第一章 吉法師(4)
勝三郎は城内の離れの間で今日の仕事はもう少しで終わりと思いながらのんびりとしていた。
この時同じ部屋にいる大人衆は小豆坂での勝ち戦の話で盛り上がっていた。特に七本槍に選出された比良城の佐々兄弟は那古野から存在として知る人が多かったためひと際大きな称讃の声が挙がっていた。
しかし勝三郎は先程までの吉法師の馬術訓練のお供や、その後の理不尽な説教、そして合戦の祝いの品の荷物運びなどで心身ともにくたくたになっていたため大人衆の話には加わらず、ただのんびりと帰りの時間が来るのを待っていた。尻が痛い、腕も足も痛い、少し早いけどもう今日は帰ってしまおうか、と帰りの時間を今か今かと待ち望んでいた時だった。数人の城の者達がドタドタと言う足音と共に目の前に現れた。
「勝三郎、吉法師様よりご命令、早々に出陣の支度をして馬場まで来る様にとの事!」
「は、なに?なに?なにー!」
勝三郎が驚きの表情を浮かべていると、再度別の者より出立の指令が伝えられ、そしてやはりそこには出陣と言う言葉が使われている。
勝三郎は気が動転して叫んだ。
「まじかーっ!」
聞けば既に吉法師様は既に馬場に向かっているとの事、勝三郎はとっさにどうして良いか分からずあたふたしたが、その姿を見て周囲にいた大人衆が集まって来る。
「何をやっておるのか、勝三郎!」
「時間ないだろうが!」
「急げ、皆で仕度を手伝ってやれ!」
次の瞬間、皆は勝三郎の服を脱がせると強制的に騎馬での外出着に着替えさせて行った。
「損な役回りじゃー!」
勝三郎の思いは今回しっかりとした声になって出ていた。
この時吉法師は馬場にて騎乗の準備を整えていた。先程とは異なる栗毛の馬であるが、この馬も常日頃から訓練されているのか逞しい体付きをしている。馬は狭い奥舎から解放され、これから思い切り外を走る事が出来ると理解している様で足踏みを繰り返し落ち着かない様子を見せている。馬上の吉法師もその馬を冷静に操っていたが、これから勝ち戦の軍勢の中の父の姿を想像して内心落ち着かない状態となっていた。
勝利の軍勢とはさぞかし勇ましいものであろう、と思う。吉法師と吉法師の馬は出立を逸る気持ちで一杯になりながら、勝三郎が来るのを待っていた。そして徐々に勝三郎の参上の遅さが気になり出していた頃、城内の者や城に出入りしている民衆が吉法師を見つけては集まり祝辞を述べて来る様になっていた。
「三河の合戦での勝利、おめでとうございます」
「吉法師様、おめでとうございます」
吉法師は他の領主の嫡男とは異なり、城の中に籠って民衆と別世界にいる様な子では無く、民衆の中で時には生活を共にしながら成長していた。このため民衆にとって吉法師は身近な存在に感じており、皆がその成長を我子供の成長の様に感じていた。
皆は合戦での勝利の報を聞きつけ、吉法師と共にその歓びを分かち合うために吉法師の元に集まっていた。しかし吉法師は父の軍勢の事が気になっていて、皆の声は殆ど耳に入らず、ただ静かに馬上で勝三郎を待っていた。その状態には何かまだ戦が続いている様な緊迫感が窺えた。
その時、一人の若い農婦が幼き子供を連れて吉法師の前に歩み出ると、手に持っていた物を見せながら声を掛けて来た。
「吉法師様、瓜です、採りたてで美味しいですよ、どうぞ」
ふとこの言葉に吉法師は反応して振り向くと、良く出掛けの先で馳走になっていた城近くの顔なじみの農婦であった。吉法師は笑顔を見せると、いくつかの瓜を手に取り、その内の一つを口にした。新鮮な瓜の瑞々しさが口の中に広がる。
「旨い、この瓜旨いな、何て言う瓜じゃ」
この問い掛けに百姓の農婦は笑いながら答えた。
「しょ瓜、って言いますわ」
「しょ瓜?」
吉法師は少し考えてなるほどと思った。
「なるほどしょ瓜、勝利かー、どおりで旨い訳じゃー」
この吉法師の言葉で、周囲でどっと笑いが起きた。
この瓜で吉法師の緊迫感は和らぎ、いつもの様に皆と談笑し始めた。
そこにようやく勝三郎が着替えを整え現れた。
「参上遅くなり申し訳ありません」
吉法師の軽装で騎馬に跨った姿に対して、勝三郎は自分の体に合わせた子供用の胸鎧と小さな兜をまとっており、正にこれから出陣をする井出達である。既に合戦は終わったと言う連絡を受けているが、どうやら勝三郎の出陣という指令に合わせて周囲の者達が変な気を利かせたらしい。しかし若干九歳の勝三郎のこの姿はどう見ても端午の節句であり、皆がその姿を見ては笑いをこらえていた。
「勝三郎、強い子になれよー」
この誰かの言葉で皆遂にこらえ切れなくなり、また一斉にどっと笑いが起きた。勝三郎は皆に注目され恥ずかしく思いながらも騎乗の準備をし始めた。そんな状況の中、吉法師だけは神妙な面持ちで勝三郎を見ていた。
確かに戦は既に終わっているとは言え、合流する軍勢は皆合戦直後の鎧姿である。戦支度の無い状態で赴く自分の方が迂闊かも知れないと思った。吉法師はこの時少し勝三郎に感服する思いがした。
そして吉法師は自分の馬を勝三郎の方に寄せて声を掛けた。
「勝三郎、瓜食え、うまいぞ!」
吉法師はそう言うと、手に持っていた瓜を騎乗の準備が整った勝三郎に手渡した。
「あ、ありがたく存じます」
勝三郎は参上が遅いと吉法師にはまた怒鳴られるかと思っていた所であったが、妙に優しげな様子に不思議に思いながら、馬上で瓜を受け取り即座にひとかじりした。
(瑞々しい……)
そう思いながら勝三郎が振り向くと吉法師は笑顔を見せていた。
「うまいだろう勝三郎、しょ瓜、という瓜だそうじゃ」
「しょ瓜?、おいしいです」
勝三郎にはその意味が良く分からない。とにかく参上が遅れてまた怒られると覚悟して来て、御咎めが無い事に先ずほっとしていた。そして馬上から周りを見渡した勝三郎は、今自分がたくさんの家臣や城の関係者に囲まれながら、主君の殿と並んで馬上で瓜を分け合って食べている事に気が着いた。
特別な存在になっている。
勝三郎はそう思うと同時に何か不思議な感覚を覚えた。吉法師とはかつて乳を分け合い、此度は瓜を分け合い、この様に殿を身近に感じられるというのは家臣にとっては最高に幸せな事だと思った。
先程まで自分の役割に散々愚痴っていた勝三郎であったが、瓜一つで吉法師への親近感が湧いていた。他の兄弟と別れて育ってきた吉法師にとって、乳兄弟の自分は物心付いた時からの一番身近な存在である。このため自分は織田弾正忠家からも特別な存在と認識されている。
これからも嫌な事は多々あるであろう。しかしこれから長く続く縁と思えば大いに大事にすべきであり、瓜一つで単純かも知れないが、一生上手く着いていきたいと思えてくる様になっていた。その思いは勝三郎の今日一日の疲れを忘れさせていく。
勝三郎が再び吉法師の方に顔を向けた時、吉法師は手綱を強く握り直して言い放った。
「いくぞ、勝三郎!」
「御意!」
二人の武士の子はその大きな掛け声と共に、勢いよく城の馬場から大手門へ向かって馬を走らせた。颯爽と走り出す二騎に対して周囲の大きな歓声が上がる。しかし二騎はすぐさま馬首を返して戻って来たかと思うと、元の馬場を通過し城の裏の方向へ向かって行く。
「近道!」
咄嗟に古渡の城に向かうには裏手門から出た方が近いと思った様であった。吉法師はそう言うと、馬場から本丸御殿の中庭を突っ切り裏手門の方に向かって行った。勝三郎も吉法師に続きうまく馬首を返し続く。
二騎の颯爽とした出立の姿は集まっていた皆を魅了していた。二騎はこれからの尾張の国の更なる発展を象徴している様に見えていた。
しかし先程の林秀貞の説教は全く効いていなかった。園庭の中を駆ける二騎により、草木は再び踏みにじられ、見るも無残な状態となっていく。城の御殿や裏手門では、城の者達が合戦での勝利と吉法師の颯爽とした出立で沸き上がる中で、一人庭師の男だけは園庭の前で呆然としていた。