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第三章 あえの風(1)

 本格的な夏の訪れを前にしたこの日、那古野の西方、天王川沿いにある尾張津島では湊町を上げて天王祭が行われており、近隣諸国よりたくさんの人々が集まっていた。


 湊の方では宵祭に向けて、職人達が津島五車と呼ばれる巻藁(まきわら)船に提灯の飾り付けを行っていた。その横で佐々孫介、毛利新介、川尻与兵衛、池田勝三郎の四人は他の織田家臣の者達と共に積荷の運搬作業を行っていた。


「何でこんな祭りの日にお勤めせにゃならんのじゃ」

「全くじゃ、今日は働いている奴などおらんじゃろ」

「まぁ、早く終らせて祭りを見に行こうぜ」

「そうですね」


「おまえらー、早くそこのやつ運べー」


 運搬を指揮している年配の男の声が響く。


「はぁ、これ祭りで使えたら目いっぱい遊べるんだがな」

「はははは、早く終らせちまおう」

「ああ」

「それにしても重い」


 荷箱からはジャラジャラという音が鳴り響いている。その荷は内裏築地修理を名目として織田弾正忠信秀が朝廷に献上する四千貫(現在の金額で1億円位)に及ぶ銭金で、その目的は尾張における最高の官位を得る事であった。これにより信秀は織田本家を凌ぐ地位となり名実共に尾張の支配者となる。


 朝廷への献上役としては、織田信秀の名代として家老の平手政秀が京に上洛する予定になっていた。また佐々政次と柴田勝家が護衛役として政秀と一緒に京に赴く事になっており、二人は積荷の運搬作業を監督をしていた。


 その時吉法師と政秀は津島神社の門前町を歩いていた。津島では湊町が東西の物流の中継基地として物資で溢れているのに対し、門前町では津島神社への参拝にて集まる人々をもてなす地場産物が集まり大きな市を成している。またその様な門前町には文化として風情を楽しむ場所もあり、吉法師と政秀は一軒の舞小屋を目指して歩いていた。


 その舞小屋の先生は元々清須の出身で、都にて幕府の祐筆の仕事を請け負いながらも、時折舞小屋に来ては町民達を相手に曲舞を教えていた。また先生は都の朝廷にも顔が利くとの事で、此度政秀は朝廷への献上の仲介役を依頼しており、先生の上京に合わせて一緒に京に赴く事にしていた。


 吉法師が先生に会う目的は、自分の覚悟を秘めた敦盛の舞の習得である。先生へは父信秀から前以て書状でその旨が伝えられており、先ずは一度本物(・・)の覚悟の舞を見ておきたい、との吉法師の希望にてこの出立前にこの津島で会い、舞を演じてもらう事になっていた。


「しかし若、なぜ突然舞を習いたいなどと申されるのですか?」


 政秀は歩きながら吉法師に問い掛けた。吉法師がこの舞の先生に会う理由について、政秀は吉法師からも信秀からも知らせてもらえずにいた。


 吉法師は敦盛、覚悟の舞は父信秀との会話の中で出たものだが、根幹は自身の将来に対する心構えの問題であり、あまり周囲に話をすべき事では無いと思っていた。


 また信秀においても、吉法師の前で即興ながら舞を演じた事が他に知れ渡ると、皆の変な関心を買い、中には見たいと言う輩も出てくるかも知れぬと考え、これから名実共に尾張の領主を目指す中、早く封印したい出来事になっていた。このため舞の理由については親子二人だけの暗黙の秘密の様になっていた。


 吉法師は政秀の話が聞こえないふりをし、そっぽを向きながら歩いていた。


「こういう事、若はいつも教えてくれないんですよね」


 政秀は少し怪訝な表情を浮かべながら、舞の教室が行われている屋敷へと入って行き、その後を吉法師が続いて入って行った。


 屋敷の中はいくつかの部屋に分かれており、それぞれの部屋で個別に舞の練習が行われていた。しかし各々の部屋の入口は開かれており、演目の鼓や笛の音、そして歌声や笑い声など、各部屋の賑やかな様子が廊下や外に漏れ出ている。二人は各部屋を一つ一つ覗きながら先生を探した。しかし吉法師はこれまで先生に会った事は無いので、各部屋を覗き見しながら進む政秀の後を付いて行くのみであった。


 吉法師は練習している者達の舞を観察しながら歩いていたが、上手いと思える者は見当たらない。この教室は最近開かれたばかりなのであろうか、それとも皆の素養が低いのであろうか、吉法師から見て、舞を習う者たちの演技はそれほど褒められるものでは無かった。


「おかしい、おらぬなー」


 前を行く政秀が先生を探しながら、どんどんと屋敷の奥へと進んでいく中、吉法師はふと一人の娘の舞う姿を見て足を止めた。


 年頃は自分と同じか、少し幼い位であろうか、一人の娘が鼓や笛の音に合わせ、おっとりした面持ちながら情緒のこもった舞を演じていた。人生の儚さであろうか、少し侘しさが伝わってくる演目であったが、手先の動き、足の運び、目線の動きなど素人の動きではない様に感じられた。


 吉法師は暫くの間、部屋の入口越しに舞を演じるその娘に見入っていた。


「若!」


 時間の感覚を失っていた吉法師は突如横から政秀に声を掛けられ驚きの表情を見せた。


「若、ちゃんと後ろから着いて来ていると思っていたのに、気がついたらおらなんで……、こちらが松井友閑先生です」


 政秀の隣には政秀と同年代に見える初老の男が、扇子を片手に立っていた。男は笑みを浮かべて吉法師に語り掛ける。


「お方が吉法師殿か、弾正忠様よりお話は伺っておりますぞ」


 その言葉で吉法師は友閑に向けて関心を移した。しかしやはり視線の横で舞の練習をしている娘が気になり、政秀と友閑との話の間も、チラチラと横目でその娘の方を見てしまう。


「若、こちらの友閑先生は清須の御出身で、今は京の将軍義輝公に祐筆として仕えておりますのじゃ、最初に京で会った時、同郷と言う事で意気投合しましてのー」

「そうそう、あの時の政秀殿はよほど京の都が珍しかったのか、あちこちに行っては(はしゃ)いでおったな」

「お恥ずかしい、京は全国からたくさんの人が集まって来ては、様々な催し物や多くの名品、珍品があって、本当に面白かったからの~、そう言えば、五条通りにあったの福餅の店はどうなったかのぉ」

「まだ今でも店はあるますぞ、店の娘っ子はもう嫁に行って、もうおらんようですがのぉ」

「それは残念」

「政秀殿は福餅より、娘っ子が気に入っていたのであろう?」

「ははははー」


 その後も二人は昔の話で盛り上がっていた。時折その笑い声と共に部屋を覗く者がいたが、一緒にいる吉法師は舞の娘の方が気になっていて、全くうわの空の状態であった。そして何度目だったであろうか、娘の方を見た時、その娘が舞を止め自分達の方を向いているのが見えた。


 吉法師は娘と目が合ったと思いドキッとした。しかしこちらを見ているのは分かったが、実際に自分と目が合ったのかどうかまでは分からない。もしかしたら横にいた友閑先生の方を見ていたのかも知れない。吉法師は生まれて初めて何か胸が詰まる思いを感じた。


「若、友閑先生には今回の訪京で朝廷への仲介役を頼んでおってのぉ、これから京にお戻りの際に儂らも一緒に同行させていただくつもりなのじゃ」


 今一つ政秀の言葉に集中できない吉法師であったが、そんな吉法師に友閑が話を続ける。


「吉法師殿、今日は出立の時間が迫っている故、ゆっくりと時間が取れませんが、先ずは敦盛一指し、ご覧差し上げましょう」


 そう言うと友閑は一番近い舞の稽古部屋に向かって行った。そこは吉法師が気になっていた娘がいる部屋であった。吉法師も後から着いて行ったが、その娘に近付くにつれ、何か更に胸が高鳴るのを感じる


「吉乃さん、少々邪魔しますよ」


 友閑は部屋に入ると同時に、舞を演じていた娘に話し掛け、そして次に舞の演奏の段取りであろうか、そこで鼓や笛を奏でていた者達に指示を与えていた。


 その時吉法師は自分の気持ちが何か浮ついている事に困惑していた。あの娘の名は吉乃と言うらしい。名が分かると次は何処の者か、その身分が気になり出す。しかし今集中しなければならないのは、本物(・・)の敦盛、覚悟の舞を目に焼き付けることである。友閑にこれから演じてもらおうとして中で、自身の意識を高めなければならないと思った。


 吉法師と政秀は部屋の中にいる者達に一礼すると、部屋の端で静かに腰を下ろした。吉乃と言う娘が自分の方をじっと見ているのが感じられる。


 吉法師は練習の邪魔をして気分を悪くさせたかも知れぬと思い、腰を下ろした状態で再度、その視線に対して軽く会釈をした。すると吉乃は微笑みを見せた。先ずは気分を害している様子は無い。吉法師は少しほっとして友閑の舞の準備が整うのを待った。


 やがて準備ができたのか、友閑はこちらを振り向くと、手にしていた扇を開きながら述べた。


「それでは吉法師殿、御覧奉る」


 友閑がそう言って演目を始める構えを見せると、鼓の音が響き、友閑は力強い朗読と共に、華麗な敦盛の舞を演じ始めた。


 人間五十年 下天の内を比ぶれば 夢幻の如くなり 

    一度生を受け 滅せぬもののあらざるべきか


 吉法師はこの友閑の舞を食い入る様に見ていた。この舞を自身の将来に向けた覚悟の舞として習得する、その思いを念頭に友閑の動きの一振り一振りを(つぶさ)に見入っていた。


 さすがに友閑は舞の先生だけあって、父上のへっぽこ舞とは比べ物にならない。吉法師は友閑の舞が終わった後、暫く声も上げられずにいた。


「どうであった、吉法師殿」


 その友閑の言葉に吉法師はすくっと立ち上がり答えた。


「はい、さすがは先生、見事な舞です」


 吉法師はそう言って簡潔に賛美の感想を発したものの、その程度では、自分がこの舞に受けた感銘を伝えるのに言葉は足りないと思った。しかしどの様にして表現したら良いのかだろうかと思っていた時、突然背後から声が上がった。


「先生、すばらしい敦盛の舞でしたわ!」


 吉法師はドキッとした。振り返ると自分のすぐ後ろにあの娘が立っており、友閑の方を向いて笑顔を見せている。


「ありがとう、吉乃さん」


 友閑は吉法師と吉乃の二人の子供が、目を輝かせながら自分を見上げている姿が何とも可笑しく思えた。そして二人の名前を呼んだ時にふと思った。


「吉法師殿と吉乃さんで吉二つ、これから京への出立前に何か縁起が良いのぉ、ははははは」


 友閑のこの二人を繋ぐ言葉に吉法師と吉乃は顔を見合せながら微笑み合った。


 間近で見せる娘の笑顔を見ていると何か気が緩んでいく。吉法師は吉乃の笑顔にすっかり魅かれていた。しかしここに来た目的は、先ず自身の一生をかけた覚悟の舞として、敦盛を習得する事である。吉法師は何とかもう一度気を引き締めて友閑の方を振り返った。


「友閑殿、儂はこの敦盛の舞を自分の生涯の覚悟の舞として習得したい」


 吉法師は初めて他人の前で、自身の舞に対する思いを語った。政秀は吉法師の舞に対する意味の重さを知り、少し驚いた表情を浮かべた。友閑もその舞に対する思いの深さに少し驚きを感じていたが、平静を装って吉法師に答えた。


「吉法師殿、承知しました。しかし残念ながら私はこれから京に向わねばならぬ故、今度尾張に戻ってきた際にまたじっくりとお教え致しましょう」


 吉法師はこの覚悟の舞を習得する事が、武家の嫡男として生きる自分の始まりになると考えていた。そのため出来るだけ早く舞を習得したい、出来るだけ早く覚悟の舞で心を固めて次に進みたいと思っていた。


「友閑殿、次とはいつになりましょうや、儂は早くしたい、いっそ友閑殿、那古野の儂のお城に来てもらえぬだろうか、そうすれば儂も覚えが早い」


 吉法師は無理を承知で友閑に思いをぶつけてみた。その思いは十分友閑に伝わっている。しかし友閑も今の京での仕事を急に投げ出す訳にはいかない。友閑は即座に返答を切り返した。


「ははは、それではもう少し吉法師殿には偉くなってもらわねばのぉ、儂の給金は高いですからな、ははは」


 友閑は吉法師の舞に対する思いが崩れる様な事だけは避けたく、吉法師の残念そうな表情を他所に明るく声を掛けた。


「すぐまた来ますよ」


 友閑は吉法師にそう言った後、吉乃の方を振り向いた。


「吉乃さん、この後吉法師殿に少し舞の基礎的な動きを教えておいていただけますか?」

「分かりましたわ、先生」


 吉法師はこの二人の話のやり取りに驚きの表情を見せた。それは吉法師にとって予想外の話の展開であった。確かに早く舞を習得したいが、これは自身の生涯における覚悟の舞である。それをこの娘の前で習得するとなると、何かその決心が鈍る様な、浮ついた感じになってしまう様な気がした。しかし逆にこの娘との縁が出来ると思うとうれしくも思う。そんな複雑な吉法師の思いを他所に、吉乃は先生に頼み事をされた事が嬉しかったのか、笑顔でやる気を見せている。


 ここで皆の後ろから様子を窺っていた政秀は友閑に歩み寄ると声を掛けた。


「友閑殿、湊で積み荷の確認があるので、そろそろ参ろうと思うが、いかがですかな」

「分かりました政秀殿、もう出立の準備は出来ているので大丈夫です」


 その友閑の返答を聞いた政秀は次に吉法師に言った。


「では若、爺は先に湊の方へ向かいますが、若は、あ、何処かこの後槍柄の木材を色々と試したいと申されておりましたね、友閑殿、この門前町に何処か良い材木問屋はございますか?」

「あぁ、少し参道を上がった所に材木問屋がありますぞ、あそこは昔から色々と良い木材が揃っておる」

「そうですか、では若、爺が湊に着いたら、誰か供の者を来させますから、それまでここで少し舞の基礎を習っておられると良いですかの」


 その時チラッと見た吉乃は相変わらずの笑顔を見せていて、特に迷惑とは思われていない様であった。吉法師は政秀の言葉に対して少し迷った後に頷いて見せた。


「分かった爺、そうする、京への道中達者でな。友閑殿も」

「お気遣い痛み入ります。では」


 そう言うと、政秀と友閑の二人は部屋を出て、屋敷の入口の方へ向かって行った。吉法師と吉乃は部屋を出た所で二人を見送り、また元の部屋に戻って来たが、その時には鼓や笛の奏者達も立ち去っていて部屋は二人きりになっていた。


 吉法師は部屋で吉乃と二人きりの時間が何か妙にうれしかった。吉乃の方へ目をやると自分を見て微笑んでいる。吉法師は少し照れながら微笑みを返したが、この後、ここでどうしたら良いのか、先ずは何を話したら良いか困っていた。そんな時、逆に吉乃の方から話を掛けてきた。


「吉法師様、めずらしいですわ、お武家の方が舞の練習って」


 自分に対して初めて直接声を掛けてくれた。吉法師は吉乃に対しての親近感が増すのを感じていた。


「そうかな?」


 吉法師ははにかんだ表情で答えると、吉乃はまた微笑みを見せていた。


「吉乃殿はなぜ舞を、見た所町人の様だけど」


 この吉法師の問いに、吉乃は少し考える様子を見せて言った。


「うーん、初めは白拍子みたいな、何か変わったものをやってみたかったの、将来何か役に立つかなぁと思って」

「将来って、嫁に行く時?」


 吉法師は唐突に自分の口から『嫁』という言葉が出て少し焦った。吉乃と話しをする事に余裕が出きたからであろうか、それとも相手の縁談事が気になったのだろうか、それは自分でも分からない。しかし明らかにこの娘を意識しているという事だけは分かる。さすがに吉乃にもこれは少し予想外の質問だったのか、一瞬少し驚きの表情を見せたが、直ぐにまた笑顔に戻って言った。


「ふふふ、まさか、でももう何年か経てば分からない、そうしたら舞を習うなんていう自由な時間はもう無いのでしょうね」


 確かにそうだろう、と吉法師は思った。女子は十代も半ばになると、家事情で縁談話が上がってくる。吉乃の様に可愛い娘であれば更に早くから声が掛かるであろうと思う。


「商いですわ」


 吉乃は先の吉法師の質問に明るく答えた。吉法師はやはりこの女子は町人の娘か、と思った。


「生まれが商人の家ですから、何事も商い事を中心に考えてしまうのよね、こんなことすれば儲かるかな~とか、もう病気よね」


 吉乃は自分の言った事が可笑しかったのか、くすっと笑って見せた。吉法師も少し笑みを浮かべながら吉乃に応える。


「そうだな、儂も武家に生まれて、これまで何事も武家の仕来りの中で過ごしてきた。町の皆からすれば、きっと普通では無いであろうな」


 吉法師の話し方や面持ちは立派な那古野の殿様である。


「そうね、吉法師様、ふふふ、お話しの仕方からしてね」

「そうか、ははははは」


 吉乃の笑顔の前では吉法師の殿様の面持ちも緩んでいた。


 暫くの間、部屋で二人だけの時間が続いていた。吉法師は吉乃から扇の持ち方、足の運び方、目線のかけ方など舞の基本的な動作を吉乃に教わっていた。しかし吉乃が近付き、直接その手解きを受ける度に胸が高鳴り、舞の練習どころでは無かった。ましてや覚悟の舞などという生涯の重きものにならず、何かふわふわと浮かれた気分になっていた。吉法師はその度にまずい、と思いながらもどうにもならなかった。何よりもこの様な思いでいる事を吉乃に悟られたくなかった。


「吉乃殿、大分時間頂いたが大丈夫か、今日は祭りを見に行くのあろう」


 本当はもっと長くこうして手解きを受けていたいのに、吉法師は何故か逆の質問をしていた。すると吉乃は部屋から顔を出し屋敷の入口の方を確認した後、答えた。


「おそらく父が迎えに来ると思うのですけど、商いで遅くなる事は良くあるのよ、でももうそろそろ来ると思うのですけど」

「儂の方は湊で搬送の準備に時間がかかっていると思うから、もう少し来るのが遅いかな」


 吉法師はこの二人でいる時間の終わりを感じる様になっていた。今度はいつ会えるか、いやもう二度と会えないかも知れない。そう思うと吉法師は、もう少し、もう少しこの時間が長く続いて欲しいと思う。時間への切なる思いが募っていた。


 するとその時吉法師は吉乃について商人の娘という事以外に何も聞いていないのに気が付いた。また次に会うためにも、もう少しここで吉乃の事について知りたいと思う。もう悠長にどの様に話を切り出すかと考える時間も無いであろう。吉法師は困った挙句、会話として唐突ではあったが、指導の手解きで吉乃が近寄って来た時にその手を捕まえた状態で訊ねた。


「吉乃殿の御実家は何をされておるのじゃ?」


 すると吉乃はにこっとまた笑みを浮かべて答えた。


「吉法師様は那古野のお城の城主さまですよね、実は以前より私は良く存じております」


 吉法師はこの吉乃の言葉を聞いた時、城に出入している商人の娘であろうと思った。しかしそれ以上は分からない。吉法師は益々吉乃の身元が気になっていた。そして吉法師がまじまじと吉乃を見つめると、吉乃は逆にまじまじと吉法師を見つめ返して言った。


「吉法師様、実はね、私……」


 何か含みのある吉乃の言葉と表情、しかしその時であった。


「こんにちはー、吉法師様ー」 


 屋敷の玄関口で声がした。勝三郎である。


 吉法師はこの勝三郎の声を聞くと、接近していた吉乃との距離を瞬時に遠ざけた。話が途中になった吉乃は口籠もる。


「あ、吉法師様、ここでしたか!」


 早々に勝三郎に居場所を見つけられ、もう少し二人の時間を、と思っていた吉法師は内心残念に思いながら勝三郎に声を掛けた。


「か、勝三郎、来るの早かったな」


 この吉法師の言葉に勝三郎は少しむっとした。この間の馬乗りの時の様に、いつもの吉法師であれば遅いと苦言を言う事はあっても、早いと言ってくることはない。勝三郎は今日は頑張って早く来たのだと思いつつ、気を取り直して話を切り出した。 


「吉法師様、門前町の奥の材木問屋、話を聞くとかなり良い所らしいですよ、槍の柄としても色々とありそうなので、早く行きましょう」


 吉法師はもう吉乃とゆっくり話す事はできないと思ったが、まだ身内の迎えが来ない吉乃を一人残して行きたくなかった。それに先程、吉乃が言いかけた言葉も気になり、このまま出るには何か未練が残る思いがあった。しかしそんな吉法師に追い打ちの声が屋敷に響く。


「吉ちゃーん、ここかー!」


 織田造酒丞であった。


「ダメじゃん、吉ちゃん、津島に来るなら儂に声かけなきゃ」


 造酒丞は普段津島を中心に活動をしていた。それは吉法師も知っていたのだが、舞の事はあまり人に話したい事ではなかったので、前もって連絡をせずに訪れていた。しかし吉法師は尾張で自分が考える以上に有名な存在である。吉法師が津島に来ている事は直ぐ民衆の間で噂となり、造酒丞の耳に入っていた。


「材木問屋を探しているんだって、いい店知っているから、さぁ行こう行こう!」


 そう言うと、造酒丞は吉法師の手を引っ張って行った。さすがに造酒丞の力は強く、吉法師の未練など簡単に吹き飛ばしてしまう。


「吉乃殿、また」


 吉法師は吉乃にそれだけ言うと造酒丞と勝三郎に屋敷の玄関口の方へと連れて行かれた。するとその時、逆に表から一人の男子が入って来た。


「吉乃いるかー?、迎えに来たぞー!」


 吉法師は目の前で吉乃の名を気軽に呼び捨てにする声にすぐさま反応した。


 良家ともなれば、親同士で幼い内に内々で婚約を決めてしまう事も少なくない。吉法師は気になったが、その思いは背後から届いた吉乃の言葉ですぐさま晴れる。


「兄上、ここです」


 吉乃は部屋から身を乗り出して、その男子に声を掛けていた。


 吉乃の兄という事が即座に判明し、内心ほっとしている吉法師を横で勝三郎が早く行こう、と急かした。そして表に出る玄関口の手前で、吉法師と吉乃の兄はすれ違い様に顔を合わせた。吉法師が軽く会釈をしたのに対し、吉乃の兄は一瞬驚いた表情をして立ち尽くした後、深々とお辞儀をした。しかしそのお辞儀をした時には既に吉法師はすれ違った後であった。その後、吉乃の兄は慌てて吉乃の所へ駆け寄って行った。


「吉乃、今のは那古野の吉法師様じゃないのか?この様な場に何用で参っておったのじゃ?」


 吉乃は動揺する兄に笑顔を見せながら、屋敷を出て行く吉法師を遠目で見送っていた。



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