏が来ていて、真剣な表情で床面を調べているのが見えた。春は彼の意見を聞こうと、益氏に方に向かおうとした。
「春!」
その時春は勝手口とは反対側の方から逆に声を掛けられた。そこには他の皆と一緒に台所に入ってくる夫の信元の姿があった。益氏の方に向かう一益以外の皆が自分の方に集まって来る様子を見て、皆もまた屋敷の中で大入道の話を聞き、吉法師との関連を確認しに来たのだと思った。
信元は春の目の前まで来ると、周りに気を配りながら声を潜めて言った。
「中庭で吉法師の草鞋が見つかった。どうやら吉法師殿は何者かに浚われた様じゃ。この台所では大入道が現れたと聞いたがどうじゃ?」
その信元の問い掛けに、春は近くに置いてある酒樽に手を掛けて言った。
「やはり吉法師さんは浚われたのですね、この台所では大入道が空の酒樽を持ち去って行ったらしく足跡を残しているわ、今その足跡を侍女たちが調べているのだけど、この酒樽、子供を入れて運ぶにはちょうど良い大きさじゃなくて」
そう言って春は封紙が貼られた新しい酒樽を示しながら、足跡のぬしと吉法師の失踪に関係付けて見せた。しかし信元は床面に残された足跡を見ると首を捻って言った。
「うーむ、確かにこの酒樽の方は吉法師殿を隠して浚って行くには適度な大きさじゃな、だが吉法師殿が浚われたと思われる中庭での足跡は四人程の普通の人の大きさで、この様な大入道という感じでは無かった」
中庭で見た足跡とこの台所に残る足跡はあまりにも異なり、とても同一人物とは思えない。他の皆も信元の言葉に頷く中で、春は説明を付け足した。
「えぇ、ここの台所の者たちはこの足跡を大入道が残した物と言っていますが、大入道の姿もこの足跡も恐らく造形によるもの、そこまでして、その時大入道に扮した者はこの酒樽を欲しがったという事ね」
そう言って春は酒樽においた手をトントンと叩いた。その春の動作を見ていた森隆はその未開封の酒樽を見て驚きの声を上げた。
「あー、これは!」
森隆は興奮して懐から中庭で拾った紙切れを取り出すと、新しい酒樽に貼られている封紙と見比べた。
「同じじゃ!」
その封紙には拾った紙切れと同じ印が押されていた。他の皆もその二つの印を見比べて確認した。
「確かに同じ印じゃな」
「間違いないわね」
吉法師が浚われたと思われる中庭で、酒樽に付いていたはずの封紙が見つかった。これは酒樽が開封された時に空樽の端に残っていたものが、中庭で吉法師が押し込められた際に剥がれて落ちた物と考えられた。
「これで吉法師殿が酒樽で運ばれているのはほぼ確実じゃな」
「えぇ、そして浚った者たちは大入道に成りすます事ができる複数の者たちですね」
次に皆は吉法師を浚った大入道の正体について考え始めていた。
「大入道という様な造形を見せる者たちとなると只者ではないな」
「えぇ、相手を見極める必要がありますね」
「うむ、相手が分かれば吉法師様を浚った目的も何処に向かったかも、かなり絞られる」
「吉法師さまの救出に近付きますね」
信元、森隆、又兵衛、勝三郎の四人はその場で頷き合った。
「よし、足跡じゃ、我らもこの吉法師殿に繋がるこの足跡を調べてみよう」
信元の言葉に皆も二人の侍女たちが行っている足跡の調査に加わって行った。
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一方、一益は勝手口の所で腰を下ろし、床面とにらめっこをしている益氏に近寄り話し掛けた。
「益氏、何か見つけたのか?」
一益に声を掛けられた益氏は厳しい表情を見せながら、床に残された足跡を指して言った。
「あぁ兄者、ちょっとこれを見てくれ」
「何じゃ」
一益は益氏と同じ様に腰を下ろし、低い視線で床面を覗いた。するとそこには異なる複数の足跡が勝手口から侵入してくる様子が残されているのが見えた。その複数の足跡は勝手口の所で、特徴的な段階を経て一つの大きな足跡となり酒樽の方に伸びている。
(こ、これは、まさか!)
一益はこの足跡の付き方に思い当たりがある事に気が付いた。一益は驚いた表情を見せながら益氏の方を振り向いた。
「兄者、儂はこの屋敷の周囲を捜索していた時、塀を乗り越えて敷地内に入って行く怪しい四人の足跡を見つけたのじゃ、そしてそれを辿って来たら、ここに行き着いたのじゃ、兄者これは間違いないであろう」
益氏は既に何かを確信している様であった。
(そうか、そういう事であったか)
一益は困惑した表情で他の皆の方を見渡した。
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「お方様、ご確認願います、此方へ」
その時、大入道の足跡を調べていた春は侍女の一人から声を掛けられ振り向いた。
「今行くわ」
一言返事をして春がその侍女の許に歩み寄って行くと、皆がその後に付いて行った。その皆の中に又兵衛もいた。
その時春に確認を求めたのは先程まで又兵衛と酒を酌み交わしていた侍女だった。又兵衛はその侍女を顔を見ながらふと思った。
(そう言えば名を聞いておらんかったな)
又兵衛は先程までその侍女と楽しく酒を飲んでいた事を思い起こした。これまで女子と酒の酌み交わす事の無かった又兵衛にとって、それはこの上ない楽しい時間であった。それが吉法師の失踪と共に一転し、切腹という責任の極に立つ様になっている。
(この状況で、不届きじゃぞ)
又兵衛は自分自身を戒めると、再度今のやるべき事に集中しようと心掛けた。
その侍女は皆が自分の周りに集まると、一つの足跡を指しながら説明を始めた。
「この形の崩れた足跡ですが、通常の人の歩き方でこの様な崩れ方は起きませぬ、つまりこの大入道の足跡は複数人で造形されているもので、この場所ではそれが失敗したために、この様なずれが起きたものと思われます」
「やはりそうですか」
春は厳しい表情で一つ頷いた。
(どういう事じゃ?)
侍女の話を聞いた春は足跡の正体に何か思い浮かぶ所がある様であったが、信元、森隆、又兵衛、勝三郎の四人には全く想像が付かなかった。
そんな四人の様子を見て春が侍女の報告から察する所を話そうとした時、横から出て来た慶次郎と天心が足跡の列を見て叫んだ。
「あぁ何じゃ、これは合体の術じゃないか!」
「あぁなるほど、確かにこれは里の合体の術じゃ!」
大入道の足跡を残す事に使われた術を言い当てる二人の子供に春は目を丸くして訊ねた。
「え、君たちはなぜこの術の事を知っているの?」
一般の民が知る由が無い術であった。しかし慶次郎と天心には馴染みがある術の様であった。
「大体こんな感じじゃ」
慶次郎はそう言って天心の肩の上に乗っかり、小さいながらも大入道の姿を再現して見せた。
「我らがいた伊賀の里では皆でこの術を競ってやっておったぞ」
「慶次郎、重い!」
足をふらつかせる天心の上で、慶次郎は無邪気にその釣り合いを取って、大入道のすがたを演じて見せた。しかし慶次郎の言葉を聞いて他の皆は目を細めた。
(どういう事じゃ?)
吉法師を浚ったのが慶次郎たちのいた里の者たちとなると、それは一益たちの知り合いで、一益たちも加担していたのではないか、という疑念が生じる。
「慶次郎、重い、いい加減下りろ」
しかし術についてさらりと言葉に出し、それを演じる慶次郎と天心の様子からは、一益たちが裏で吉法師を浚う様な計画を行っていたとは思えない。
困惑する皆の所に、一益が深刻な表情を見せながら皆の前に来たのはそんな時であった。一益は皆の前で頭を下げながら言った。
「皆すまぬ、全てが分かった」
皆が不安に思いながら注目する中で、一益は深刻な表情を見せて言った。
「実は我らがいた伊賀の里では特殊な鍛錬が幾つかあり、その中に複数の人数で分身、合体をして相手を翻弄する術があるのじゃが、この足跡の付き方の特徴が正にそれなのじゃ」
そう言うと一益は勝手口の益氏の所に皆を連れて行った。益氏は勝手口に残る足跡の群を示して言った。
「腰を下ろした状態でこの足跡を見ると分かるのじゃが、勝手口手前では凡そ形の異なる四つの足跡が見られる、それが途中で二本に組み合わさり、最後に一本の大入道の足跡になっておる、この組み合わせ方は我らがいた里の合体の術の特徴じゃ」
皆は益氏の説明通りに床面の足跡を覗き込み、この足跡が複数の者たちにより作られた物である事を悟った。しかしそれは同時に一つの疑念へと通じる。又兵衛と勝三郎は一益に詰め寄る様に言った。
「一益殿、どういう事じゃ、ぬしらの言う通りじゃとすると吉法師様を連れ去ったのは・・・」
「そうじゃ、ぬしの里の者という事になるじゃないか?」
一益は二人の言葉を受けて再び頭を下げながら言った。
「申し訳無い、吉法師殿を浚ったのは我らの里の者という可能性が高い、恐らく我らが里から持ち出した鉄砲を奪い返そうと追って来る中で、吉法師殿と一緒にいる我らを目にしたのであろう。その時、鉄砲を奪い返すより吉法師を浚う方が値打ちがある、と考えたに違いない」
「なるほど、そうであったか」
一益の説明に一切の矛盾は無く、皆がなるほどと思った。弓と鉄砲の異種対決を望み、往来の民衆の注目を集めてしまったのは吉法師の方であり、一方的に一益を非難する事はできない。又兵衛も勝三郎も言葉が無かった。
続けて春が疑問に思っていた事を一益に問うた。
「そうすると吉法師さんを誰にも見られずに浚った時とは異なり、空の酒樽の方は大入道の姿を大胆な見せて持ち去り方をしているのはなぜかしら?」
それに対し一益はその時の状況を頭の中で思い描きながら答えた。
「恐らく彼等は本来皆が寝静まってから事を起こすつもりだったのであろう、あの時、中庭に吉法師殿が突如一人で現れるというのは想定外であったに違いない、絶好の機会として思わず浚ってしまったものの、吉法師を隠して運ぶ物の準備が間に合わず、急遽台所にあった酒樽を、大入道の姿に扮して、その場にいる者たちを一時退散させ、持ち去ったのだと思う」
この推測についても状況と合っており、皆がなるほどと思った。
「空の酒樽は急遽必要になったという事ね」
「持ち去る時は慌てておったというじゃな」
「それでこの様な足跡の失敗を起こしているのですね」
皆が頷く中、続いて今度は又兵衛が問うた。
「して一益殿、吉法師様を浚ったのがぬしのいた里の者となれば、相手がどの様な者たちかは見当つくのではないか?」
この又兵衛の問い掛けに対して一益は渋い顔を見せて言った。
「うむ、この合体の術は高度な術なのじゃが、足跡から窺える術の完成水準は高く、伊賀の上忍の家の者たちである事は間違いない、恐らくは服部家か、藤林家ではないかと思う」
その一益の言葉を聞いた春は即座に侍女の一人の方を振り向いてその名を呼んだ。
「桜、どう?」
その時又兵衛はその春の声に俊敏に反応した。春が呼んだのは又兵衛と酒を酌み交わしていた侍女であった。
(あの侍女の名は”桜”と申すのか)
吉法師の捜索に意識を集中させていた又兵衛は、思いがけぬ所でその侍女の名を知る事ができ、集中を途切れさせてうれしく思った。しかし同時になぜそこで春がその侍女に問うたのか、と新たな疑問を感じた。
「藤林ではございませぬ」
それは如何にも藤林の事情を知る者の言い方であった。又兵衛はこの桜の言葉で、春が桜に問うた理由を理解した。
(そうか、桜は藤林の出の者なのじゃな、という事は、桜はくのいちという事か?)
又兵衛は何か驚きと同時に何か自分の心が気落ちするのを感じた。自分は桜と一緒に飲める酒を本気で楽しんでいた。しかし桜の方は水野家のくのいちとしての諜報活動の一環として自分に接していたのかも知れない、そんな思いが過った。
又兵衛が複雑な思いで侍女の桜を見ている中、桜は真剣な表情で皆にその理由を伝えていた。
「足跡の状況からこの術は幻術の一つの合体の術で間違いないと思われます。そして一部失敗している所はありますが、この術の水準は上忍の中でもかなり高く、これを成し得ると思われるのは私が知る限り一つでございます」
その桜の話を厳しい表情で頷きながら聞いていた一益は、自身も思い描いていた一人の人物の名を呟いた。
「服部半蔵じゃな」
その名前に桜が頷くと、皆は思わず息を飲んで声を上げた。
「相手はあの伊賀の半蔵か!」
「私も聞いた事があります、何やら色々な術を使うとか!」
「巷では変幻自在の術と噂されておる」
伊賀の服部半蔵は卓越した諜報集団の首領として尾張でも広くその名が知られていた。変幻自在にその場の環境に溶け込み、情報収集から攪乱、戦闘までを秘密裏に行う、その活動の範囲は広く、軽く挑んで勝てる様な相手では無い。
(伊賀の半蔵!?、如何にして吉法師さまを助ければ良いのじゃ)
半蔵を相手にした吉法師奪還の困難性の高さに、皆が同様に言葉を失い沈黙した。その中で又兵衛は皆とは異なる独自の悩まし気な精神的戦いを展開していた。
(藤林、服部、くのいち、上忍、桜、半蔵、……、)
桜への思いが絡まっていた。
(如何、このままでは如何、又兵衛、ぬしが今やらねばならぬ事は何ぞ?)
又兵衛は大きく首を横に振りながら、再度今のやるべき事に集中するすべく、自分自身に強く問うた。
(服部半蔵からの吉法師様の奪還じゃ!)
そこには自身の問い掛けに答える別の自分がいた。それは小豆坂七本槍の功名を持つ自分である。
(その通り!)
又兵衛は自身の心に喝を入れると皆に主張した。
「兎にも角にも吉法師様の相手と目的が分かったのじゃ、これで吉法師様の救出に向けて対策の行動に展開する事ができるではないか」
この又兵衛の勢いを得た主張に皆は奮起を促された。
「そうじゃ、又兵衛の言う通りじゃ」
「うむ、そうじゃな、厳しいなどと言ってはおれぬ」
「よし、やろう」
皆は伊賀の半蔵相手の厳しい状況を理解しながらも、吉法師奪還の策を練り始める事にした。
「先ず吉法師殿を何処に連れ去って行ったかじゃな」
この信元の言葉に森隆が応えた。
「やはり本拠の伊賀の里の方に向かった可能性が高いでしょうか」
森隆は一般的な見解で述べたが、一益は別の見解を持っていた。
「いや、吉法師殿を連れ去った先は本拠という理由よりも、その目的で考えた方が良いであろう、目的は金銭であろうから、伊賀の里に連れて行っても仕方が無い」
「なるほど、とすると吉法師様の価値を一番高く評価する所が向かう先という事になりますね」
そう言う森隆に信元も同意した。
「吉法師殿の価値を最も高く評価するのは、現在尾張の織田と対立している三河の松平であろうな、恐らく駿遠の今川と共に本物の吉法師であれば金銭に糸目はかけぬであろう」
この言葉に皆が深く頷く中で、勝三郎は落ち着かぬ様子となっていった。
「そこまで連れて行かれたら終わりじゃ、何とかそれまでに手を打たねばならぬ」
又兵衛は気を焦らせる勝三郎を宥めながら信元に問うた。
「それで信元殿、半蔵はどの様にして松平と接触すると思われるか、間にはぬしらの領地があるゆえ、もしかするとぬしらの領地を通るのではないか?」
「うむ、」
この又兵衛の問い掛けに信元は答えに詰まり、思わず義子の森隆と妻の春の方を振り向いた。森隆は同様に答えに詰まっていたが、春には心当たりがあった。
「伊賀の半蔵は沓掛の近藤と商売上旧知の間柄で、岡崎の松平とも縁を持っていると聞きます。恐らくその経路で連れて行くのではないかしら」
春は侍女たちを使って政治、軍事、流通、商売、他国関係など多角的な見方で周辺域の情報を取っていた。皆がなるほどと思う中で森隆はその考えに異を唱えた。
「でも義母上、沓掛の近藤は今、我らと一緒で織田方に寝返っております、半蔵と松平の間を取り持つ様な事をするでしょうか?」
しかしその森隆の言葉には信元が答えた。
「いや、沓掛の近藤が織田方に寝返ったのは御家存続のためであろう、家中は未だ長年付き合いを続けて来た松平に通じる者が多いと聞く」
「であれば表では織田の味方を装っておいて、裏では松平に通じ、吉法師様の移送の仲立をする事は十分あり得ますね」
「うむ、知多から南を回ろうと思えば、我ら水野の領地か、親類筋の花井の領地を通らねばならぬ、恐らく我らがこの宴席に同席しているのを目にしておろうから、我らの領地を避けて沓掛に向かうのは間違いあるまい」
この信元の言葉に皆が納得した。
この時、皆は初めて相手の先を見越した展開が望めると思った。それは吉法師奪還に繋がる希望の展開である。
「信元殿、早速じゃが沓掛への道に先手を打っておこう」
又兵衛は信元に進言した。
「そうじゃな、先ずは相手の足を止めるのが先決じゃ」
一益も同じ意見であった。
「よし、先ずその指示を先行させよう、春!」
「分かったわ、あなた」
春は二人の侍女を呼び寄せると、侍女の方を向いて指示を与えた。
「桜、菫、二人はこれから先行して大高に向かい叔父上(忠氏)と信近殿に事の次第を伝えてください、そして叔父上には直ぐに沓掛との間に非常線を張る様に、信近殿には刈谷への援軍の指示を出す様に伝えてください」
この時、又兵衛は指示を受ける侍女の桜に対して、夜も更けた所から活動させる事に申し訳なく思った。
(すまない、頼むぞ、桜殿)
又兵衛は心の中で桜に詫びていると、春の指示に集中しているはずの桜と、ふと一瞬目が合った様な気がした。
(気のせいか?)
又兵衛は何か不思議に思った。その中で春の指示は続いていた。
「それから、この後何か分かったらこちらから茜と葵を連絡に出す事、私達は後から半蔵の足跡を確認して向かう事を伝えてください、ここからは時間との勝負です、叔父上には相手の所在が判明次第、非常線を包囲網に展開できる様にと伝えてください」
春の指示を聞き終わると二人の侍女は声を揃えて返事をした。
「承知しました」
そして春が二人への指示を終えて皆の方を振り返った時、二人の侍女は立ちどころに消えていた。
「おぉ、消えちゃった」
「すげー、何じゃ今のは」
慶次郎と天心が子供ながらに驚く中で、森隆は義父の信元に言った。
「それでは父上、私も先に寺本に赴き花井との連携を進めて参ります」
「おぉ、そうか頼む、知多方面に指示を出すには確かにぬしがいた方が良い」
この二人の会話に慶次郎と天心は期待感が高まっていた。
「慶次郎、あの人はさっき消えた女の人達の上の人らしいよ」
「え、じゃぁ消える?、また消える?」
ワクワクしている慶次郎と天心の前で、森隆は両手で袴の裾を持ち上げた。
タッタッタッタッ
そして素足を見せながら走り去って行く森隆を見ながら慶次郎と天心は言い合った。
「普通だね」
「だね」
慶次郎と天心に期待された森隆の走りは、何故か残念な思いをさせていた。
又兵衛は二人の侍女と森隆が先行して去って行ったのを吉法師奪還の作戦の開始と考え、気を引き締めていた。
(相手は伊賀の半蔵、一筋縄では行かぬかも知れぬが、しかしこのままでは責任を取って切腹という事を考えれば何でもできる、最後に桜殿と楽しい酒が飲めて良かった)
又兵衛が死を賭してでも吉法師を奪還する事を決意したその時であった。
(又さんは死なせないわ)
背後から侍女の桜の声が聞こえた気がした。又兵衛はその声が現実なのか幻なのか分からからずにいたが、考えている内にふと可笑しさが込み上げて来た。
(いや、やるべき事をやるだけじゃ)
桜は春からの指示という事だけでなく、自分の事を想って行動してくれている、又兵衛は何か桜と通じる物を感じていた。
(二人で飲んでいた時の楽しい時間も互いに素であった様じゃな)
そう思うと今の厳しい状況に直面した中でも、その先には再び楽しい時間が待っている様な気がした。
皆は台所を出て今後の策を練るため宴席の場に戻る事にした。




