第三章 あえの風(7)
造酒丞と佐久間衆が神社で模擬戦の後片付けをしている中、吉法師と勝三郎、孫介、与兵衛、新助の五人は門前町へと逃げる小六と三人の川並衆を追い駆けていた。
敗色濃厚であった勝負を引き分けに持ち込むために逃げる、そう決めてからの小六の行動は徹底していて、走り去るのに邪魔となる武器の槍柄を早々に投げ捨て、ひたすら走って逃げていた。
「待てー、ころくー」
「はっはっはー、槍柄の勝負は終いじゃ、悔しかったら捕まえてみろー」
後を追う吉法師達は中々追い付けずにいた。
「小六め、何とも往生際が悪い」
「まぁ、あ奴ら今は商人だからな、あのくらいの気概でないと商売は成功せぬのじゃろう」
「模擬戦では相当意地も見せていたし、これで最後に負けが確定しなければ、商売に好印象がつながると見たのであろうな」
「しかし戦の判断をその場の損得で決めると言うのは、儂ら武家も見習う所があるやも知れぬ」
「ふっ、色々な意味で価値のある模擬戦であったのぉ」
「ああ、でも最後は絶対捕まえてやる」
「うむ、このままでは我等もすっきりせぬからのぉ」
「待てー、小六ー」
吉法師達は合戦の結果を振り返りながら小六らを追い駆けていた。
門前町に入ると、小六の配下の三人は徐々にその走る速度が落ち、先頭を走る小六に着いて行けなくなっていた。
「ゼェゼェ、お頭、もう儂走れねえっす…」
「わ、儂もす」
「お頭、儂らに構わず逃げてくだせぇ」
前を走っていた小六は後ろを振り返ると、もう三人とも汗だくで余裕の無い表情が見て取れた。
「分かった、ではぬしら、次の通りで左右に分かれて逃げろ、奴らの狙いは本来儂一人じゃ、ぬしらの方には誰も向かわぬであろう、その後神社に戻って他の者たちをまとめて湊に向かえ」
「え、で、お頭は」
「儂は大丈夫じゃ、奴らともう少しこの鬼ごっこを楽しむとする」
「お、おかしら~」
三人は頭の小六に着いて行けない自分のもどかしさ、そして小六の部下を思う情に接し、心の奥底から溢れて来る涙で、しばし前が良く見えない状態になりながら走っていた。
「うわ~ん、おかしら~」
模擬戦の事も知らぬ門前町を行き交う民衆には、吉法師等が槍柄を振り翳しながら追っている前を、号泣しながら必死に逃げている川並衆の姿が映っていた。
「何じゃ、あれは?」
「川並衆の奴らじゃが、何かいじめられている様じゃのぉ」
「また悪い事でもしたのかのぉ」
囁きあっている民衆に小六は走りながら怒鳴った。
「悪い事などしておらぬわ」
そう言う間に交差点の通りが迫っていた。
「よし、ぬしら行け」
「おかしら~、ご無事で~」
そう言うと三人の川並衆の男達は真っ直ぐ進む小六に対し左右に分かれて逃げて行った。
「吉法師さま、奴ら、三方に分かれて我等を撒くつもりじゃ」
「他の者に用事は無い、小六だけを追えば良いじゃろう」
「そうですね」
そう言って吉法師達は全員で小六を追った。
小六の目論通りであった。
この後、門前町を走り過ぎる時も小六の逃げる速さは落ちてはいなかった。
「どこまで逃げるんだー、小六」
「どこまで追っかけて来るんだー、おのれらー」
小六はただ逃げ、吉法師たちはただ追い駆ける、本当に単なる鬼ごっことなっていた。
「はぁはぁ、待てー、小六」
「はぁはぁ、小六、いい加減に諦めろー」
小六の逃げる速度は一向に衰えを見せる事が無く、徐々に吉法師たちとの間に距離の差が生じつつあった。すると小六は後ろの吉法師たちの方を振り向くと余裕顔を見せて叫んだ。
「何じゃぬしら、もう根を上げたのか、ではこの勝負儂の勝ちじゃな」
先の模擬戦が無効となりその後の鬼ごっこで負けを宣告される。その小六の言葉に孫介たちは憤慨して勢いを盛り返した。
「何だとぉ、言わせておけばー」
「まだまだですよー」
「がー」
「負けるかー」
「はっはっはっー、その意気じゃー」
そんな事を言い合いながら逃げている間に、小六は段々とこの模擬戦に対して可笑しさが込み上げてきていた。その昔の幼少時、吉法師の父信秀に城を追われた時と同じ様に、今は倅の吉法師に追われている。しかしその時とは異なり命がかかっている分けでも無ければ、一族が滅ぶという様な危機的なものではない。全ては子供の遊びに付き合った結果、自分は今逃げる立場になっているだけである。
「しかしあそこで旗印の棒を使うかな……」
小六は走りながら先程の模擬合戦を思い起し、吉法師らの武器の選択、間合いの取り方、そして突撃の仕方などを思い起こしていた。
「憎たらしいが凄い嫡男坊かも知れぬ」
小六は吉法師に対して、何か親近感が湧いていた。
「ころくー、待てー」
吉法師たちはまだまだ声を出しながら追って来る。
「おー、まだ元気がある様じゃのぉ、よーし、もう一丁、追い掛けて来てみよ」
「小六め、疲れを知らぬ男じゃなー」
「てぃ、負けるかー」
「おぉ!」
一同は門前町から更に津島の湊の方に向かって走って行った。
津島の湊が見えた時、逃げ足の速い小六は吉法師たちとの距離を更に広げていた。そして前方に宵祭の巻藁船が見えた時、その手前の通りに吉法師の母土田御前を始めとする土田、生駒、前野の親族の皆が集まっているのが見えた。
この中にいる生駒蔵人は小六の義兄であり、土田御前の従兄弟でもあった。またそこに一緒にいる前野長衛門は小六と妻同士が姉妹という間柄の義兄であった。
小六は逃げる傍ら声を掛ける事も無く、皆の横を一気に走って通り過ぎようとしたが、それに気が付いた長衛門から声を掛けられた。
「何をやっているんだ、小六」
小六は走りながら答えた。
「勝負の最中じゃー」
その小六の答えに蔵人と長衛門は互いに顔を合せながら首をひねった。
「勝負の最中?何の事だ?」
「さぁ?」
その後小六は少し離れた所で急に立ち止まり、思い出したかの様に長衛門に向かって叫んだ。
「長衛門、悪いが門前町の材木問屋行って金払っておいてくれー、頼んだぞー」
「はぁー?、何だそれ」
そう言うと小六は湊の方へ向かって走り去って行った。
長衛門にはいよいよ何の事か分からなかったが、取り敢えず承知する事にした。まぁ行けば何かしら分かるであろうと思った。
するとその後程無くして、今度は吉法師たちがその横を通りかかった。吉法師は前を走っていた小六が話をしていた人達の中に母の土田御前がいるのが見えた。
「ほう、小六は母上の親類筋に関係する者であったか」
そして走りながらその集団の横を通り過ぎようとした時、なんとそこに意外な姿があるのに気が付いた。
「き、吉乃か?」
そこには先程の吉乃の兄御や実弟の勘十郎、そして他の何人かの子供に紛れて、吉乃の姿があった。吉乃も自分に気が付いている様で、こちらを見て笑顔を浮かべている。
「吉乃も母の親類筋の者……そうか!」
吉法師は吉乃が生駒屋敷の娘である事に気が付いた。生駒家は母の実家の土田家と縁が深い。だからこそ吉乃は自分の事を良く知っていたのである。吉法師は吉乃の身元が分かり、そして自分の親類縁者だと知る事ができて、模擬戦の結果とはまた別の嬉しさが込み上げてきた。
「小六が模擬戦の勝利のご褒美をくれた様なものじゃな……」
この時、逃げる小六も追う吉法師たちも、もうお互い表情は笑顔になっていた。
「待てー、小六ー」
そう怒鳴りながらも、吉法師はここに案内してくれた小六に内心感謝していた。