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天下の再構築 ~信長幼将戦記~   作者: 飛里信成


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第五章 女房鉄砲仏法 那古野弓対決(8)

 助右衛門、左近、孫介、新助、与兵衛の五人は弓対決の最後の勝負に向けて、再び弓矢の選定をしていた。


(この少し曲がった矢を上向きに放てば遠くまで飛ぶかも知れぬ)

(これじゃ、この弦が二本付いた弓なら飛ぶ距離も倍じゃ)

(うーっ、このものすごく張りの強い弦、これを引くことができれば)

(この矢羽の付き方、この矢は何か良く飛ぶ気がする)

(長い矢…、飛ぶ距離も長い)


 普通に勝負をして堀の奥の的を狙っても矢は届かない事が分かっている。五人は様々な考えを凝らしながら弓矢を見定めていた。


 この時上座では政秀が最後の一矢を前にして吉法師に話掛けていた。


「若、次の一矢で勝負が決まりますな?」


 しかしその時吉法師は参加者たちのいる射場の方を食い入る様に見ていて、政秀の言葉に対する反応は薄かった。


「そうじゃな」


 吉法師は一言返事を返すのみで、政秀の方に振り向くことなく、射場の方を見続けていた。すると今度は沢彦が吉法師に話掛けた。


「何やら最後の一矢は皆が熱心に考えを凝らしているようですな?」


 この沢彦の言葉には、吉法師は反応し、射場に向けていた目を一瞬沢彦に向けて応えた。


「えぇ沢彦様、実は今この状況が、この対決で一番見たかった所なんです」


 この吉法師の言葉を聞いて政秀は理解出来ずに困惑した表情となったが、沢彦は頷きながら政秀とは逆に納得した表情を浮かべていた。


「なぬ、今が一番?」

「なるほど、そうですな!」


 二人の反応は真逆であった。これまで吉法師の様子を観察していた沢彦はこの時の吉法師の考えを理解していた。


 政秀は沢彦の納得した様子を見ると、密かに沢彦の近くに寄って行き、射場の方を見つめる吉法師を横目にして問うた。


「沢彦和尚、どう言う意味ですか?」


 沢彦は政秀のこそっと訊いて来る仕草を可笑しく思いながら答えた。


「吉法師様はすごいですな、吉法師様はこの実戦を想定した弓対決で、自分はその大将の視線で見ているのですよ」


「えっ?」


 政秀は目を丸くして驚いた。


 政秀は吉法師の中で将来の大将への自意識がそれほど高まっているとは思っておらず、この弓対決も単に興行的な物で、将来の実戦に向けた確認の一環であるとは思っていなかった。


 沢彦は政秀の驚きの表情がまた可笑しく、吹き出すのを堪えながら話を続けた。


「恐らくここまでの対決の展開は吉法師さまの予想通りなのでしょう。そして着目すべきはここ、普通では負けると言う土壇場の状況の中で、人はどの様な創意工夫を施すことができるか、またどの様な底力を発揮することができるか、つまりは弓と言う武器の精神的、肉体的な極限の中で得られる最大効果を見極めようとされているのでしょう」


「その様な深き考えで」


 政秀は俄かに信じられなかった。まだまだ吉法師は子供、この弓対決にしても単純に面白そうだからやってみた、その位のことと思っていた。


 沢彦は話を続けた。


「もし五人がこの勝負をひっくり返す結果を得るとすれば、今がそのための創意工夫を導き出す過程の時、つまりはその過程をどの様に見定めるのかと言う所で、先程の一番大事という言葉がつながるのでしょうな」


 沢彦もこの対決の間ずっと吉法師を観察し続け、ようやくこの弓対決に対する吉法師の思いに到達した所であった。


「結果が出た後から考えても、その創意工夫の過程は当たり前と思ってしまうかも知れませんから、やはり今なのでしょう」


 この沢彦の説明で、ようやく政秀も吉法師の考えを理解することができた。


「若の考えはもうこの爺の及ばぬ所になっておるかも知れませぬ、あのうつけの様な成りも、何かお考えあっての事なのでしょうな」


 単純な子供の行動に見えてもその実には深い考えがある。政秀はこれまで幼子から育ててきた吉法師が自分の手から離れて行く寂しさを感じた。しかし立派な領主に育て上げるという、自身の目的は確実に叶って来ている。政秀は急速に革新的な考え方をする様になっていく吉法師を、複雑な笑顔で見つめていた。


「さて、対決がどの様な勝負となり、どの様な結果になって、吉法師がどの様にそれを考えるか、拙僧も楽しみです」


 沢彦も笑みを浮かべながら吉法師の方を振り向き、また観察を始めた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 内蔵助は犬千代と九右衛門の横で大きな声援を送っていた。


「孫介兄ぃ、最後じゃ、がんばれー」


 これまでぶすっとした表情で、一緒にされることから避けていた内蔵助も、日頃顔を合わせては自分に声を掛けてくれる兄の活躍を見て、兄への親近感が増していくと共に、自然と応援する様になっていた。


 この時三人の視線の先で、孫介は片手では持てぬほどの異常に大きな弓を射場に持ち込んでいた。


「でかいなぁ、あの弓は!」

「あの大きな弓をどう使うつもりじゃ、ぬしの兄者は?」

「うーん、さぁ?」


 三人が見つめる中で、孫介は持ち込んだ弓を地面に射ち込んだ杭に角度を合わせて固定すると、その弦の張りを確認していた。


 やがて他の五人も最後の勝負に選んだ弓矢を携えて射場に並ぶと、盛り上がっている観衆を前に青山が声を上げた。


「次の一矢がこの弓対決の最後である」


 この言葉で観衆の盛り上がりは最高潮となり、一際大きな声援が各参加者に向けて送られた。


 そして青山が軍配を振り上げると、それまで大きな歓声を上げていた観衆は一転して静まり返り、その勝負の行方に着目した。


「構え!」


 青山の号令と共に、五人は弓に矢を当て、弦を力の限り引っ張った。又兵衛以外は初矢と何かが異なっている。特に孫介は杭に固定した大きな弓の弦を両手を使って力いっぱい引張っていた。


「放て!」


 青山が軍配を振ると共に大きな号令をかけると皆の矢が一斉に矢が放たれた。


ばしっ!

ばしっ!

ばしっ!

ばしっ!

ばしっ!

ばきっ!


 その一斉に放たれた音の中で、明らかに一つだけ違う音があった。


 射場の近くで見ていた観衆がその音の方を振り向くと、又兵衛の目の前で一本の矢がこぼれ落ちているのが見えた。


しーん


 その観衆の皆が一瞬何が起きたのか把握できなかった。


「何じゃ、あのしょぼい矢は?」

「おい、あれは又兵衛の矢じゃないのか?」


「え、えぇー!」


 大きなどよめきが起こる中で、又兵衛はなぜ自分の放ったはずの矢が、すぐ手前にこぼれているのか理解出来なかった。


(な、何故じゃ!)


 又兵衛は不思議に思いながら弓の上先を見ると、弦を巻いた弓先の部分が折れていた。


 高所対決で足場から落下した際の衝撃が原因であった。初矢では辛うじて保ったものの、この二射目では耐えられず、矢が放たれる寸前で折れ、矢はほとんど飛ばずにこぼれ落ちていた。


 又兵衛は折れた弓を見ながら呆然と立ち尽くした。


 一方で一斉に放たれた矢でも異常が起きていた。


「曲がる!」

「まがる!」

「まがうー!」


 助右衛門、左近、与兵衛の三人は矢を放った後、ほぼ同時に叫んでいた。


 いずれも堀の奥城外の的を狙い、思い切って放たれた矢であった。


 助右衛門が距離を稼ぐべく、上向きに射られた柄の曲がった矢は、上空で向きを変え右の方に逸れていった。


 また左近が選んだ二本の弦が張られた弓は、右の弦の反発力の方が微妙に強く、その弓で放たれた矢は空中で左の方に逸れていった。


 そして与兵衛が放った長い矢は(しな)り易く、空中で揺れ曲がると、大きな弧を描いて失速していた。


 三本の矢は先ず助右衛門と左近の矢が空中で接触し、少しの間絡まりながら飛んでいた所に、与兵衛の矢が上から激突した。


「あぁー!」


 観衆の叫び声の中、三本の矢は絡まりながら落下していった。


「こりゃだめじゃ」


 観衆の叫び声が溜息へと変わる中、三本の矢は意外な幸運を見せた。


どっかかっ!


 三本の矢が落下したのは、丁度堀の柵手前の的が設置されていた所で、三本はほぼ横一直線に並んで命中した。


「おー、なんという幸運じゃ!」


 この矢筋を見ていた観衆はこの幸運に大きな歓声を上げた。


 一方で残りの観衆はその先の的に向かう二本の矢を見つめていた。


どかっ!


 勢いのある一本の矢が堀を越えて城外の的に命中したが、もう一本の方はその手前で勢いを失い堀の中に消えて行った。


「よっしゃー、命中じゃ!」


 奥の矢に命中させたのは孫介であった。孫介は高々と拳を突き上げると、観衆の声援は孫介一色になった。


「おー、孫介が奥の的に当てたぞ!」

「孫介の勝ちじゃないか!」

「兄者ー、やったやったやったやったー!」


 内蔵助も観衆と一緒に喜んでいた。


 一方で新助は渾身で放った矢が堀の中に消えて行ったのを見て残念に思っていた。


(やはり届かなかったか!)


 皆と供に全力を出して臨んだ結果であり悔いは無かった。新助は気を取り直して笑顔を作り、孫介の矢の命中を称えようとした時であった。


「あっ!」


 新助は思わず声を上げた。


「ああっ!」


 堀の奥城外の的の近くに控えていた勝三郎も声を上げた。


「ああっー!」


 そして同時に観衆からも大きな声が上がった。


 そこでは何と堀の中に消え去ったはずの新助の矢が、堀の中を吹き付けていた一陣の風にふわっと舞い上げられていた。


「なにー!」


 観衆の皆が騒めく中で、その矢は堀を超えて落下し始めた。


かつん


 そしてその矢は微かな命中音を発した。そこは奥の的の上であった。


おー!!!


「新助の矢も奥の的に命中じゃー!」

「まさか風を味方につけるとは!」

「これは奇跡じゃ!」


 大きな歓声が湧き上がると共に、観衆の皆が、先程の幸運の三矢を超える奇跡の一矢に驚きを示していた。


「なんまんだぶ、なんまんだぶ」


 この新助の神憑りな一矢を拝むものまでいた。


 新助は自身でも驚きの結果にただたじろいでいた。


「結局最後に勝ったのは誰なのじゃ?」


 青山は四郎と勝三郎から最終結果を受けると、観衆の前に出て来て最終結果を発表した。


「一発逆転超遠射対決の二矢目は孫介、新助が八点、助右衛門、左近、与兵衛が四点、又兵衛が無得点である。そして最終結果で優勝は…」


ゴクリ


 青山が作った発表の溜に、観衆の皆が一瞬息を飲み込んだ。その会場の雰囲気を見計らって青山は声を上げた。


「得点二十一点で新助じゃ!」


おおー!


 観衆の皆の声と目線が新助に集まるが、新助は恥ずかしそうにして周囲にお辞儀をしていた。


「以下孫介二十点、左近十八点、助右衛門と与兵衛が十七点、そしてなんとビリは十六点の又兵衛じゃ」


青山の発表に観衆の目線は今度は又兵衛に集まった。


(弓射ちの勝負で儂は負けぬ、違う、これは何かの間違いじゃ、間違いじゃー~!」


 又兵衛は心の声は自然と表の声となって現れていた。


「うーむ、本命であったのに」


 ボロボロの袴を纏い、折れた弓を手にする又兵衛は、この対決の結果にまさに身も心もボロボロの状態となっていた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 内蔵助は勝利を逃した兄の孫介を見ていた。その横で犬千代と九右衛門は一生懸命兄を応援していた内蔵助を気遣いながら話掛けていた。


「ぬしの兄者、惜しかったのぉー」

「でも最後を当ててようやったよな」

「あぁ、ようやった」


 犬千代と九衛門は孫介の健闘を称えていたが、内蔵助は話に応じず、ただ黙ってじっと孫介の方を見つめていた。


(孫介兄ぃ、残念であったが取り敢えず、良かったぞ!)


 内蔵助は言葉には出していなかたっが、内心でその健闘を称えていた。


 射場の孫介はこの時笑顔で新助の頭を抱え、手荒く勝利を祝福していた。その表情に悔しさは見られなかった。背後では与兵衛が背中をつついていた。与兵衛は指を口に当て、新助に何かをねだっている様であった。


「楽しかったのぉ」

「あぁ、今日は来てよかった」


 彦右衛門と左近は観衆の声援に手を振って応えていた。


よいよいちー!


 一部の観衆から声が上がると、二人はおどけながら踊りを合わせていた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 吉法師は上座から会場の様子を見渡しながらぼそっと呟いた。


「新助の勝ちじゃな」


 これに政秀が応えた。


「若、意外な結果でしたな、若の言われた通り、確かに実戦を想定した形にすると何が起こるか分かりませぬな」


 吉法師は少し勝ち誇った様な顔をした。


「そうであろう爺、鍛錬もただ毎日射るだけでは実戦で役に立たぬことがあると言うことじゃ、それにこの様な対決の場があれば、日々の鍛錬にもやる気が出ると思うぞ」


「なるほど、その通りですな!」


 政秀は首を縦に振って頷いていた。


 そして次に沢彦が吉法師に訊ねた。


「吉法師殿は大将の立場で今回の対決を観戦して、その結果をどの様に考察されたのですか?」


 この沢彦の言葉に吉法師は迷った。


(那古野の吉法師が弓という武器の限界を、お祭りの様に見せかけて開催された弓対決の中で見極めようとしている、その様な話が広まれば、直ぐに他国から警戒されてしまうであろう。それではこの様なうつけの格好をしている意味も無くなってしまう)


 吉法師はこの弓対決の開催をうつけの若殿の興事として、民衆の中で広まっておれば良いと思っていた。


 吉法師は少しの間、この沢彦の問い掛けに対して、聞こえなかったふりをして考えていたが、ふと良い答えが浮かび、含みを持たせた様な笑顔で沢彦に言った。


「儂の考察ですが、それはきっと沢彦様と同じです」


 同じであるから敢えて口に出す必要はないでしょう。そう言って直接回答する事を避ける吉法師に沢彦は笑顔を返した。


「それでは改めて伺う必要はありませんな、では拙僧が言葉にしましょう」


 そう言って沢彦は観衆の前に向かって行った。


 観衆の前にいた青山は、沢彦から目で合図を受けると、沢彦の様子を察して観衆に向かって叫んだ。


「ここで何と沢彦宗恩和尚が、この弓対決の総評をして戴けるそうじゃ、皆の衆、ありがたいことですぞ、聞き逃されること無きよう」


 これには観衆の皆が驚いた。


「えー、沢彦様が最後の総評?」

「この様な勝負事でか、驚きじゃ!」

「弓のこと、分かるのか?」


 尾張の国でも有名な沢彦和尚が、この様な弓対決の場で総評を述べるなど前代未聞であった。


 沢彦が観衆の前で一度手を合わせると、観衆は一斉に静まり返り、参加者の六人も規律良く並んで、その言葉に深く聞き入った。


「先ずは対決参加の衆、お疲れ様でした。良き対決で拙僧も非常に楽しませてもらいました」


 沢彦はそれまでの対決の雰囲気を一変させて、その総評を始めた。


「先ず最初の対決で又兵衛殿が勝った要因は本来の弓術としての実力です、実戦想定の中、想定外の出来事でビリとなりましたが、内在する弓の実力は本物であり、これは誇って良いと思います」


 最後に観衆の前で沢彦の好評を得た又兵衛は、何か救われた気分になり笑顔を見せていた。


「次の対決で孫介殿が勝った要因は正に執念です、念ずれば花開くと言いますが、勝負の実を結びました、何事にも諦めぬ気持ちは大事です」


 次に好評を得た孫介も、面目が立ったと笑顔を見せていた。


「そして最終的に新助殿が勝った要因は一言で言うと運です、運と言うのはとにかく強い、しかしそれでは他力を得て勝った様に思えるがそうではない、新助殿は日頃から周りへの思いやりを大事にしていると聞きます、それが運を呼び込む力となり、良き矢、良き風との出会いとなったのじゃと拙僧は思います、皆の衆も普段の思いやりを大切になされてください」


 新助は民衆の生活においても良き模範とされ、恥ずかしさで顔を上げられずにいた。


 吉法師は上座から沢彦の話と観衆の様子をじっと窺っていた。


(さすがに沢彦様は良き話をされる)


 観衆も参加者も皆が有難い話として聞き入っていた。沢彦が最後にまた手を合わせてお辞儀をすると、皆も一斉にお辞儀をした。


(しかし沢彦様の言葉には重みがある、観衆がこれほど人の話を真剣に聞き入るものなのか、これが仏法の力であるとすれば、民衆を治めるために仏法は重要な手段になるやも知れぬ)


 吉法師は改めて普段気軽に話をしている沢彦の、民衆の中での存在の大きさを認識していた。そして沢彦が一度上座の方に戻って行くと、最後に青山が声を上げた。


「これで今回の対決は全て終了じゃ、皆の衆には強く印象に残ったと思うが、もし弓射ちを体験したい者は、この後是非申し出て欲しい、現在この城では強靭な若者募集中じゃ」


 この若者の募集宣伝は城の若い武者衆を育てる青山の対決開催における最大の目的であった。青山は黄金世代の弓対決を行えば、非常に盛り上がると共に、将来有望な若者がたくさん体験志願して来ると考えていた。


 そして青山の期待通り、この言葉の直後から青山の周りにはたくさん集まり出していた。


「ちょっとやってみたーぃ」

「だめ、ぼくがさきー、」

「ちがうよー、ぼくだよー」


 しかし集まって来たのは小さな子供ばかりであった。


 気が付けば辺りは徐々に陽が傾き始めていた。


「それでは吉法師殿、拙僧はこれで」


 総評を言い終えた沢彦は上座まで戻って来ると吉法師に帰途の意向を示した。


「沢彦様、総評ありがとうございました、あ、そう言えば今日来られたのは、何か用がお有りだったのでは?」


 吉法師は沢彦が何気に来られた時のことを思い出して訊ねると、沢彦は笑顔を見せながら言った。


「いやいや、この近くまで来たので寄ってみたまでじゃ」


 そして沢彦は吉法師に別れを告げると、民衆に紛れ、弓対決の会場を離れて行った。


 沢彦は大手門の方に向かう中で、那古野に来る前に立ち寄った吉法師の父信秀との会話を思い返していた。


『頼む沢彦、吉法師のうつけの噂を確認して来てくれ』


 沢彦の記憶の中の信秀は、悩まし気な表情を浮かべ、民衆の中で広まっている吉法師のうつけの噂のことを案じていた。


 確かに吉法師の格好や興行染みた弓対決の開催を見れば、表向きうつけの若殿に思われる。しかしその芯を覗けばもう将来の領主と言う自覚が芽生え、羽ばたき始めているのが見える。


「大層な嫡男じゃないか、心配要らぬ」


 沢彦は悩まし気な顔をしている記憶の中の信秀に、フッと笑みを溢しながら呟いた。


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