第一章 吉法師(1)
天文十一年(一五四二年)
尾張国熱田湊、そこは熱田神宮への参拝を軸として都から東国へと向かう海運商業都市の一大拠点となっていた。近くの市場には近隣で採れた農産物や湾で獲れた海産物、そして東西諸国の名産の品々が並んでおり、地元の商人のみならず遠方からも多くの武士や町人、農民、僧侶などが集まっている。人が人を呼ぶ熱田湊は興行者たちをも呼び込み、尾張の中でも有数の活気のある場となっていた。
市場の通りに荒々しい蹄の音を立てながら一騎の騎馬か駆け込んで来る。
カカッ、カカッ、カカッ、カカッ
騎馬は慌てて右往左往する人々や乱雑に置かれた物の障害を苦にせず、その速度を維持したまま右に左にと軽快に交わし颯爽と通りを駆け抜けて行くと、両脇を高い木々に囲まれた坂道を駆け上がって行った。風に揺れる木々の合間からは木漏れ日が射し込み、延々と行く先に光と影の模様を描いている。その模様に包まれた坂道を駆け登って行くと、その道は尾張那古野の城へと続いていた。
騎馬は城の門前で城番の静止を振り切ると、そのまま城内の奥へと突き進んで行った。
カカッ、ターッ、タタッ
そして馬止めの柵を飛び越えて馬場をすり抜けると、そのまま内堀に架かる橋を渡って本来馬で入るべき所ではない本丸御殿の庭園まで来てようやく静止した。
それは場違いながらも巧みな手綱捌きであった。しかしその馬を操る騎手の体は馬に比べて小さくまだ幼顔をしている。本丸御殿からは女中たちが慌てた様子で駆け寄り、整列して一斉に声を上げる。
「おかえりなさいませ、吉法師様!」
馬上の子供は齢十と幼きながらこの那古野城で城主を務める織田吉法師であった。吉法師は周囲の声掛けに対して何も反応を示さず、馬上から後方に目を向けている。その近くでは庭の手入れをしていた男が困惑した表情を浮かべていた。吉法師の騎馬は庭園の中に入り込み、周囲の植木や花をは無残に踏み荒らしていた。
するとその時、御殿の中から初老の男が出て来て吉法師に声を掛けた。
「若、だいぶ馬術の腕を上げられましたな」
その男は織田家の家老の一人平手政秀であった。政秀は吉法師に褒め言葉を述べた後、その言葉の方向を切り替える。
「しかし若、御殿の庭園では馬術の訓練をお控え願いたい。お庭を大事にされている者もおりますれば」
吉法師は物心付く前から織田弾正忠家の嫡男としてここ那古野城の城主となり、政秀からその自覚と良き領主になるための教育を受けていた。
以前那古野城は将軍家に近い家系の駿河今川家の城で、吉法師の父である織田信秀が奪取した後、幼き吉法師に与えられていた。熱田湊に近いこの城では都から訪れる様々な客人をもてなす機会が多く、日頃から御殿の庭園の手入れに余念が無かった。
この日も庭園では何人もの庭師により入念な手入れが行われていた。吉法師の近くで佇む庭師の男は精魂込めて手入れをしていた植木や花が道端の野草の如く荒らされたことで、困惑の表情から悔しみの表情へと変貌させていた。しかし相手は幼いながらもこの城の城主で自分の雇い主である。ひたすら我慢するしかなかった。
一方の吉法師は政秀の言葉や庭師のことなど全く気にしていない様子で、小刻みに馬を操りながら政秀に向かって話し掛けた。
「爺、びっくりしたか?」
自分の注意が伝わっていない、毎度ながら政秀は吉法師の反応に困惑しながら応える。
「いや、びっくりしたかどうか、と言う事ではなくて」
「そうか、でも戦になったら、お庭が大事どうこうではないぞ」
「はぁ、それはまぁそうですが……」
毎度ながら話が噛みあわない、と政秀は思った。
吉法師との会話はいつもこの様な感じであった。何を考えているのだろうか、なぜこの様な事をするのだろうか、織田弾正忠家の嫡男としての自覚はあるのだろうか、政秀は毎度吉法師の行動に困惑しながら言い聞かせているが一向に改善は見られない。
政秀が今回はどの様に言い聞かせようかと思案していると、吉法師は突如馬から飛び降り、少し離れた庭の植木に向かって真っすぐに庭園の中を駆け出した。そして庭師の男の前を通り過ぎ、植木の影の所に何か蠢く物を見つけると素早くそれを捕まえた。
庭師の男の足元ではたった今手入れをしたばかりの花が無残にも踏み潰されていた。庭師がしばしの間絶望的な思いで呆然としていると、吉法師が手の捕えたものを自慢げに見せに来た。
「どうだ、儂の勇気の程は?」
そう言って差し出す吉法師の手の中には小さな蛇が捕まえられていた。それを見て庭師の男はほとほとうんざりした気分になった。蛇などどうでもよい、せっかく手入れをした庭園を、すぐ荒らされる事に我慢がならない。しかし相手は子供と言えどもこの城の主、自分の雇主であり、怒りをぶつける事は出来ない。
「その様なちっぽけな蛇では、どうでしょうかね?」
そう言って少し嫌味を含ませるのが精一杯であった。しかし吉法師はその庭師の言葉にキッとなって言い返した。
「毒を持つ蛇であれば問題はその大きさではないであろう、ぬしは小さな蛇は怖くないと申すなら、城主が幼いとあなどるのか?」
この吉法師の言葉に庭師はたじろいだ。
吉法師は物心付く以前より領主となるための教育を受けて来ており、思考の感覚が普通の子供とはかけ離れている。庭師の男は吉法師が自分とその小さな蛇の意味を含ませていると分かると、それ以上恐れ入って何も言えなくなり、深々と頭を下げてそそくさとその場を離れて行った。
政秀はその様子を御殿の縁側より終始見続けていた。難しい性格の若様ではあるが、鋭い理屈、そして何よりも領主になるべき自覚を持っていることが分かる。
これまで政秀は吉法師の傳役としていつも不安な思いを募らせていた。自分は吉法師をしっかりとした織田弾正忠家の嫡男として育てる事が出来るのであろうか、突飛な行動や言動があるのは自分の育て方に何か不備があるのではないか、織田弾正忠家の将来がかかっていると思うと傳役としての失敗は許されない。しかしながら吉法師の理解し難い行動は日々その度合いを悪化させており、周囲からはうつけではないかという声も上がり始めている。
最近では将来の領主としての自覚も無いのでは、という声も上がっていたが、今の会話を伺う限りではその自覚は一応あると見られる。
末は大殿の良き後継ぎになっていただかねばならぬ、政秀はそう思いながら少しほっとしていた。
その時吉法師は庭園の隅に捕まえた小さな蛇を放していた。しかし未だ興味が尽き無いのか、蛇の後を観察しながら追い続けている。その姿は普通の子供であった。政秀はその様子を見つめながらいつしか笑顔を見せていた。
するとその時もう一人の家老である林秀貞が離れた場所から政秀を見つけて声を掛けた。
「政秀、今日はまだ大殿からの使者は来とらんのか?」
昨日の使者は三河に向かった信秀率いる尾張の軍勢は国堺を越え、三河国内の味方勢力を糾合しながら本日松平氏の居城の岡崎城に向かうと伝えて来ている。
秀貞はもう戦が始まっているやも知れぬと考え、緊迫した面持ちで政秀に声を掛けたが、政秀は庭園の方を見ながら何やら薄笑みを浮かべている。秀貞は更に政秀に近寄り声を掛けた。
「政秀、気持ち悪いぞ、庭を見ながら何をにやついているのじゃ?」
秀貞は何かおもしろい物があるのかと思いながら庭園を覗いた。しかし特にその様な物は無く、逆に庭園が酷く荒れている事に気がついた。
「あぁ、何じゃ、庭が酷く荒れているではないか、政秀、荒れている庭の何が面白いのか?」
「いやいや」
政秀が苦笑しながら秀貞に吉法師の様子を説明しようと思った時だった。
「わー、あぶないー」
吉法師とは異なるまた別の子供が大きな叫び声を上げながら、馬に乗って庭園に乱入して来た。その手綱捌きは吉法師とは異なりよたよたしており、庭園に対しては吉法師と同じで植木や草花が踏み潰されている。
「はぁはぁ、やっと着いた」
その馬上の子供はかなりの距離を駆けて来たのであろうか、もう息も絶え絶えであった。その馬に乗った子供の姿を目にした林秀貞と吉法師は同時に怒鳴りつけた。
「勝三郎!」
「勝三郎!」
「ひっ!」
名前を呼ばれたその子供が馬を下りると、二人は一気に駆け寄り怒涛の如く説教を始めた。
「勝三郎、馬で庭園を荒らしては駄目であろう、武家の役目は戦だけでないぞ、客人のために城をきれいにしておくのも我らの務めであると常日頃申しているのに、クドクドクドクド……」
「勝三郎、遅いぞ、おぬしが遅れたから儂の一騎駆けみたいになってしまったではないか、あれほど遅れをとるでないぞと申したのに、日頃の訓練が足りんのだ、クドクドクドクド……」
勝三郎(後の池田恒興)は吉法師と乳兄弟の関係である事から同年代の遊び相手、そして訓練を共にする相手として幼き頃より吉法師に仕えていた。
秀貞は最近自分の言う事を全く聞かない吉法師に対して度々苛立つ事があったが、その様な時には吉法師への当て付けの意味を含め、傍にいる勝三郎に強く怒る様になっており、いつしか勝三郎は吉法師の身代わり怒られ役となっていた。
「勝三郎、ぬしの乱れが城内が乱れとなり、果ては国の乱れとなるのじゃ、もっと精進しなければ駄目であろう、クドクドクドクド……」
「勝三郎、いつもぬしが遅れるから、格好悪い騎馬隊になってしまうのじゃ、もっと鍛錬しなければ駄目であろう、クドクドクドクド……」
二人の説教はいつ果てるとも無く続いていた。勝三郎は左右から二人に納得のいかぬ理由で同時に責められ、反論したい気持ちを平伏しながら必死に抑えていた。自分も池田家の家中では嫡男として高い位置にあるが、吉法師の前では家臣である。子供ながらにその身分の差を突き付けられる事は、日々悔しく思うことであった。
いつもこんなんで損な役回りじゃ、勝三郎はこの様な時にいつも父から受けた言葉を思い出す。
「すさまじきものは宮仕え、人に仕える身となれば、何事も儘にならぬ事が多きもの、勝三郎、心してお仕えするのだぞ」
父のこの言葉の意味は深い。父上もそのまた父上もこうやって苦労して来たのだ。そう理解することで少し気は楽になり、自分もまた負けずにがんばっていこうと思う。しかし二人の説教は延々と続いている。勝三郎は、ただただ平伏し、ほとぼりが冷めるのを待つばかりである。平手政秀はまぁまぁ、と秀貞を抑制してくれているが、既に秀貞の説教は何か次の段階に及んでいる。
「もう少し武家のしきたりを重んじ行動を慎まれよ!」
時折吉法師の方を見て言う秀貞に対して、勝三郎は本当は吉法師様に言いたいことなのだろう思うが、当の吉法師本人は全く自分の事とは思っていない。
「勝三郎は手綱の取り回しが駄目じゃ、動きは遅いし馬との呼吸が全く合っておらん」
吉法師の方は只々勝三郎の手綱捌きの問題点を上げては駄目だしをしている。自分はこの殿に一生お仕えする身、やはりそれはあまりに辛く損な役回りという気がする。
父の言葉を胸に一度は負けずにがんばろうと思った勝三郎であったが、延々と続く両耳への説教にまたその気分をへこませていた。