第五章 女房鉄砲仏法 笠寺の姫(9)
笠寺の夜空の雲間から月が燦然と輝きを放ち始めた頃、宴は終焉を迎え様としていた。宴の行われている母家から少し離れた厠から出て来た吉法師は月を仰ぎ見ながら一つ背伸びをした。
「あー、すっきりじゃ」
先程まで雨雲が広がっていた空の話か、それとも我慢していた尿意の話か、周囲に確認すべき人もいない中で吉法師は大きな声で上げていた。
その後吉法師は月を眺めながら今日の長い一日を思い起こした。
師匠である松井友閑の面前での船上の舞いで始まり、滝川一益たちとの弓対鉄砲の異種対決、そして盟約を結んだばかりの水野信元たちとの宴、何れも貴重な経験に思えた。
(先ずは己を磨く事が肝要じゃ)
松井友閑の言葉であった。
どの様な逆境にも対応出来る心と体、吉法師は敦盛の舞に込めた覚悟に更なる思いを込めた。
(パーン)
次に吉法師は初めて見た鉄砲の威力を思い起こした。
(これなら子供や女子でも屈強な武士に勝ててしまうのぉ)
子供である慶次郎が鉄砲で的のかかしを吹き飛ばした時の水野信元の言葉であった。その威力は吉法師にとっても衝撃的であった。しかし鉄砲にはその速射性に対する課題と共に、一益が放った時の様な直進性の課題があり、実戦に用いるには尚不明瞭な所がある。
吉法師は眺めていた月から庭の灯篭の灯に目を移して思った。
(鉄砲についてはもっと色々と試してみたい、一益たちには那古野に来てもらおう、玉、天心、慶次郎の三人にも那古野からそれぞれの望む道に歩んでもらうのが良かろう)
吉法師は益氏から聞いた三人の境遇を思い描いていた。三人にはこれまでの苦労を糧にして、それぞれ将来望む道に進める様な手助けをしたいと思った。
母屋からは皆の宴を楽しむ声が聞こえる中で、吉法師は宴席で見せた玉の姫姿とそれを演出した照の笑顔を思い起こした。そして忠元の妻春の言葉が頭を過ぎる。
(今、吉ちゃんが考えるべき事は民の身心を如何にして治めるかという事でしょう)
吉法師はこの春の意見を正に天下の再構築への前進的な考えであると思った。世の統治は力によるものだけでなく心によるものを織り交ぜて行うもの、吉法師は宴会の行われている母屋にいる春に向かって、笑顔を見せながら呟いた。
「春殿の言われる通りじゃ」
それは吉法師が先程春の前で言った言葉であった。
滝川家と水野家、吉法師は以後親身に思える仲間が出来た喜びと共に、世を統治するという考え方に新たな気概を感じていた。
「充実した一日だった」
そう思いながら吉法師は雨でぬかるんでいた母屋への道を、足元に気を付けながら戻ろうと歩き始めた。
その時であった。
吉法師は母屋の柱や床板の影から複数の人型の影が分離するのを目の当たりにした。
(な、何じゃ?)
吉法師が不思議に思ったのも束の間であった。
(うわっ)
吉法師はあっという間にその人影に囲まれ、影の中に飲み込まれていった。
ガシッ
バサッ
ドカドカ
そして影から発する幾らかの音の後、吉法師の姿は影と共にその場から消滅した。
その時宴席では最後に皆が集まって踊りを披露しながら盛り上がっていた。
「ところで吉法師様は何処へ行かれたのじゃ?」
意気投合の侍女の手を取って楽しそうに踊っていた又兵衛は、ふと思い出したかの様に勝三郎に訊ねた。
「厠に行くと申しておりましたよ」
勝三郎は吉法師の言葉の後で仲良くなった慶次郎と天心に、宴で盛り上がる猿楽舞を教えていた。
「些かお戻りが遅いのではないですか?」
横で玉に上品な舞の手捌きを教えていた照が言った。
「この場所が分からなくなり迷われておるのではないか?」
信元が少し心配して勝三郎を見た。
「勝三郎、様子を見に行った方が良いんじゃないか?」
一益も気掛かりに思いながら勝三郎を見た。二人に問われた勝三郎は笑顔を見せながら答えた。
「大丈夫ですよ、こういう事はよくあるのです、この間も津島で厠に行くと言って出て行った後、あちらこちらに行っておった様でしたから」
皆がこの勝三郎の話に頷いた。
「あの御性格では致し方ありませぬな」
「何かまた興味を惹かれる物を見つけたのかも知れぬな」
「確かに今回初めて鉄砲を見た時の執着は強かったからのぉ」
「そうそう、もうああなると手に負えませぬ」
皆が吉法師の性分の話で盛り上がる中、吉法師は猿ぐつわを噛まされた挙句に手足を縛られ、自由を奪われた状態で、暗く狭い空間の中に押し込められていた。
「まずい、何処へ連れ去られている」
その空間の動きから、自分が何かに押し込められた状態で何処かに運ばれているのが分かる。しかし運んでいる者たちの会話は聞こえず、自分が実際どの様な物に入れられどの様な者たちにより運ばれているのかは分からなかった。
(そ、それにしても酒臭い)
吉法師は手足が出ない中で息を噤んだ。
吉法師は先程まで酒に満たされていた酒樽に押し込められていた。その酒樽は御札で封印された状態で輿に乗せられ、修験者の格好をした一団により運ばれていた。
ザッザッザッザッ
どこかの神社に酒を奉納するための一団に見えた。しかし声もその歩みの音さえも押し殺して先を急ぐその様子には違和感が感じられた。
ザッザッザッザッ
一団は昼間に弓と鉄砲の異種対決が行われていた場所を通り掛かった。
そこには地元領主の戸部新左衛門が領内の見回りで家臣と共に来ていたが、特に怪しまれる事もなく、一団は彼らの横を過ぎ去って行った。
その時戸部は深刻な顔をして家臣の若者に訊ねていた。
「それでは昼間にここに集まっていたという民の目的は一揆や反乱では無いということじゃな」
戸部は領内で人々が集まり、弓やら鉄砲やらが放たれていたとの報告を受け、何か問題事が起きたのかと心配していたが、そういった状況は無くほっとした様子を見せた。
家臣の若者は地面に片膝を付け、下を向いた状態で報告した。
「はっ、見ていた者たちの話によれば、弓対鉄砲の対決が行われた様で、集まった人々はその観衆だった様です」
それを聞いた戸部は少し顔をしかめた。
「儂の領内で断りもなく弓と鉄砲の対決とは、一体何奴じゃ?」
戸部はこの領地を狙った者が対決と称して試し射ちをしていたのではないかと勘ぐった。その戸部の反応を予想していた家臣の若者は、片膝を地面に付いたまま顔を上げて言った。
「どうもそれが那古野の若殿の様です」
「何、あのうつけと噂のか?」
驚いた表情を浮かべる戸部に、家臣の若者は少し離れた所に立っている商人の格好をした三人を指差しながら報告を続けた。
「はい、実はあの者たちが昨日那古野で行われた弓対決の場で若殿を見ており、今日と同じ人物であったと」
戸部が家臣の若者の指差す方向に目を向けると、そこには日頃地元領主の威厳を見せつけていた笠寺門前町の商人の三人が立っていた。
(あの三人に自分が驚く所などは見せられぬ)
戸部は自身の威厳を保つため、驚きの表情を彼らに見せない様に、少し歩いて彼らとの距離を取りながらこの状況を推察した。
(あの那古野の若殿がこの笠寺で弓対鉄砲の対決・・・、如何なることじゃ、気まぐれか、それとも何かの策略か?)
戸部は吉法師の行動を訝しく思いながら、自身が寄進した地蔵の前で立ち止まった。すると戸部は何気に見た地蔵の顔の表情がいつもと異なる違和感を感じた。
「ん?何か変な感じが?」
不審に思った戸部が地蔵に手を当てると、地蔵の首がゴロッともげ落ちた。
「うわー!!!」
戸部は思わずそれまで保っていた威厳が一瞬で吹き飛ぶ程の大きな驚きの声を上げた。武士にとって、自身が寄進した地蔵の首が落ちることほど縁起の悪い事は無い。
戸部はこれを即座に日頃うつけと噂されている吉法師の仕業だと思った。
「何という事をするのじゃ、悪戯にもほどがあろう!」
鉄砲でもげた地蔵の首を上下逆さまに置いたのは勝三郎であった。勝三郎は通行人たちが驚く中で、よく確認せずに頭を戻していた。
戸部はそれまでの威厳を吹き飛ばして強い憤りを見せていた。その様子を見ていた商人の三人は笑顔を見せながら囁き合っていた。
「おお、あの地蔵は頭が逆になっていたのか?」
「ほー、気が付かなんだ」
「上下逆でもしっかり顔になっておるとは、面白いものじゃな」
そして笠寺の門前町の商人は日頃から商売上手であった。
「おい、あの逆さ顔の地蔵、新たな笠寺の名産になるのではないか」
「お、そうじゃな、さ笠地蔵って所じゃな」
「じゃぁ、せんべえ系にはまだ特産無いから、さ笠地蔵せんべいという事で行くか」
笠寺の繁栄は商人によって齎される。笠寺観音の伝承はその後、逆さ絵や笠地蔵の話に展開しながら全国に広まっていった。




